はらぺこあおむしのぼうけん

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殺人事件をトリガーに、宗教を一から捉え直し定義し直そうと試みた大作「信仰が人を殺すとき」ジョン・クラカワー著

こんにちは。

 

「信仰が人を殺すとき」ジョン・クラカワー著

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき…と言われても、戦争の大きな原因の一つは宗教だしなぁ…とか考えるといまいちピンとこない邦題。原題は”Unnder the banner of heaven”で、こっちのほうが意味がとおる感じではあります。

 

1984年にモルモン教徒の男2人が義妹と姪を殺害するという事件がありました。犯人が神の啓示に従って殺したと主張したこの事件は世間の耳目を集め、多くの人間は彼らを”狂信者”と呼びます。ただ、もともと宗教には妄想的な部分が大いにあるわけで、啓示と妄想はそもそも異なるものなのだろうか?宗教とは何か”良いもの””ピュアなもの””無欲なもの”のように認識されているが、それは本当か?…など、モルモン教を例にとり、「宗教とはどのような性質のものなのか」という大きな課題に切り込んだ超大作!と思います。

 

1年ほど放置してしまったけれど、腰を据えて読み始めると最後まで集中して読めました。とにかく情報量はんぱないので時々整理が必要になります。

 

内容は以下の3つで構成されています。

(1)ラファティ家で起きた殺人事件(1984年の事件発生~裁判まで)

(2)モルモン教の歴史

(3)原理主義者の動向

話題があっちにいったりこっちにいったりするため、今はどの時代の誰の話を読んでいるのか常に立ち位置を確認しなければならない本。だからといって面白くないところを飛ばし読みすると、事件や宗教の背景が理解できなくなるから、じっくり読むべし。

 

ダン・ラファティとロン・ラファティは、末弟アレンの妻ブレンダとその娘エリカを殺害しました。彼らは神のお告げにより義妹と姪を殺害したと主張します。もともとラファティ家は地元でも有名な熱心なモルモン教徒でしたが、ダンとロンが原理主義に傾倒し始めたことで、ロンとその妻ダイアナの夫婦関係はギクシャクしていきます。教養もあり社交的なブレンダは、義兄たちが原理主義的になっていくことに異を唱え、ロンとダイアナの離婚を応援し、さらに、夫アレンにもがダンやロンへ近づかないように心を砕いていました。

家父長的大家族を築くことをよしとしているモルモン教ですから、ロンやダンからすればブレンダは危険な存在。ブレンダはいやな女だから殺した、エリカもいやな女になるだろうと思ったから殺した、神にそう命令されたと、ロンやダンは主張します。

 

モルモン教徒と原理主義者の大きな違いは”重婚を認めるかどうか”です。重婚はもともとモルモン教創始者であるジョセフ・スミスが始めたものですが、米国社会の一員となるために、モルモン教徒が捨てたのが重婚の教義。原理主義者たちは、重婚という教義を守ろうとしています。その重婚もなかなか問題含みで、自分の娘(14才)と結婚する(レイプする)なんていうことが平然と行われている上に、法律上1人としか結婚できないことを逆手に取り、2番目以降の妻は全て事実婚とし、手厚い一人親手当をちゃっかりもらっているという。

 

そもそもモルモン教は、比較的新しい宗教。印刷の技術があった時代に広まった宗教のため、かなりしっかりした記録が残っています。歴史が浅い割に信者も多く政治への影響力も強い。「子だくさん」を推奨していることもあり、信者は増加しているそうです。

 

一般的に宗教とは神秘的なもので、数百年単位で数々のエピソードにお化粧を施して俗っぽさを消していますが、モルモン教はそんなこともなく、スミスが印刷費用の調達に奔走したり、後にスミスの妻となるエマが父親にスミスを紹介した際「あいつは詐欺師だ!」と娘を叱り飛ばすなど、およそ宗教らしからぬ人間くさいエピソードがたくさんあり、大変興味深いです。

 

モルモン教は、信者一人一人に神との対話を許可することで信者を増やしていきました。「後発」の良いところは、いいとこ取りができるところ。キリスト教の教義を大きく逸れずに、神をもっと近くに感じたいという要求を満たしていったモルモン教は、一気に信者を獲得していきました。

「誰でも預言者になれる」というこの特徴からして分派ができやすい宗教であるにもかかわらず、”本家”が生き残っているのには生々しい裏事情があります。自分たちは逆境に置かれていると仮想の敵を作ることで信者の団結を図り、分派もことごとく潰してきた戦略家なのです。

 

誰もがエターナルなもの、真理、正解などという”すがるべきもの”を求めていて、それを上手に与えることで、信者は増えていきます。神との対話」の内容を聞くに、厳しいことを言われている様子はなく、基本的に肯定的で啓示を受けた人にとって優しい。例えば、若い女の子との”結婚”を宣言するときには「神がおまえとの結婚を望んでいる。拒むと地獄に落ちるようだ」という感じで引用されていたけれど、指示が具体的で脅迫めいているし、神の公正さみたいなものを期待していた私からすると、望まない結婚を強いられる女の子にとっての神とはどのような存在なのだろう、と疑問に思う瞬間もあったり。

 

クラカワーは、

 

信仰が妄想であると見なされるかどうかは、それを守ろうとする人々の真剣さにもよるし、それを信じる人々の数にもよる

 

という言葉を引用しています。同じ宗教を信じる者のコミュニティがそれでうまくいっているのであればよそ者が首を突っ込む必要はないと思いますが、特に啓示というものについて考えようとすると「その道に進みなさい」というような自己完結型の啓示は良いとして、容易に相手の権利を侵害しうる啓示への危なっかしさは感じてしまいます。

 

ただ、現在の末日聖徒 イエス・キリスト教会(モルモン教の正式名称)は重婚を捨て、原理主義者たちとは全く違うと主張しているので、混同は厳禁!

 

 

さて、ダンやロンが傾倒した原理主義とは、どんな宗教にも共通するものですが、以下の3つの特徴を持ちます。

 

極端な生き方をすることで当の本人はなにか歓喜にも似たものを経験する

原理主義とは、視野狭窄を起こし人を極端な行為に走らせるものです。彼らにとっては、解釈がほどこされていないスミスの言葉、いわゆる「原典」通りの生活を送ることこそが目的で、厳しいお題を与えられれば与えられるほど気持ちよくなってしまいます。

 

信仰にのめりこんでいる人間を動かしているのは、傍目には富や名声や永遠の救済といった大きな報酬を期待してのことに見えるかもしれないが、おそらく、永遠に本人が手にするのは強迫観念そのものだろう。

自分たちの望みが達成されないことは彼らにとっては恐怖そのもの。自分たちの行動を邪魔する要因は排除しなければならないと思うようになります。

 

信仰と理性は正反対

理性的に行動することと教義に従うことを天秤にかけるまでもなく、自らの信仰に従ってしまう。

 

原理主義についてはよく知られていることであり、ここで多く語る必要はありませんが、興味深かったのは裁判において彼らの信仰の異常性が焦点となったときのこと。異常な信仰(=妄想)にとらわれて罪を犯した人間の責任能力についての議論。

 

まず、異常な信仰(=妄想)について司法心理学の重鎮はこう証言します。「私の知っているほとんどの宗教は90%が信仰規約で、事実に還元すると全ての宗教はまがい物ということになる。彼の信仰が本物かまがい物かは責任能力の有無とは無関係である」つまり、異常な信仰を持っているからといって即精神疾患というわけではない。

 

さらに、精神疾患の診断について、「他者とのコミュニケーションを求め、議論し、ユーモアがあり、本を読む」精神疾患の患者はいないから、議論好きな彼は精神疾患ではなく、責任能力はあると意見を述べました。

日本でも異常犯罪があると話題になる「精神鑑定」。宗教というものを一から捉え直し定義し直そうと試みる裁判のくだりは目からうろこでした。

 

秋の夜長にじっくり読みたい本。

おわり。