はらぺこあおむしのぼうけん

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ラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」

こんにちは。

ラーラ・プレスコット「あの本は読まれているか」

 

2020年3月発売。

あの本は読まれているか

書物が人の意識を変え、ついには世界を変える!そういう夢のようなコンセプトの「ドクトル・ジバゴ」作戦を成功に導いたCIAスパイのお話。ただ、出てくるのは「堅実なスパイ」そのもので、疾走感もなければ緊急事態もない、穏やかなスパイ小説。いかにも!というスパイ小説を期待した人はちょっとがっかりするかもしれませんが、すごく面白かった!

 

この本、主人公は人間ではなく、「ドクトル・ジバゴ」という本そのものかもしれません。

というのも、「ドクトル・ジバゴ」作戦を遂行するアメリカのCIAスパイ女性、対して「ドクトル・ジバゴ」をめぐって辛い経験をした著者のボリスとその愛人オリガ。一言も言葉を発さない「ドクトル・ジバゴ」だけがその中心にあって、皆の悩みの種になったり希望になったりするのですから。

そんな読書家の夢とも呼べるこの本、なんと!実在の「ドクトル・ジバゴ」作戦を綿密に取材し、足りない部分を想像力で補って完成させたという、実際にあった話をモチーフにしているというから驚き。「ドクトル・ジバゴ」ももちろん実在します。(映画のほうが有名らしい)

 

 

 

西:

CIAのソ連部に新たにタイピストとして採用されたイリーナは、スパイとしての才能を買われスパイの訓練を受けることになります。事情を知っているサリー、テディ、ヘンリーなどと、初めて居場所を持ち、充実した生活を送っていたイリーナはついに、「ドクトル・ジバゴ」作戦の重要任務を果たします。しかし、サリーの失踪と秘密の露見により、居場所のない生活に逆戻り…

 

東:

有害本である「ドクトル・ジバゴ」を書いたボリスとの不倫関係のせいで、矯正収容所(思想犯とその関連者を収容して矯正する場所)に入れられたオリガ。釈放後は母親も子どもも捨ててボリスのもとに戻りますが、収容所暮らしの傷は癒えず、ボリスへの不信感も募ります。自分をごまかし続けていますが、スターリンの死を機に、ボリスが「ドクトル・ジバゴ」の出版にまたもこだわり始めるのを目にし、強制収容の日も近いと怯える日々…

 

と、幸薄っ!と突っ込みたくなるような2人の女性が中心人物で、幸多かれと応援したくなる。ズバリ!というテーマもなく、あえて言えば「女の生きづらさ」が随所にちりばめられた、かなりノンフィクションに近いフィクション。ノンフィクションやドキュメンタリーは、自分が思うような結末を迎えないのは世の常ですが、これもそんな感じ。ああ、そういうところに落ち着くか、、、となる。悪いやつはのうのうと生き残るし、良い人間ばかりが割を食う。

 

ドクトル・ジバゴ」は、一見恋愛小説なのですが、ソ連では禁書扱いになっていました。「動物農場」と同じ、反体制的な作品だったからです。それに目をつけたのがアメリカで。これを密かにソ連に広めて、アナタの国ではこーーーんなに情報統制・言論統制されてるんですよ、と、民衆に知らせることで、すごい遠回りではありますが、東側の弱体化を狙っていました。

スターリンの死後、ボリス・オリガはソ連での出版を目指そうと様々な出版社に原稿を持ち込みますが、出版社は及び腰…。諦めようと思っていた矢先に、イタリアの出版社がボリスに出版を持ちかけ、イタリア語訳して出版してしまいます。

CIAでは、手っ取り早く、イタリア語→ロシア語訳でソ連に広める案もありましたが、イタリア語を介しては原文の魅力が失われてしまう(Google翻訳も、日→英→日ってやるとすごいことになるし)と考え、ボリス直筆原稿の入手を決意。ついに万博の日、ドクトル・ジバゴを秘密裏にばらまくことに成功します。

 

この小説で目立つのは、働く女性の不遇に対する風刺。西側では、「同じ大学を出ているのに給料が下」、「女性はタイピストしての仕事しかない」、「成果を全部男に持って行かれる」「女はちょっとのミスで追放されるが、男は様々なチャンスを与えられる」などなど。今はアメリカは相当改善されているのだとは思うけど、「女性は減点法で評価され、男性は加点法で評価される」というのは、日本では未だ現存している価値観だと思います。

個人的に、日本のそういう政策は、この前見た「プラダを着た悪魔」と同じ時代に追いついているかどうか、くらいだと思うんだけど、「女は家庭生活のことで批判されるけど、、男は仕事ができればそれだけで賞賛される…」ってアン・ハサウェイが言ってたし、今の日本は、やっとここら辺の違和感が可視化されてきたくらいだよな~、ってなる。

ただ、MAX期間の育休と10年以上の時短勤務で、出世を完全に諦めモードの事務職女性が最も生き生きしている(自分調べ)であるのと同じように、この小説に出てくるタイピスト達があまり悲観しないところが魅力。噂話に興じ、ランチはおいしい店を渡り歩き、いやな男がいたら全力でグチを言い合う。

タイピストの話に始まり、タイピストの話で終わるこの小説は、イリーナでもサリーでもない、スパイ活動を(なんとなく感じていながらも)遠巻きに眺めていたCIAタイピストが、歴史の中で存在を消されてしまうスパイ女性の物語を、記憶にとどめておこうとする構成になっていて、好き。イリーナやサリーを、男性優位社会と共闘する同士と捉えているタイピスト達が、いたわりの心を持って彼女たちに接しているシーンにじーんとします。

 

「スパイ小説とは違う」と最初に書いたものの、スパイ活動は生き生きと、魅力的に書かれます。例えば万博の時の本の配布。修道女に変装したイリーナらが万博会場に集います。秘密の符牒、最小限の作戦会議、お互いに何者かも知らないながらも連携の取れた行動…。あとは、クリーニング屋を介して書類をやりとりするとか、ベンチに置き忘れた風にやりとりするとか。

個人的に一番好きだったのは、バレないように、既存の本の表紙をくっつけたらどうか?と意見が出て、古典的傑作を偽装した「ドクトル・ジバゴ」が大量に作られるところと、二重スパイが密告によって当局に捕まったときの、「(ホテルの)ボーイ2名が彼の部屋を訪れ、何分か後にボーイ2人は荷物を1つもって出ました」みたいな表現。

 

「ペンは剣より強し」を地で行くような小説。文学が人に与える影響を信じ、いい大人(しかも選りすぐりのエリート)が必死に「ドクトル・ジバゴ」を取り合う様はおかしくもある。この本は、膨大な資料をもとに(2014年に「ドクトル・ジバゴ」作戦の機密文書が公開)空白部分を自分の想像力で埋める中で、生きているうちに得られた違和感も反映して一つの物語に仕立てただろうなぁ…と推察されます。

いくらでも面白い展開に作り上げられそうな事件をあえて見逃し、あくまでも事実に基づくフィクションであることにこだわった著者、結構実力あるのでは??次回以降の作品も自ずと期待されます。

ちなみに著者の名前はラーラ。「ドクトル・ジバゴ」の主人公ラーラからとられている、という嘘のような本当の話。彼女にとっては相当思い入れがあったことでしょう。

 

おわり。

 

 

dandelion-67513.hateblo.jp