はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

忘れられたいと思う事柄ほど忘れてもらえず、覚えていてほしい人には覚えていてもらえない ジョゼ・エドゥバルド・アグアルーザ「忘却についての一般論」

こんにちは。

9月発売の白水エクス・リブリス。

「忘却についての一般論」

 

忘却についての一般論 (エクス・リブリス)

一見すると哲学論か?と思われますが、れっきとした小説です。

原題は”Teoria Geral do Esquecimento”で、何語かはわかりませんが、

Teoria=Theory、Geral=General

と容易に推測され、Esquecimentoは「忘却」であろうとアタリがつく。

直訳のようですが、どうしてこういうタイトルなのかなぁと思いつつ読み進めていくと、最後になってやっと「そういうことか!!」って目からうろこ。

一読目は叙情的な物語を楽しみ、再読の時に「忘却についての一般論とは?」という目線で読むと、全く別な物語が浮かび上がってきます。

 

アフリカの一国であるアンゴラが舞台の物語。アンゴラは、1950年代からの独立運動の末、1975年にポルトガルから独立を宣言。その後内戦状態が続き、1990年代になって終止符が打たれた国です。

主人公はルドヴィカという少女で、1975年頃に姉とその夫に伴われて、首都ルアンダにある高層マンション「羨望館」で暮らし始めます。ひどく内向的な彼女は、姉と義兄が消えた後、羨望館から一歩も出ることなく、30年もの月日を過ごします。

30年!?と裏声になってしまいそうな年月ですが、彼女は玄関を封鎖して立てこもり、蔵書を少しずつ燃やして暖をとり、保存用の食料を細々と食べながらなんとか生き抜きます。その間、時代の証人である羨望館は、戦火を逃れる人が去って空き家だらけになり→アウトローな人が不法に占拠し→内戦が集結した後は取り壊しを待つだけになりました。工事のための足場を利用して空き巣に入った少年サバルに発見された時、彼女はすでに、ほとんど目が見えなくなっていました。

なぜ彼女は外に出ることを拒否したのか?一人籠城した30年間…世間から忘れ去られて生きた30年間、彼女は何かを得たのか、それとも失ったのか。忘れられることを望んだ人間、忘れられることを拒否した人間…羨望館の外で暮らす人々の生き様と対比し、「人から忘れられることとはどういうことか」を考えさせる物語。

 

300ページに満たない中に37もの物語があります。短編とも呼べない、2・3ページほどの覚え書きのようなものが続くので、最初は感動もなく、ぶつ切りのストーリーを追っていく感じになるります。主人公もルドに限らないため、正直、「もっとひとつの物語に入りこませて!!!」ってなるんだけど、いろんな人の物語を多彩な角度から検証するのは、味わい深くもある。

 

ルドの娘が登場したり、失踪事件が専門の探偵が主役のハードボイルド調の章もあり、ユーモアのセンスは抜群。途中、人間が土の中に消えたという謎の話が出てきて、都市伝説か!?と思ったらちゃんと血なまぐさい種明かしがあったりして、この話は面白かった。ただ、著者は意図して、ユーモアを盛り込んだり、明るい話を書いたのかもしれないけど、私が読んだ印象としては、全体的に「暗っっ!!」という感じ。空元気というか、読めば読むほど切なくなってくるんですよね、何故か。

 

さて、著者が書きたかった「忘却についての一般論」とは何なのか。

ルドが家にこもってしまった理由は、ある犯罪のせいでした。それ以来外に出歩くのが怖くなった彼女は、閉じこもりがちになり、数十年の時を無駄にしたのです。内戦によって全市民が缶詰状態だった頃は、皆同じ状況でしたから、彼女としても何か楽しそうな雰囲気はありました。しかしその後、外出できるようになってからも、家から出ず、誰とも関わらない人生を選んだ彼女。

老いて後、サバルという少年に出会って、人との触れあいを取り戻した彼女は、「少女だった自分を、傷ついたままどこかの四つ辻に置いてきた」行為、つまり、過去を強引に忘れ去ろうとつとめてきた自分の行いを深く悔いました。時間はかかったかもしれないが、それを乗り越えて世界に飛び出さなかった自分は愚かで、不幸な人間だ、と。

これらからは、「人の愛がなければ人間は生きていけない」「人に愛されるということは、相手の心に深く刻まれること=忘却の真逆」「過去の自分を忘れようとする行為は悲しい行為」…なんていう教訓が得られるんですが、本当にコレは文字通りの「一般論」で、そんなこと他人から言われるまでもねぇよってなったのは私。私からすると、外にいたら男に襲われて妊娠し、家族から一族の恥扱いされた時点で世界を憎んで当たり前では?と思ってしまう。そんなの乗り越えろっていうほうがハタ迷惑な話で。

神は人々の魂を天秤にかける。片方の皿には魂を載せ、もう片方の皿には、流された涙を載せるのだ。泣く者が誰もいなければ、その魂は下に落ちて地獄へ向かう。涙と悲嘆が十分にあれば、その涙は天国へ…

これ読んだ時は「ほおぉ…」と感動しかけたものですが、ルドはこう続けます。

「いなくなって寂しいと思われる人が天国に行くの。…(中略)…そんなはずはないと思う。こんな単純な話をそっくり信じられたらいいなと思うのだけどね。私は信仰心に欠けているのよ」

また、ルドは「神を信じるには人間への信頼が不可欠(人間を信じない私は神も信じない)」とも言っていて、こちらも、「忘却」について語るには欠かせない定理です。人の善良さを信じることができないうちは、存在は無に等しく、忘却されるまでもない存在である。善き人に出会って初めて人は、忘れられることを恐れるようになる、と。

人は直接関わった人の記憶に残ることで、生きた痕跡を残します。世界と交渉を経っている状態では、すでにいないものも同じ。自分という存在を少しでも大切に思うのならば、人と関わる以外にない、そういうことかもしれません。

とまぁ、「忘却について~」ということに一応の結論を出すならこんな感じですが、堅苦しく考えず面白く読んでほしいです。

 

小説には、とにかく自分の痕跡を消したがる悪の親玉みたいなのが出てくるのですが、彼の思想が「忘却についての一般論」に何らかの示唆をしているように思わせて、別にそういうこともなくて。笑

妻と結婚記念の旅行に出て、「みんなが俺のことを知らないように思える!!」とHAPPYな気分になったり。悪いやつですが、人間臭くて魅力的なキャラではあります。

 

私と同じく、アンゴラ作家が初めての方はたくさんいるはず。

2013年度フェルナンド・ナモーラ文芸賞、2017年度国際ダブリン文学賞と、高い評価を得ているようです。装丁も素敵なので是非。

 

おわり。

驚くべき完成度、魅力的な登場人物…もし自分が小説家なら、こんな小説を書いてみたい!エリフ・シャハク「レイラの最後の10分38秒」(早川書房)

こんにちは。

 

9月発売のこちら。

エリフ・シャハク「レイラ最後の10分18秒」

読み終わった瞬間、「完璧だ!!!」と声が出てしまった完成度。予想以上に素晴らしかったです。彼女、「トルコで最も読まれている女性作家」だとか。

2018年のブッカー賞最終候補だそうです。本屋で目が合って、一目惚れして購入しました。本屋歩きで収穫あると嬉しくなりますよね。

レイラの最後の10分38秒

 

今から30年前のイスタンブール。一人の娼婦レイラが息絶えました。完全な死に向かうまでの10分38秒間、彼女は辛い生い立ち、イスタンブールへ逃げたときのこと、そして、イスタンブールで得た貴重な友のことを想います。

レイラの思い出と5人それぞれのエピソードが、ゆるやかに混ざり合いぶつかり合い、激流に飲み込まれたり…まるで川の流れのように連綿と続きます。

…と、叙情的な前半部に対して、後半はハラハラドキドキの展開。

親族が遺体の引き取りを拒否したせいで、身寄りのない者の墓に葬られてしまうレイラでしたが、5人の親友たちは黙ってはいなかった!!レイラを「本来あるべき場所」に葬るため、なんと深夜の墓暴きに挑戦する彼らの、どこか悲しい一夜の冒険が描かれます。

 イスタンブール…それは不満を抱えた者や夢を追う者がみな行き着く町。治安も悪く事件ばかりのこの町で、望まない生を生きる彼らから、ちょっとだけ勇気を分けてもらう、そんな小説でした。

 

この本の一番の魅力は、宗教とは愛とは友情とは家族とは…こんな漠然としたテーマを率直な言葉で真摯に語り尽くしてくれる点、そして、著者のメッセージが登場人物の意識や言動に練り込まれ、まったく浮いていない点です。

雑な小説の中には、登場人物の生まれ育ち・性格などを作り込むことを放棄するばかりか、全員にとりあえず暗い過去を持たせて「そういう悲しい過去を持っている人同士にしかわかり合えない世界もあるよね」と、悲しみを持つ彼らをを十把一絡げにして、別の世界の住人としてうちやってしまうものも多いと感じます。そしてその中に出てくる「かわいそうな過去を持つ人」は、根は優しく仲間思いで、その過去の出来事ゆえに予測のつかない行動をとりがちだが、びっくりするほど欲がなく、一度信じられる仲間を見つけたが最後、世界全員に対して優しくなれると相場が決まっている。

私の見る限り、彼らは善人でなければならず、”その悲しい過去ゆえ”に誰かを傷つけることは許されますが、いったん”改心”したあとは、アレは嫌コレも嫌とわがままを言うことすら許されない雰囲気すらある。それは、「かわいそうな過去がある人は善き人でないとフォローしきらん」という無言のプレッシャーにも思えてきます。

この小説に出てくるのは、上記に出てくる天使のような登場人物とは違い、かわいそうな過去やコンプレックスを持っていながらも、人並み以上に欲深かったり、「わたしは嫌です!」と断れる強さを持っている生々しい人間ばかりです。だからこそ、「断じて共感できねぇ!」と思うようなことを平気で言っちゃうし、「貴重な親友なんだから、もう少し相手の気持ちに配慮しろや」とたしなめたくなるようなシーンもある。

「切ない過去を持つ人たちが大都会のはじっこで身を寄せ合って頑張る姿」を心のどこかで期待している読者に対し、容赦も忖度もしない生身の人間ぶつかり合いが本当に魅力的だし、彼らの背負っているものをじっくり考え、言い分を素直に聞いてみようと思えるのです。

 

例えば全く違う宗教観。「心の救いである」という人もいれば、「私はこれをしますから、救ってくださいという交換条件の取引としか思えない」という人もいる。「いろんな罰は考えつくくせに、いざ人間に必要とされたときには人間をろくに守りもしない」と痛烈に批判する人もいれば、「信者という家族を得たと言われたが、結局心の平静は得られなかった」と答える人がいます。もちろん言い合いになったりする。

「心の救い」と言った女性は、父と母に愛されて育ってきた女性。「取引」と言った女性は同性愛が露見して故郷を追われ、「いろんな罰は考えつくくせに」といったレイラは、父の弟からの性暴力を家族全員からなかったことにされた過去を持つ。「信者という家族に安らぎはなかった」と言った女性は、自己の改宗によって家族から追い出され、イスタンブールへ流れてきました。それぞれの意見を吟味し、彼らの背景に思いを馳せてやっと、「家族に恵まれたか」というただ一点が、彼らのその後の人生に大きく影響しているのでは、と思い至ります。

このように、心にとどめておきたい一言がたくさん出てくるばかりか、それらが生まれ育ちや、彼らが身につけてきた価値観としっかりリンクし、違和感なく理解できる。それはひとえに、登場人物一人一人に、文字通り命が吹き込まれているからなのでしょう。本当に魅力的な登場人物たち…!!

 

そんな登場人物の魅力は他にもあります。それは、せっっかくできた5人の親友と、傷のなめ合いなんてする気のないパワフルな姿です。彼ら、互いへの無理解が原因のトラブルをしょっちゅう起こしています。間違っても、「私たち、悲しい過去を持っているから100パーセントわかり合えるナカマ!!」なんてことはない。

「家族は大切」という無意識のコメントに傷ついた女性が「血族と水族。良い家族を持ったならラッキーで済ませればいいじゃない。そうじゃない場合だってあるんだ」と悲しみに浸るシーンだってあるし、相手の壮絶な過去を知っていながらもなお、「自分の人生を修復する過程で誰かを傷つけてはいけない(から、今からでも相手に謝ってこい)」と諭すシーンもある。

 

そんな彼らからは「他人の幸不幸を勝手に推し量るな!」というメッセージが読み取れます。同じように辛い過去を持っている親友たちであっても、自分の幸不幸については口を出させない。そんなことされたら、ぶち切れて取っ組み合いさえしそう。

世の中には時々、勝手に他人の人生を「それでも幸せそうだよね」と点数つけてくるやつがいます。ともすればレイラのこんな人生を「複雑な家に生まれ、家族に疎まれたけどイスタンブールに出てきて5人の友を得た。最後は殺されちゃったけど、それでも彼女の人生は総合的に見て幸せだった」なんて評価しようとする人さえいる。でも決して、そんなことはない。レイラは最後「どこで自分の人生を間違えてしまったのだろう」と自問しながら死んでいったのだから。

ある程度の年齢になると、世界は公平でないということに気づくし、皆が皆幸せになることはできないということにも気づき始めます。自分の人生「ハズレ」だったかもしれない…そんなこと自分が一番わかっているのに、「でも君は幸せだよ!!」なんて言われたくないし、絶対言わせない。たとえ親友であっても。

心に大きな「不可侵の領域」を持つ彼らが、自分の気持ちに折り合いをつけながら、それでも助け合って生きていく、そんな関係性が本当に素晴らしい。著者はきっと、友人に恵まれていることでしょう。

 

とにかく著者の視線が優しくて、思いやりに満ち、何度も泣きそうになりました。

自分が小説家だったら、いつかこんな小説を書いてみたい!そんなことを思います。

今年のベスト10間違いなしのこの小説を押しのけて、ブッカー賞を受賞した「誓願」は今月(10月)発売!それも合わせて楽しみです。

誓願

誓願

 

おわり。

 

ラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」

こんにちは。

ラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」

 

2020年3月発売。

あの本は読まれているか

書物が人の意識を変え、ついには世界を変える!そういう夢のようなコンセプトの「ドクトル・ジバゴ」作戦を成功に導いたCIAスパイのお話。ただ、出てくるのは「堅実なスパイ」そのもので、疾走感もなければ緊急事態もない、穏やかなスパイ小説。いかにも!というスパイ小説を期待した人はちょっとがっかりするかもしれませんが、すごく面白かった!

 

この本、主人公は人間ではなく、「ドクトル・ジバゴ」という本そのものかもしれません。

というのも、「ドクトル・ジバゴ」作戦を遂行するアメリカのCIAスパイ女性、対して「ドクトル・ジバゴ」をめぐって辛い経験をした著者のボリスとその愛人オリガ。一言も言葉を発さない「ドクトル・ジバゴ」だけがその中心にあって、皆の悩みの種になったり希望になったりするのですから。

そんな読書家の夢とも呼べるこの本、なんと!実在の「ドクトル・ジバゴ」作戦を綿密に取材し、足りない部分を想像力で補って完成させたという、実際にあった話をモチーフにしているというから驚き。「ドクトル・ジバゴ」ももちろん実在します。(映画のほうが有名らしい)

 

 

 

西:

CIAのソ連部に新たにタイピストとして採用されたイリーナは、スパイとしての才能を買われスパイの訓練を受けることになります。事情を知っているサリー、テディ、ヘンリーなどと、初めて居場所を持ち、充実した生活を送っていたイリーナはついに、「ドクトル・ジバゴ」作戦の重要任務を果たします。しかし、サリーの失踪と秘密の露見により、居場所のない生活に逆戻り…

 

東:

有害本である「ドクトル・ジバゴ」を書いたボリスとの不倫関係のせいで、矯正収容所(思想犯とその関連者を収容して矯正する場所)に入れられたオリガ。釈放後は母親も子どもも捨ててボリスのもとに戻りますが、収容所暮らしの傷は癒えず、ボリスへの不信感も募ります。自分をごまかし続けていますが、スターリンの死を機に、ボリスが「ドクトル・ジバゴ」の出版にまたもこだわり始めるのを目にし、強制収容の日も近いと怯える日々…

 

と、幸薄っ!と突っ込みたくなるような2人の女性が中心人物で、幸多かれと応援したくなる。ズバリ!というテーマもなく、あえて言えば「女の生きづらさ」が随所にちりばめられた、かなりノンフィクションに近いフィクション。ノンフィクションやドキュメンタリーは、自分が思うような結末を迎えないのは世の常ですが、これもそんな感じ。ああ、そういうところに落ち着くか、、、となる。悪いやつはのうのうと生き残るし、良い人間ばかりが割を食う。

 

ドクトル・ジバゴ」は、一見恋愛小説なのですが、ソ連では禁書扱いになっていました。「動物農場」と同じ、反体制的な作品だったからです。それに目をつけたのがアメリカで。これを密かにソ連に広めて、アナタの国ではこーーーんなに情報統制・言論統制されてるんですよ、と、民衆に知らせることで、すごい遠回りではありますが、東側の弱体化を狙っていました。

スターリンの死後、ボリス・オリガはソ連での出版を目指そうと様々な出版社に原稿を持ち込みますが、出版社は及び腰…。諦めようと思っていた矢先に、イタリアの出版社がボリスに出版を持ちかけ、イタリア語訳して出版してしまいます。

CIAでは、手っ取り早く、イタリア語→ロシア語訳でソ連に広める案もありましたが、イタリア語を介しては原文の魅力が失われてしまう(Google翻訳も、日→英→日ってやるとすごいことになるし)と考え、ボリス直筆原稿の入手を決意。ついに万博の日、ドクトル・ジバゴを秘密裏にばらまくことに成功します。

 

この小説で目立つのは、働く女性の不遇に対する風刺。西側では、「同じ大学を出ているのに給料が下」、「女性はタイピストしての仕事しかない」、「成果を全部男に持って行かれる」「女はちょっとのミスで追放されるが、男は様々なチャンスを与えられる」などなど。今はアメリカは相当改善されているのだとは思うけど、「女性は減点法で評価され、男性は加点法で評価される」というのは、日本では未だ現存している価値観だと思います。

個人的に、日本のそういう政策は、この前見た「プラダを着た悪魔」と同じ時代に追いついているかどうか、くらいだと思うんだけど、「女は家庭生活のことで批判されるけど、、男は仕事ができればそれだけで賞賛される…」ってアン・ハサウェイが言ってたし、今の日本は、やっとここら辺の違和感が可視化されてきたくらいだよな~、ってなる。

ただ、MAX期間の育休と10年以上の時短勤務で、出世を完全に諦めモードの事務職女性が最も生き生きしている(自分調べ)であるのと同じように、この小説に出てくるタイピスト達があまり悲観しないところが魅力。噂話に興じ、ランチはおいしい店を渡り歩き、いやな男がいたら全力でグチを言い合う。

タイピストの話に始まり、タイピストの話で終わるこの小説は、イリーナでもサリーでもない、スパイ活動を(なんとなく感じていながらも)遠巻きに眺めていたCIAタイピストが、歴史の中で存在を消されてしまうスパイ女性の物語を、記憶にとどめておこうとする構成になっていて、好き。イリーナやサリーを、男性優位社会と共闘する同士と捉えているタイピスト達が、いたわりの心を持って彼女たちに接しているシーンにじーんとします。

 

「スパイ小説とは違う」と最初に書いたものの、スパイ活動は生き生きと、魅力的に書かれます。例えば万博の時の本の配布。修道女に変装したイリーナらが万博会場に集います。秘密の符牒、最小限の作戦会議、お互いに何者かも知らないながらも連携の取れた行動…。あとは、クリーニング屋を介して書類をやりとりするとか、ベンチに置き忘れた風にやりとりするとか。

個人的に一番好きだったのは、バレないように、既存の本の表紙をくっつけたらどうか?と意見が出て、古典的傑作を偽装した「ドクトル・ジバゴ」が大量に作られるところと、二重スパイが密告によって当局に捕まったときの、「(ホテルの)ボーイ2名が彼の部屋を訪れ、何分か後にボーイ2人は荷物を1つもって出ました」みたいな表現。

 

「ペンは剣より強し」を地で行くような小説。文学が人に与える影響を信じ、いい大人(しかも選りすぐりのエリート)が必死に「ドクトル・ジバゴ」を取り合う様はおかしくもある。この本は、膨大な資料をもとに(2014年に「ドクトル・ジバゴ」作戦の機密文書が公開)空白部分を自分の想像力で埋める中で、生きているうちに得られた違和感も反映して一つの物語に仕立てただろうなぁ…と推察されます。

いくらでも面白い展開に作り上げられそうな事件をあえて見逃し、あくまでも事実に基づくフィクションであることにこだわった著者、結構実力あるのでは??次回以降の作品も自ずと期待されます。

ちなみに著者の名前はラーラ。「ドクトル・ジバゴ」の主人公ラーラからとられている、という嘘のような本当の話。彼女にとっては相当思い入れがあったことでしょう。

 

おわり。

 

 

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ジョン・クラカワー「空へ」

こんにちは。

ジョン・クラカワー「空へ」

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

数年前に「エベレスト」という、1996年にエベレストで起きた大量遭難事件について取り上げた映画がありました。当時映画館でも見て、映像の美しさ、極限状態での人間ドラマに圧倒された記憶があります。極寒の登頂付近で「暑い・・・」といいながら服を脱ぐ男性の姿に衝撃を受け、ずっと忘れられない作品となりました。

今はアマゾンプライムで!!無料で!!見ることができます。読み終わってすぐ再視聴しました。

エベレスト (字幕版)

さて、かたやジョン・クラカワー。

「荒野へ」、「信仰が人を殺すとき」ですっかり魅了されてしまった私は、過去の著作をあたっていたところ、1996年のエベレスト大量遭難事件のドキュメンタリーを発見。映画でも見たこの話、さぞやすごい内容だろうと思って購入したらなんと!!この事件の当事者であることが発覚し、二重に驚き。この本は彼の名を世に知らしめた出世作です。

 

1996年、エベレストの商業登山は社会問題になりつつありました。商業登山とは、ろくに登山具も使えない登山者であっても、760万円(当時の金額)を支払えば、エベレストの山頂を目指せるというもの。自分の身一つあれば、ガイドが山頂まで同行してくれる。そして、ルート工作、酸素などの運搬、食事の世話など、身の回りの面倒ごとはすべて高山帯で暮らすシェルパに丸投げできるというもの。お金次第ではエスプレッソマシンまで持ち込める!!

物語の主人公は、エベレストの商業登山にいち早く取り組み、確固たる地位を築きつつある「アドベンチャー・コンサルタンツ社」のロブ・ホール隊「マウンテン・マッドネス社」のスコット・フィッシャー隊。ロブ・ホールとスコット・フィッシャーはライバル関係にありますが、相手のことは信頼しています。

ロブ・ホールは顧客に対して手厚いガイドを売りにしており、その分費用も高額。対してスコット・フィッシャーは、社名からもわかる通り放置主義。実力のないやつは山に登るな、とも思っています。ジョン・クラカワーは商業登山について取材するためにロブ・ホール隊の一員として山頂を目指します。

 

映画で得た印象は、冬山登山ってチョー危ない、危険すぎる、ちょっとミスればすぐ死ぬ、っていうものでしたが、本を読んで思ったのは実は逆。2つのことを守れば、生きて帰ることは、そこまで難しくない、というもの(もちろん落石・雪崩などに巻き込まれ…という事故は除く)。

一つ目の約束とは、相当な対策。これは、日々のトレーニングに始まり、豊富な登山経験、ルート工作、十分な酸素と荷物…などなど。

二つ目の約束とは、内なる声に従うこと。具体的に言うと「危険を感じたら戻ること」もしくは「決められた時間に引き返すこと」。肝心なのは無事に降りてくることです。登って終わりではない。自分の実力をしっかり見極めて「これ以上は無理」と思ったら潔く下山する

この2つを守ることにより、無事に帰還する確率はぐんと高まるのです。

 

とはいうものの、営業登山では1つめも2つめも金で解決可能。必要な物資も、経験に基づく内なる声も、ガイドとシェルパ頼みで補える。山を聖地と考え、登頂に至る過程を重要視する昔ながらの登山者から見ると、これは人間の思い上がり以外の何物でもなく、だからこそ営業遠征隊は問題視されていたのです。しかし、ネパール政府は対策をとらないばかりか、入山料の値上げにより外貨を獲得しようとさえしていました。

 

エベレスト大量遭難事件は、本当にたっっくさんの人でひしめくエベレストで、数え切れないほどの判断ミスが重なって起きてしまった事件でした。事件そのものについてはwikipediaでも臨場感ある内容を得られるので割愛しますが、人の多さ、お客さん気分の登山客(自覚不足)、ガイド、顧客ともに登頂への執着が強すぎる…こんな要素が複雑に絡み合って、起こるべきして起きた事故であると感じざるを得ませんでした。

皮肉にも、マズい状況をいち早く察知し「こんな状況では事故が起きてしまう…」とつぶやいたロブ・ホールの予言通りになってしまったのです

 

なぜ、人は山に登るか。

「そこに山があるから」以上の言葉を見つけるために、エベレスト登頂に志願したジョン・クラカワーでしたが、商業登山隊のメンバーと過ごす中で違和感を覚えます。話題作りに思えるような動機だったり、記録を残すために登るという人、登ることが夢だったという割には日頃の鍛錬は足りていなさそうな人、クラカワーが最も親しくしたダグ・ハンセンという郵便局員(犠牲者)は、ダブルワークをしてエベレストを目指します。「こんな自分が登ることで子どもたちを勇気づけたい」という思いがある上に、昨年は目と鼻の先で登頂を断念している彼の執着は相当なものでした。

もちろん、気持ちはわかるんだけど、皆「登頂ありき」であり、そこに至る過程や自己の成長にはあんまり興味ナシのメンバーに若干の失望をします。何人かの印象はその後変わることになりましたが。

 

対して、元々クライミングが大好きなクラカワーは、山=聖域、登山=神聖な行為という意識を少しだけ持ち合わせていました。著書の中で彼は、先人の著書を多々引用していますが、長々と引いたのはこれ。

登山の魅力はいろいろに言われるーー個人と個人の関係を単純化してくれる作用とか、友愛をスムーズな相互作用に還元してくれる作用とか、人との感情的な結びつきを他のものへ転化してくれる作用とか

(中略)

加齢や他人に対する脆弱や、個人間の義理、あらゆる種類の弱さ、遅々として進まない平凡な人生、そういったものを生真面目に受け取ることを拒絶しようとする意思があるのかもしれない…

うーーーん!尊い!!!

他にも、固定ロープと自分を固定して登山する商業登山と、信頼できるパートナーと自分を固定する(命を預け合う)昔ながらの登山を比較し、信頼できる山仲間がいないからこそ商業登山を利用するんだ…としみじみ感じていたりもします。

 

山に登る理由なんてもんは人それぞれで構わないですが、登頂にこだわりすぎることは命に関わる大問題です。

こんなエピソードが出てきます。実力も実績も十分にある、単独登攀に挑んだ青年は、ロブ・ホールらよりも数日早く山頂アタックし、あと60分登れば登頂というところであっさり引き返してきます。これ以上登れば無事故で下るのは難しいと判断したから、という理由でしたが、この話を聞いたロブ・ホールは、彼の判断を「なかなかできるものではない」と賞賛するのでした。無事に降りるまでが登山、ということですね。

このエピソードといやでも対比されてしまうのが、ロブ・ホール隊、スコット・フィッシャー隊はじめ、営業遠征隊のメンバーの一部です。14:00までに登頂できなかったら引き返す、という決まりを守らず、一番最後の人が頂上を降りたのはなんと16:00近くになってからでした。その後の悪天候で、大量の人が遭難し、命を落とします。山頂付近でどういう会話が交わされたかはわかりませんが、登頂へのこだわりは隊員だけでなく、登頂者数が翌年以降の営業にもろに直結するガイドにだって十分あったのかもしれないとクラカワーは振り返っています。

 

約1000万円の出費、数週間に渡る休暇、夢、野望…

これだけのものをかけた以上、結果を出すことにこだわるのは想像に難くありませんが、あまりにも多くのものを背負いすぎると、人生ごと山に持っていかれる、そういう意味で山は恐ろしい場所なのです。

「山は身軽で登るべき」

もちろん装備の話ではなく、あれもこれもと山に託すのは相当危険だという印象を受けました。山登りは時に人生に例えられますが、「全力で登ってはいけない」って実は生き方にも通用していたり…なんて思ったり。

 

商業登山を云々することはできませんが、心のどこかに、山の中くらいでは、人間の命は平等であってほしいという思いはあります。本来は命を預け合うバディと、文字通り一蓮托生で登るべきもの。だけど、そんな山仲間作りから登山ルートまでを他人に丸投げした上、自分の力不足のツケまで、金に物言わせて他人(主にシェルパ)に支払わせるのはどうか…と思ってしまう。

ただ、数週間の登山シーズンに、西洋人を神聖な場所エベレストに登らせるのを手伝うことで暮らしているシェルパがいるのは忘れてはなりません。貧困が根底にある以上、根は大変深い問題です。

 

息もつかせず2日で読み終えてしまいました。

描写の細かさに圧倒され、エベレスト登山した気分…とまではいかないけど、ベースキャンプに着いたくらいの気分にはなれました。

 

おわり

 

 

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カズオ・イシグロのジョークの才能にただただ驚かされる カズオ・イシグロ短編集「夜想曲集」

こんにちは。

 

カズオ・イシグロの最新作「クララとお日さま」の発売(2021年3月)が地味に楽しみな今日この頃、短編集「夜想曲集」を読みました。

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

 

老歌手:離婚を前に最後の旅行する元スター歌手とその妻。「結婚によって成り上がかった」妻と、「若い女と結婚して耳目を集めたい」夫の利害が一致した結婚だったが、目的が果たされたため離婚することに。一時は愛していた相手をとの別れは辛いが、このまま目的もなく共にいても余計に惨めになっていくばかりだから…。元スター歌手の大ファンだった青年は「人生は本当に、一人の人間を愛し続けるよりも大きなものなのか?」と自問する。

 

降っても晴れても:大学時代の友人夫婦を訪ねた主人公の男は、友人夫婦の関係がぎくしゃくしているために胃が痛い思いをする。しかも親友に関係の修復を依頼され、怒り心頭。親友は成功者で自分はただのフリーターであるという劣等感もあり爆発寸前の彼は、親友の妻(自分の古くからの友人でもあるし昔少し好きだった)が自分を「イライラ王子」と呼んでいるのを知ってしまい…

 

夜想曲:ブ男のサックス奏者が超一流整形外科医のもとで整形することになった話。一時的ではあるが超セレブの女性と隣の部屋で療養することになり、親しくなる。一時の友情を別れの物語。

 

などなど。

モーバンヒルチェリストは退屈なので早々に断念しました。笑 

「老歌手」は余韻に浸れる良い話だけど、あとは普通の話で、オチもない。それでもこの短編集をオススメしたい理由はただ一つ、「カズオ・イシグロのジョークがめっちゃ面白いから」です!

カズオ・イシグロは、冗談が通じず、向き合っていてもむっつり黙っているタイプだと勝手に思い込んでいましたが、そんなことはない。英国ジョークなのか、気の利いたことをたくさん言って笑わせてくれます。腹を抱えて、とまでは言えないけど、「マスクがあって良かった」と思えること請け合い。

 

たとえばサックス奏者が整形するよう説得させられるシーン(「夜想曲」)。妻が他の男のもとに飛び出していき、間男が整形費用を持つという謎の展開にもニヤけてしまうんだけど、それ以上に、彼らの熱意が笑えるほどスゴイ。

妻:「ちょっとメスを入れてみたら??」、「かっこいいドライバーになりたければかっこいい車を買じゃない?整形もそれと同じことよ!」と力説。

何をそんなに熱くなっているんだ?と突っ込みたくなるような熱意で整形を決意させるシーンは、整形に対する日英の考え方の違いなのか、コメディなのか判別しかねる。

 

「振っても晴れても」は一番オススメ。とある理由から親友の家をめちゃめちゃにしてしまった主人公は、「近所の犬が入り込んできた」ということにして責任逃れをしようと画策します。犬の臭いを再現するために、数々のスパイスと使い古しのブーツを煮込むんだけど(この秘伝?のレシピは大学時代に開発した)、結局うまくいかず、完成品に対して「これは…まぎれもなく…ハイキングをした後のブーツの臭いだ」と真顔でコメントする。

 

このジョークを日本語にかえる訳者のセンスにも脱帽です。

カズオ・イシグロのイメージががらっと変わる一冊でした。

 

おわり。

 

 

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「世界は良い方向に向かっている」という大いなる勘違い ジョージ・オーウェル「動物農場」

こんにちは。

 

ジョージ・オーウェル動物農場」。あの有名な「一九八四年」の著者であります。

数年前までは古書でないと手に入らなかった本作。最近(といっても2017年)新訳されたそうで、多くの書店で平積みされているのを見かけます。いろんな出版社から出ていますが、個人的には早川がオススメ。訳がシンプルで読みやすく、とても良いと思います。また、訳者あとがきも丁寧。

動物農場〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

 

そういえば、ジョージ・オーウェルの「一九八四年」について言うと、「社員を監視したいという願望が『一九八四年』を彷彿とさせる」という記事がネットで話題になったせいで、ここ数日検索上位に上がってきていますね。「一九八四年」は強固な権力による監視社会というディストピアを描いたものに対し、「動物農場」は、権力と腐敗が生まれていく過程を描いたものです。

 

メイナー牧場のジョーンズ氏のもとで働かされている家畜たちは、日々の生活に不満を持っていました。そんな彼らに対し、「牧場を自分たちのものとして自治を敷こう」と呼びかけたのが老ブタのメイジャー。人間を追い出し、皆が平等で幸せに働ける牧場を作る夢を語ります。「イギリスの獣たち」という誇り高い歌を合言葉に、彼らは闘争を誓うのでした。

ほどなくして老メイジャーが亡くなり、その後すぐ、労せずして牧場の乗っ取りに成功します。牧場の名を「動物農場」と改めた彼らは、「七戒」という決め事のもとに新しい生活を始めますが、善良な家畜たちは、うかうかしている間に、スノウボール(ブタ)、ナポレオン(ブタ)らに実権を握られ、数年後にはメイナー牧場以下の生活を強いられるようになります。

「人間が人間を統治すること」の危うさ・曖昧さ・独り善がり感が垣間見えるこの作品。書かれた当時は、現政権を露骨に批判する作品として、発禁スレスレだったそうです(ナポレオンもスノウボールも、皆モデルがいる)。

それでは、独裁体制の作り方を丁寧に見ていくとしましょう。

 

1.決まり事は様々な解釈ができるようにしておく

皆が従うべき「七戒」でしたが、これがどんどん変わっていきます。「ベッドで寝てはいけない」はずが、”シーツを使って”寝てはいけない。と変わっていたり、「動物を殺してはならない」だったはずが、”理由もなしに”が付け加えられていたり。そして最後には「皆平等である」に但し書きが加えられて…。

日本語だとわかりにくいんだけど、後々、”with"とか"without"などという条件があからさまに書き足されている様が面白いです。条件付けて、細々したところで但し書き付けて変えていって、最終的には無効化…!あるあるですね。

 

2.共通の敵を作る

待遇やルールの違いに文句を言うと「今私たちがそんな状態では、人間の奴らが攻めてきたときにどう対応するんだ??」と切り返されます。「今はそんな些細な問題よりも、国家の一大事ですからね!文句を言って和を乱すなんて最低!!!」っていう雰囲気作りと同じ。そんなこと言われたら、なんも言えねえ…。

また、共通の敵は「仮想の敵」でもOKです。ナポレオンにハメられたスノウボールは、スパイ容疑をでっちあげられて牧場を追われます。そればかりか、スノウ一派は怪しい裁判にかけられて全員殺されるのです。陰謀論、スパイ容疑…なんでもあり。一時的に国民の目をそらせることができれば問題なし。

 

3.生まれた時からの洗脳が大事

ナポレオンは「教育が大切」と、産まれた子犬を自分で育てていました。当初、みんなはそのことに対して無関心でしたが、数か月後、ナポレオンの忠実な用心棒としてお目見えした際にはびっくり仰天。狂犬たちはマジでヤバいので、誰も異を唱えなくなります。また、ナポレオンは学校を作り、自分の子を教育してお世継ぎも育て始めます。教育機関で洗脳されるのは怖い感じしますね。

 

4.優秀な報道管制

ナポレオンの忠実なしもべの一人に、スクウィーラーというブタがいました。しもじもの者と交わり、困りごとや要求をナポレオンに伝えるという役割に見えますが、実際は不穏分子を察知して消したり、まことしやかに語られるアレコレを否定して回る優秀な広報官でした。彼の活躍により、しもじもの者は「やっぱり動物農場は良いところだ!」と信じ込まされるのです。

 

5.リーダーは辛いよアピール

ブタのやりたい放題の発端は「牛のミルク紛失」事件でした。今までは人間に奪われていた牛のミルクを、搾乳して脇に置いておいたら、いつのまにか紛失していたのです。最初は不思議な事件として扱われていましたが、ある時「牧場経営で大変なブタが飲むべきだ」と、それらしい理由をつけられブタに独り占めされてしまいます。その後は大麦もブタに取られ、食料の配分は超不平等になります。

彼らの根拠は、「自分たちの仕事は特別である。自分たちがいないとお前らは立ち行かなくなるんだぞ!」なのですが。国民に信頼されていないのに全力で居座る政治家たち…ああ、銀英伝にこういうシーンあったな。ってなる。

 

他には、

・新しい賞(ポスト)を作って自分に授ける。

・過去のことについて嘘つく。あの戦いのとき自分は八面六臂の活躍で!!と自伝を捏造。

・失策はお祭り騒ぎでなかったことに

・数字ごまかす

・裏取引

などなど…

 

ナポレオンをとんかつにして食ってやりたいとか、いろいろな気持ちになるこの本なのですが、とりあえず思うのは「おかしいな」と思ったときには体制作りは終わっているってこと。強固な権力とそれを守る体制ができてしまった後では手遅れなのは間違いないようです。

 

あとがきによると、反乱もせずに圧政を黙って認めている民衆に対する揶揄も存分に込められているということでした。まぁ、…監視体制が敷かれ、団結もできなくなっている状態では、何か言ってもイヌに食われて終わりな感じもするしなぁとは思う。ただ、後半にズバリ書かれているコチラは示唆に富んでいます。牧場ができた当初と比べ、状況が明らかに悪化している中、彼らは、

メイジャーが予言した動物たちの共和国、(中略)いつの日か、それはやってくる。すぐにではないかもしれない。今生きる動物たちの生涯には実現しないかもしれない。それでも、それはやってくるのです。 

 と頑なに信じているのです。信じているからこそ、今何もしなくても、孫やその孫の代にはきっと幸せな世の中が訪れるから、我々は圧政に耐えていれさえすればOKだと、日々の激務にエクスタシーさえ感じてしまう阿呆な輩がたくさんいる。

民衆に対する揶揄というのは、そんなわけねーーーよ!という著者のメッセージなのです。

「神の見えざる手的なものにおいて、この世の中はマクロに見ると良くなり続けていく」(=人間の世界は、放っておいても徐々に幸せになっていく)意見と、「我々の権利は、意識して守らないと取り上げられてしまう」(=個々人の幸せは守るべきもの)という意見は、ネットで見ていても、いろいろな議論の場で拮抗しているように思います。私は断然後者なんだけど、前者を信じて「あんまり悲観的にならないでよ!!!気分悪いわ!」と、他人を神経質扱いしてくる迷惑な人間がいます。

そういうタイプの9割以上は、緊急事態宣言下では鬼のように布マスク縫ってエクスタシーを感じていた系だと思う(偏見)

 

ということで、真の民主主義の実現っていうのも困難なんだなぁということがわかります。ほとんどの動物が事態を楽観視し、物事を批判的に見る動物が超少数派のため、結局はブタの言いなりになってしまう。

また、小説には、ネコっていう食えない奴も出てきます。働きもせず、意見も持たず、でも、飯のときにはちゃんと戻ってくる。ネコは甘い言葉に騙されやすいですから、票を得たければ適当なことを言っておけばネコ票は堅い。「動物農場」では選挙はありませんでしたが、ネコがある程度の数住んでいれば、彼らだって一匹一票持っているわけですから、選挙戦略も変わってくるわけです。そうするとどんどん、理想的な世界からは遠ざかるんですね。衆愚政治に陥り、また変な感じになるという。

 

そしてそれ以上にモヤモヤしてしまうのが、仮にブタをトンカツにして葬り去ったとしても、その後は誰が実権を握るのか?攻めてくる人間から守れるのか?という問題が浮上するのです。だったらある程度のところで我慢するのか?それでも理想の世界を求めるのか…?理想の世界とは…?

 

とにかくモヤモヤする本。自分なりの解決策が見いだせないんです。2時間くらいで読めるのですが、重い…というか超胸糞悪い。

ただ、今晩は1000倍返しがあるので、権力に対する怒りは半沢直樹に託すとします。

「一九八四年」ともあわせて是非。

 

おわり。

 

超難解ではあるけど、格闘する価値はアリ。231ページからが本番です!「ソロモンの歌」トニ・モリスン

こんにちは。

 

…100ページ弱まで読んでおもしろくなかった本、捨てるべきか、おもしろくなるのを待って読み続けるべきか、それが問題だ。

それっぽく言ってみましたが、格言でも何でもなく、私の日々の悩み事です。笑 本の虫あるあるかもしれませんが、みなさんどんなもんでしょう?私はポイする派ですが、この本!なんと、231ページを過ぎてからやっと面白くなってくるんです!

ノーベル賞作家というネームバリュー、オバマ元大統領が人生最高の書と挙げているという前評判、そして、結構高かった(1500円)というプレッシャーを感じながら意地になって読み進めていたら、なんと、231ページにして道が開けたという…!まずはこのことに感動してしまいました。読み続けるという選択をしてよかった…!

 

ソロモンの歌 (ハヤカワepi文庫)

 

時は1930年代~アメリカ。物心ついてからも母の乳を飲んでいた(飲まされていた)せいでミルクマンとあだ名された男の子が主人公です。

彼の母ルースは、その地域で愛されていた医師の娘。メイコンという夫をもち、2人の女の子(ミルクマンから見たら姉)と1人の息子に恵まれました。メイコンは実業家で成り上がり。若い頃から人に尊敬され、不自由なく暮らしてきた義父とは反目していました。夫婦仲は悪く、母が殴られることもしばしば。ミルクマンは、メイコンの妹で、密造酒を作って生計を立てているパイロットや、彼女の周りの人たちと親しくなることで、家庭での寂しさを紛らしていました。

ミルクマンが10代後半になったある日、母を殴った父を殴り返したミルクマンに父は、母の秘密を聞かせるのです。そこから母を憎む日々が始まりました。数年後、母の不倫現場を押さえようと母を尾行したミルクマンは、母から真実を知らされ、しだいに自分のルーツに興味を持つようになります。

と、ここらへんで231ページ。こっからがめちゃめちゃ面白い!

 

読みにくい理由はいくつかありますが、まずは話があちこち飛ぶところと、こまごましたエピソードが乱立しているところ。しかも、読んでいて気持ちのいいエピソード(情景)でもなくて…。人の肌が湿っている様を溶けた砂糖に例えたり、ブドウの汁が手についてそれが青い筋になって服に垂れるという様子とか、生々しく、においまで漂ってきそうな鮮かさで描かれるから、読み進めようにも躊躇してしまう。

そして最大の読みにくいポイントは、「かなり先になるまで、ミルクマンの声(言葉)が聞こえない」というところ。セリフはいくつかあるものの、彼の「思考」としてそれらしいものが提示されるのは、

この世で知っていることは全て、他人から聞かされたこと

と、

自分が他の人間の行動や憎しみを受け入れる、ゴミ箱でもあるような気がした

という言葉によってです。

これはおそらく、ミルクマンの成長の表現であり、親に対して抱き続けてきた幻想が消えた象徴的なシーンなのでしょう。幼い子は、親の作った世界を「絶対」と思って生きています。親の言うことが最も正しい。親は良き人間であり、最も正しい愛を自分に注いでいる…。しかし、「それは違った」と気付いたその時、ミルクマンは自分の家族を客観的に評価するようになるのです。ミルクマンが客観的な視点を持った231ページ以降、読者もいろいろ客観的に判断するための素材を与えられるという構成になっている。

…だから読みにくかったのか!

 

ミルクマンが父を殴った日、父が息子に語ったことは、母の淫らな一面でした。その後のストーリーは、やや父の言葉を裏付けるような展開で、読者としてもそれを信じてしまう恰好になります。しかし、そこからまた何十ページも先、母の話を聞くと実は違ったということが判明する。

ただ、問題は父と母どっちが正しいかってことじゃなくて、父も母も、息子にそんなプライベートなこと聞かせる必要ある?っていうところが大問題だし、それ以上に一番根が深いと思うのは、母が息子に語った「私があなたにどんな悪いことをしたというの?」という呪縛の言葉。母から見たらそうだろうけど、他人から見ると、大きくなるまでおっぱい吸わせてたところとか、「20歳を過ぎたころから夫に抱かれなくなって辛かった」と息子に語ってしまうあたり、控えめに言っても、「ギルティ!」ってなる。

息子を「玩具」として扱ってしまう悪。それは夫に愛されないことに起因する愛着障害だと思いますが、ルースの行動や発言全てに迫力がありすぎて、何も言えなくなります。愛と憎しみと執着と嫉妬…荒々しい感情の渦に、読んでいるこっちまで胸が痛くなる。そして、こういうテーマを扱った際にありがちな「明確な決着がつかない」というモヤモヤは健在です。

 

さて、トニ・モリスンが高く評価されているのは、人種差別という社会課題に正面切って取り組んだところです。ここからは人種差別パート。

ミルクマンには、ギターという友人がいました。彼は、黒人が殺されるたびに白人を殺す「七曜日」という秘密結社(秘密結社!!!)に所属し、残虐な犯行に手を染めています。本人は、怒りや憎しみではなく、「ただ数をそろえるだけだから」と称し、活動しています。「人種差別」というテーマにのみついていうと、若干わかりやすいコメントをしてくれるのはギターとなりますが、それ以上に、人種差別が根付いた社会で生きることの実態を描いたという点も、この小説が評価されている理由だと思います。

例えば、商業施設でよくある「〇〇人目のお客様!」というイベント。本来なら黒人少女だったものの、彼女をスルーし、次に来た白人を選んだ、という話。黒人が使えるトイレはあそことあそこ…という自然な発言。そして、黒人が狙われた殺人事件に対する地元警察の対応などなど…そこに、「南部は」「北部は」という言葉もついてくるので、歴史的な背景に詳しくないと置いてきぼりを食らいます。

ただ、差別の根っこが大変複雑であるということは、すごくわかる。差別されているから可哀想。守ってあげよう!という単純な図式ではない。白人に家を貸している黒人もいる、子どもを育てるにあたり、黒人に対する差別発言を聞かせまいと配慮する母親もいたりする。差別を悪いことと思っている人もいれば、悪いことと思っていない人もいる。そういう人たちが一つのコミュニティで暮らし、差別が普通のこととして浸透している。間違っても「差別ってダメだよね」「差別されている人って可哀想だよね」というコメントなんかできないレベル。

 

 

トニ・モリスンの作品。「青い眼がほしい」は既読ですが、正直、「読み続けるのが苦痛になる瞬間があるくらい難しい!」というのが本音。共感できる部分は少ないし、むせかえりそうになる生々しさもある。ただ、やはり理解しようと格闘する価値はあるかな~、、、と、思わないこともない(弱気。笑)

 

あとは彼女の魅力というと、とにかくぽっと出てくる言葉が深イイ!ところ。

例えば、「雪崩をヘリから眺める救助隊員は『これは自然現象だな』と思うけど、実際に雪崩が直撃した人間は、これは自分を狙っている(自分だけに向けられた悪だ)と感じる。悲劇もそれと同じ」というような言葉。これは…!!!と、はっとしました。

 

まあ、1年に1冊格闘するくらいでちょうどよいかな…。

いつか「ビラヴド」を読んでみたいんだけど、なかなか手に入らないです。

 

おわり。

 

 

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