はらぺこあおむしのぼうけん

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「栄辱」を軸に、父と娘、女と男、そして西欧とアフリカの価値観を見事に対比させた作品。「恥辱」J・M・クッツェー

こんにちは。

名前だけは知っていたクッツェー。語呂がいいですよね、クッッッツェェェー!と存分にためて呼んでみたい。「恥辱」J・M・クッツェー

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

彼はこの作品でブッカー賞史上初、二度目の受賞を果たします。

 

 

我らが主人公、53歳の大学准教授デイヴィッドが高級娼館に入っていくところから物語は始まります。ベッドではこういう感じの女がいいという(大変どうでもいい)情報が開示されたかと思えば、自分の性欲について達観した(ような)意見を述べるなど、「うわぁ…」という立ち上がり。

「小さくて形のいいバスト、上を向いた乳首…!」と若い女の体を賛美しながらも、欲望を持て余し、医者に何とかしてもらおうか、と悩むデイヴィッド。パイプカットならぬイチモツカットに真剣に思いを馳せ、「椅子に腰掛けていちもつをちょん切る男の姿と、同じ男が女の体で歓んでいるのはどちらがみっともないか…」なんて考えたりもする。

 

同世代よりも知的で、自分の性質を理解し、年相応の諦念も持っている自分に概ね満足し、「わかる男」であることを密かに誇っているデイヴィッドでしたが、教え子のメラニーと関係を持った事で彼は職を追われます。セクハラで査問会にかけられた際、訴えが事実かと問いただされても、すぐに抽象的な議論にすり替えてしまうさまは、どこにでもいる謝れないオジサンを彷彿とさせる。復職の可能性を自らフイにして彼は、娘の住むアフリカのド田舎に引っ越します。

 

責任もとらず、何かあればすぐ逃げようとするデイヴィッドの浅はかさに戸惑い、これがブッカー賞…?と少し疑いを持ち始める、ここまでが前半部。

作品紹介には「二度の結婚と離婚を経験し、手頃な女で性欲を処理してきた53歳の大学准教授が教え子に手を出したことで大学を追われ、田舎に引っ込むがそこでさえ審理が待ち受けていた…」ということが書かれおり、結局田舎に引っ込んでも、女がらみでトラブって、そこで「恥辱」にまみれるというタイトル通りの(安易な)テーマなのか…なんていうことを想像してしまいがちですが、それは大きな間違いで、この”審理”っていうのがひとりの人間の今までの人生を根底から覆すほどの威力を持っており、さすが…と唸ってしまう作品。

 

娘のルーシーのもとに引っ越し、田舎での牧歌的な暮らしに意味を見いだし始めたある日、家に強盗が押し入ります。金になりそうなものは根こそぎ盗まれ、家の中はめちゃくちゃにされ、そしてルーシーも無傷では済まず…。立ち直りを模索する中、被害をなかったことにしてアフリカに暮らし続けることを望むルーシーと、アフリカの家を引き払い、母親の暮らすオランダへ帰ることを勧めるデイヴィッドの間には決定的な亀裂が入ります。

 

「栄辱」を軸として、父と娘、女と男、そして西欧とアフリカの価値観を見事に対比させた作品。単純に見えて複雑…そんな人と人の交わりにおける”混沌”を、無理のない形で描ききった作者の技量に感服してしまいます。

秩序だった西欧的価値観の中で欲望だの本能だのを涼しい顔で語っていたデイヴィッドが、アフリカという本能剥き出し・弱肉強食の世界に放り込まれて傷を負い、齢50を超えてもう一度自分の生きる意味を定義し直そうとする様子は、胸に迫るものがある。

 

 

何かを考えるときに、やたらと視点をマクロにしたがる人がいます。何か問題があると、それを地球規模で眺めてみたり、統計的に見てみたり、歴史の流れの中で考えてみたり。宇宙目線で問題を捉え「ちっぽけなこと」と自分の話を矮小化して片付けようとする人がいる。

自分の身に降りかかったことをありふれたこととし、犯人を知っているのに警察に突き出すこともしないルーシーもそうです。アフリカ出身でもないのに今の土地にしがみつこうとするルーシーは「歴史」を言い訳にします。白人がアフリカの人間を迫害したことに対して憎しみをぶつけられてもしょうがない。”過去の過ちの償い”と、全世界の不幸を一身に背負っている風を装い、トンチンカンな理論で奴隷の身に安住しようとする彼女。

少なくとも自分が呼吸し暮らす世界では、自分の抱える問題は自分だけの問題であるし、超えなければない山であることには何ら変わりないのに(なんで歴史の話にすりかえちゃんだろう)…とその頑なさにイライラさせられ通しなのですが、それは昔のデイヴィッドの姿にも重なるものもあって、それだからこそデイヴィッドも、ルーシーと同じように悩んでしまうのです。

 

栄誉とはなにか、恥辱とはなにか。男と女、アフリカと西欧で大きく異なる価値観に翻弄されたデイヴィッドは、男として、父として苦しみながらも自らの人生を再構築します。人間はある一定のレベルで老いると、経験から何も得るものはない、なんてうそぶいていた男がもがき苦しみながら得たささやかなもの、それは愛。愛という言葉を、抽象的な概念でしか語ってこなかったデイヴィッドが、最後に真摯な心から「愛」をいう言葉を口にするラストには、胸揺さぶるものがあります。

 

うすっぺらく見える前半部から、読者を混沌に巻き込む怒濤の展開。300ページあまりの短い小説の中に、そんな力が込められているなんて…!と圧巻!ブッカー賞とはかくあるべし。と、小説のクオリティに感動してしまいました。

これまでSF的な作品が多く、この作品が初めてのリアリズム作品となったクッツェー。訳者後書きで紹介されていた”Slow Man”という作品にも期待してしまいます。

 

おわり