はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

謎の結社に絡む謎の出来事の秘密を暴く…「赤毛同盟」の詰め合わせ風味 チェスタトン「奇商クラブ」

こんにちは。

チェスタトン「奇商クラブ」

奇商クラブ【新訳版】 (創元推理文庫)

以前、とんでもないオチにやられたチェスタトン作品のリベンジ。「木曜日だった男」で受けた印象が最悪でしたから、「木曜日~の借りを返してもらいに来たぜ。次はないからな」という上から目線で読んでみました。

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前回同様、秘密結社がテーマの作品。秘密結社や地下活動って憧れますよね。小学生の時にアールズレボリューションRSR (講談社コミックスなかよし)という漫画が局所的に大流行しました。これも学園内の秘密結社の話なんですが、それから約20年…いまだに憧れ続けている秘密結社です。

ロンドンにある「前例のない独創的な商いをしている者だけが入会を許されるクラブ「奇商クラブ」をめぐるお話。「木曜日~」のように結社の中で男たちがやり合う話かと思いきや、そうではありません。奇商クラブに入会できなさそうな中高年3人組が、クラブにまつわる奇妙な出来事を謎解き、暇つぶしをするという趣。

というわけで、ロンドン版ズッコケ3人組は以下の通り。

一人目は主人公のスウィンバーンという男。自分のことはほとんど語りませんが、おそらく金と時間を持て余した中年。そして、彼の親友バジル・グラント。彼は有名な判事でしたが、ある時、発狂したことで公職を辞しました。その後は暗く狭い部屋でゴロゴロ、のらくらしています(部屋が狭いのは金がないわけでなく、本に埋もれているだけ)。最後は、ルーパート・グラント。バジルの弟の素人探偵。いうなれば皆、働く気のない準ニート3人組です。

バジルは安楽椅子探偵風(歩き回っているけど)で、相談者の話を聞いて謎を解く人物。そういう意味で、バジルはホームズみたいな立ち位置なのですが、スウィンバーンもルーパートも、鋭くもなく気も利かないボンクラで、到底ワトソンとは呼べない代物。二人合わせても0.8人力くらいなので、ただのガヤですね。

変な出来事をつぶさに観察して、まぁ納得できるような答えを提示するテイストは、「赤毛同盟」を彷彿とさせます。例えば牧師が「殺されるかもしれない」と家に飛び込んでくる。ある家を訪問したら老嬢に扮した男たちに脅されて、自分も女装を強要されたとのこと。途中で逃げだしてきたが、何らかの犯罪に関わった以上、命を狙われるだろうから助けてくれ、という話(『牧師さんがやってきた恐るべき理由』)。他には、家宅周旋人と友人の諍い。彼らは、家の色のことで折り合いがつかない。友人は家を緑にしたいのだという。なぜ緑なのか?の問いかけに家宅周旋人は「そりゃあ、目立たないためでしょうが…」と回答する。「この世のどこに、緑の家が目立たない場所なんてあるというのか!?」という謎から始まる冒険(『家宅周旋人の突飛な投資』)。

こういう奇妙な出来事と、この世にまだ存在しない職業を結び付ることで解決に至るというところが、この物語のみどころです。また、3人の暇っぷりもツボで、「町をぶらぶらしていたら、売り物の牛乳がこぼれるのもかまわずに速足で歩いている牛乳売りを見かけて、『コイツは訳ありだな。どこで立ち止まるか見てみよう』と牛乳売りをツケていると謎に遭遇する」という小学生男子並みの好奇心にニヤニヤが止まらない。タイトルも、『ブラウン少佐の途轍もない冒険』や『老婦人の風変わりな幽棲』など、そそられます。物語の最後には、バジル・ブラント発狂の理由も明かされ、締め方も見事!

 

物語の舞台設定にも、興味深いものがあります。

19世紀末~の霧の町ロンドン。おそらくロンドンの中心部が急激に栄えている時代。ぼつぼつと無秩序に高い建物が建っていく中、忘れられた地域は貧民街になっていたようです。

「家の上に家を重ねて空間を節約するとか馬鹿らしい」というぼやきから始まるこの物語は、ロンドンという町の「混沌と錯綜」の中にはどんなものが棲んでいてもおかしくないと、秘密結社の存在を匂わせます。そんな「薄暗い巨大な蜂の巣」の中には、「奇商クラブ」という看板があっても「見知らぬ人間暗殺会社」という看板があっても、何の違和感もないのだ、という魅力的なプロローグ。

解説にも、「ロンドンにある一軒の家や一つの部屋では、どんな不可解なことが起こっても不思議ではない」とあり、同じような時代&舞台の作品として、リチャード・ハーティング・デイヴィスの「霧の夜」(未邦訳?)と、スティーブンスンの「自殺クラブ」が挙げられていました。「自殺クラブ」読んでみたい~!

 

と、結構満足ではあったのですが、一つ文句を言うならば…(以下、ネタバレ含む)

そもそもの「奇商」の作りこみが甘くない??

という文句があります(重大クレームw)。

冒頭、「前例のない独創的な商いで活計(たっき)を立てること」という入会の条件について説明され、簡単には入れねぇよ、と煽るわけです。その条件とは以下の2つ。

①既存の商売の応用ではいけない(火災保険の要領で、犬にズボンをかまれたときの修理代補償みたいなのはノー)

②その商売で食べていける(副業ではいけない。それで生計を立てている)

 

では、実際に出てきた職業見て行きますよ!(!!ネタバレ注意!!)

1.有)冒険とロマンス代理店

内容:刺激が欲しい金持ちから依頼を受けて夢のような冒険を提供する

既存の応用でない:★★★★★

食べていける:★★★★★ (※冒険の仕掛けも凝っていてかなり金かかってるぽい)

2.会話応酬世話人

内容:口下手の人の依頼を受け、パーティーで会話がうまくいくようにアシスト

既存の応用ではない:★★☆☆☆

食べていける:★☆☆☆☆

3.職業的引き留め屋

内容:飲み会の参加者が2人だけになってしまうというハプニングを利用して意中の女性を口説きたい人から依頼を受け、飲み会に欠席してほしい人のもとに突撃して予定をドタキャンさせる

既存の応用ではない:★★☆☆☆

食べていける:★☆☆☆☆

4.木の上で暮らす家専門の家宅周旋人

既存の応用ではない:★★★☆☆

食べていける:★★★★☆ (※その手のマニアがいるらしい)

5.新しい言語を作る人

既存の応用ではない:?????

食べていける:?????

 

まず、「既存の応用ではない」というポイントからいきます。

2、3は便利屋っぽい業態ですし、4については家宅周旋人の応用にも見えるので微妙。まぁ、様々な商売がある今と比較するから見方がシビアになるだけなのかもしれませんが、当時も泣き女とかはいたわけですし、便利屋のような商売は昔のほうが融通が利いたような気がする。ただ、専業として成り立っている点においては評価する必要があります。

次に、「生計を立てている」というポイント。

一応、皆さん専業でやっているし、それなりに食べていけているようですが、すごく重要な視点が抜けています。それは、「結社遊びができるかどうか」という点。1の超富裕層相手の商売人と、マニア向け商売の4もオマケで含めてあげるとして、この2名以外は、秘密結社に参加して豪華なディナーを食べ、プカプカ葉巻を吹かしている場合ではない様子。

奇商クラブは職業組合ではないので、ただただ金持ちの道楽です。有り余る時間とお金がないと参加はできないはずですが、2、3については便利屋の派生ということで、1回の依頼で大した額はもらえていないだろうに、結社遊びはできるのか?便利屋にアシストさせたことをネタに依頼人をゆすっているとしか思えないw

あと、さりげなくなかったことにした「新しい言語を作る人」の話も一応。彼は文化人類学者でナントカ族という種族の研究に夢中になった変人。「踊りで気持ちを伝える」という新言語の開発に夢中です。バジルの尊敬する友人ということで丁重に扱われていますが、完全に腫れ物扱い。そもそも食べていけてないし。

 

と、煽った割には微妙なお仕事図鑑でした。物語は引き留め屋がピークで、それ以降はすっきりしない終わり方です。そもそもの「奇商」がイマイチという物語の根幹を揺るがす問題がありますが、うーーーん、どうでしょう。笑

解説によると、同じ奇商シリーズで「背信の塔」と「驕りの木」の2作が新訳で生まれ変わる予定(もう終わっていると思うけど)だそう。こっちには面白い職業があるのかなぁ?

 

おわり。

初めて「もし…」という言葉を使いたくなった歴史小説 ジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」

こんにちは。

女王陛下のユリシーズ号」を読んでいたせいかAmazonが推薦してきたこちら。ジャック・ヒギンズ「鷲は舞い降りた」です。こちらはドイツ軍によるチャーチル誘拐作戦をつぶさに書いたルポ風小説。かっこいい男がたくさん出てくるという点では「女王陛下~」に引けを取りませんし、やっぱりみんな死んでいくんです。ただ、ルポ風ということで語り口が淡々としているせいか、死に際のドラマは少なめ。涙を誘う感じではなく、重厚。

 

コロナウイルスが猛威を振るう中、ランナーにマスク着用を促してマラソン大会を敢行した自治体があるという話を聞きました。そもそもマスクには気休め程度の効果しかないし、マスク着用してフルマラソンってもはや罰ゲーム。感染拡大リスクを最も低く抑えるには「中止」しかなく、それ以外は何をしたって無対策(=野放しに感染拡大)と同義なのですが、ここで、「(マスク着用を促しコロナを意識しているポーズをした上で)開催」という謎の選択がされました。マスク着用に意味はないけど批判されても面倒だからと、お茶を濁した形。その自治体には、「マスクして走らせる意味はあるのか(いや、ない:反語)」と意見できる人はいなかったのかしら、と思います。まぁ、いたとしても「マラソン大会は決行」という至上命令の中では、なかったことにされたかもしれないけど。

このような対応をした自治体を批判するつもりはありません。ただ、日本の至る所で見られる光景ですよね、コレ。すでに結論は決まっている。しかも、論理性よりも「上層部の意向」が最も重要。ただ、あくまで「意向」であって「指示」ではなく、先回りして忖度している。下っ端は何ら意味がないのを知っていて形だけ整えていく作業を粛々と進めます。

 

これはこういうお話です。発端は、「落下傘部隊でチャーチル首相を誘拐できるのでは?」というヒトラーの思い付き。本来なら「そんなことできますかね~アハハ」で済ませられるところ、いろいろな事情が絡まって着々と進行してしまい、最終的に数十名の死者を出した。読めば読むほど「日本っぽい…」と感じる小説。

鷲は舞い降りた (ハヤカワ文庫NV)

終戦まで約2年を残したの1943年9月。

イタリアのムッソリーニは失脚、逮捕、監禁されていましたが、それをドイツ軍が救出します。その大胆不敵・奇想天外な救出作戦に、ヒトラーもご満悦。もともとヒトラーは、イギリス軍には奇襲部隊があるのにドイツにはないという不満がありました。ヒトラーのために編成された奇襲部隊が大成功を収めたとなると、彼の気分は最高潮。また同じような興奮を味わいたくてウズウズしています。そして、軍情報局(アプヴェール)長官カナリスと、SS(親衛隊)、国家警察、ゲシュタポ長官のヒムラーが同席する場で、「この調子で、チャーチルも誘拐できそうだ」と口にしたヒトラー。彼の言葉に皆驚愕しましたが、「可能性があるか調査する(=うやむやにする)」ということでその場は収まりました。

カナリスは、部下のラードルに可能性調査をさせます。カナリスとしては、万一ヒトラーが「あれの件どうなった?」と思い出した時に見せるために、無理な理由をペラいちにまとめてくれればいい、という程度でしたが、スパイの情報を精査して、なんかちょっとできそうな気がしてきたラードル。候補者のリストまで作ってカナリスに報告します。「本気にするなバカたれ!」というカナリスの叱責でこの件は終了するはずが、その経緯をじーっと見ていたのはヒムラーでした。

ヒムラーはカナリスの失脚を狙っています。この二人、警視庁と警察庁みたいな感じで、互いに微妙な関係性でバッチバチぶつかってそうな役職だもの。

ヒムラー泣く子も黙るゲシュタポの存在をちらつかせ、ラードルをカナリスから切り離し、秘密裏にチャーチル誘拐作戦(イーグル作戦)のトップに据えます。ヒムラーとしては「成功すれば自分の手柄」「失敗したらカナリスに押し付け」というどっちに転んでも最高の作戦。成功させる以外に自分(と妻と三人の娘)が生き残る術がないラードルは、5週間後の決行に向けて動き始めます。

イーグル作戦の内容というのはこういうもの。

イギリスの田舎町スタドリ・コンスタブルに住んでいる女スパイ(コードネーム:ムクドリ)のジョウアナ・グレイからの情報により、チャーチルがお忍びで同地のヘンリイ・ウィロビイ邸に一泊することが判明している。前日の夜中に落下傘で沼地に降下し、ポーランド軍を装って昼間はウィロビイ邸付近に潜伏。夜にチャーチルを誘拐し、闇夜に紛れEボートで脱出。

スタドリ・コンスタブルはノーフォークにある海辺の町です。海辺と言っても、白い砂浜!青い海!っていうんじゃなくて、低地で湿地。入江があって、岬があって、黒い砂浜があって、沼がある。しょっちゅう雨が降って霧が濃くてジメジメした感じ。接しているのも太平洋じゃなくて北海ですから、とにかく寒々しい町。

警備が手薄な中お忍びで一泊。それだけでなく、侵入経路(降下におあつらえ向けな沼地)、脱出経路(海)が整っているということで、イーグル作戦が立案されました。

まずはジョウアナと行動を共にするスパイのリーアムを送り込みます。ジョウアナの甥を名乗り、ジープやら必要なものを揃えていく。リーアムは美男子なので、町の女(モリイ)をめぐってひと悶着起こしジョウアナをカンカンに怒らせるなどしますが、実はリーアムにとって初めて愛を覚えたのがモリイでした。モリイに送った手紙が泣ける。

続いて実働部隊の落下傘部隊。様々な勲章を授与されている歴戦の勇者シュタイナを隊長に、十数人。落下傘部隊はポーランド人を装う必要があったので、英語を話せる人間が必要ということで、上から押し付けられた役者風情のプレストンがいきなり加わる。シュタイナと共に死地をくぐりぬけてきた落下傘部隊(エリート)の中に変なのが加わったことで一瞬足並みは乱れますが、シュタイナの叱咤により終盤にはプレストンも一人前に。プレストン自体は微妙な男なんだけど、シュタイナとの絡みは好き。

 

さて、読めば読むほど感じた「日本らしさ」っていうのはこういうところにあります。

そもそも、イーグル作戦って「無駄の極致」なんですよね。イーグル作戦の概要を見た人の一発目の反応は全員コレ、「バカか!?」なんです。「お前、寒さで頭やられたか?」と。「俺は豚が飛んでもびっくりしないが、ドイツ軍が勝ったらびっくりするわ!それでも、これをやる意味は??」と嘲笑うリーアム。

父をゲシュタポに人質に取られたことで参加を決意したシュタイナは、怒りに任せてこんなことを言います「この作戦で得られるものが何か教えてやる。ゼロだ!無だ!」

仮にチャーチルを誘拐できたとして、ドイツに勝利はありません。チャーチル誘拐は、戦術レベルの勝利ですらない。それを知っていてなぜやるか?俺たちに命をかけさせてまでやらせる意味は?

答えはひとつ。「なんとなく。やったほうがいいと思ったから」です。

日本あるある1.上の意向を勝手に忖度して先回りしてやってあげる

ヒトラーの指示があったわけではありません。というか、ヒトラーはそんなことを言ったこと自体忘れていた可能性大。ヒムラーが「ヒトラーの誕生日にチャーチル誘拐をプレゼントしてあげたらいいかも」なんて考えて動いていました。

日本あるある2.責任の所在は常に曖昧

作戦決行当日にヒムラーは「イーグル作戦について総統(ヒトラー)には知らせていないから(=失敗しても俺は関知していない)」とラードルに告げます。でたー!上の意向で動いていたはずなのに、火を噴くと即ハシゴ外されるヤツ。お前は!こういうときに責任を取るために!普段から高い給料もらってるんじゃねぇのかよぉぉ!!!と言いたい。

日本あるある3.いつでもどこでも精神論

ヒムラーは「失敗は弱気の証拠だ」という言葉を使います。いや、違うと思うけどね。

 

イーグル作戦に話を戻します。

当日、降下は無事成功し、ポーランド軍のフリをして町の中で訓練をしいていた彼らは、隊員のシュトルムがおぼれた女の子を助けるために川に飛び込み、水車に巻き込まれて死んだことで正体が露見します。その後は集落の全員を教会に集めて軟禁するという作戦に切り替えるのですが、神父の妹が脱出し、近くで訓練中だった米軍のレンジャー隊に助けを求めます。その後はレンジャー隊と落下傘部隊の戦闘となるのですが、数や武器で勝るレンジャー隊に善戦し、シュタイナ以下数名の隊員が離脱します(おそらく戦士としての腕前は落下傘部隊が段違いに高い)。時は夕刻。日が落ち、闇に紛れることができれば落下傘部隊にも勝ち目はありますから、レンジャー隊から逃げ続けるシュタイナ達…。彼らはEボートで帰還することができるのか?

実はこの裏で、ロンドン市警の人間がリーアムの正体に気付き、車でノーフォークに向かってきています。ドッキドキがとまらない展開!!

 

ただ、この小説、最初にオチはわかっています。ルポ風ということで、この小説の語り手はジャック・ヒギンズというライター。ヒギンズが取材でスタドリ・コンスタブルの墓地を訪れるシーンから始まります。彼はある男の墓を探していたのですが、偶然「ドイツ軍落下傘部隊シュタイナ中佐以下13名眠る」という墓碑が隠されているのを発見してしまい、興味を持って調べるという構成なんです。

つまり、作戦が失敗に終わったということが最初にわかってしまうという。シュタイナとかノイマン(副長)がかっこよくて、読むたび惚れていくわけですから、やっぱり死ぬのか…ってなって切ないわけです。

 

歴史に「もし」はないという言葉は有名ですし、普段歴史モノを読んで「あのときああだったらなぁ」なんて思うことはないのですが、この小説で初めて「もし…」という言葉を使いたくなりました。それは、シュトルムの死。あそこで見て見ぬふりをしていれば…?そもそもそんな事件が起きていなければ?全員生きて帰れる目もあったかもしれない、なんて思ってしまう。それくらいシュトルムの死からバタバタと全てが崩れていく様が哀れだし、それをフォローするシュタイナの背中が(見たわけじゃないけど)悲しげ。なんか、ジョウアナの死も切なかったんだよな…

 

実はシュタイナ、外の世界ではすごく人気らしく、「冒険・スパイ小説ハンドブック」の主人公部門で2位だそうですw 私の読書人生の中でも5本指に入る素敵な男。かっこいい!!!

登場シーンでノイマンと「俺の短い人生で学んだことは、何事も期待を抱くな、ということ。うまくいっているときは特に」という語らう部分があるんだけど、すでにそこからかっこいいし、このセリフが最後に効いてくるのも、ニクいんだよなぁ。

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

新・冒険スパイ小説ハンドブック (ハヤカワ文庫NV)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2016/01/08
  • メディア: 文庫
 

リーアムも最後はかっこよかった。さっさと逃げてしまうかと思いきや、「俺はこういう時に見捨てられねぇんだよなぁ」みたいな感じで居残る。そして約束だった無線連絡はなかったけれども、帰還を信じてEボートを走らせたケーニヒとの信頼関係も、じーんとくる。

 

シュトルム、シュタイナ、ジョウアナ、リーアム、ケーニヒ…他にもたくさん。不可能と思える局面で一人一人が勇気を振り絞り、成功を期して戦い、散っていく。特攻隊の話を読んだ時と同じような読後感で、「女王陛下~」に比べておそらく日本人好みなテイストだと思います。

圧倒的な重厚感にしばらくは茫然としてしまいました。

 

おわり。

冴えない人生×ホラ話×人生哲学…「ビッグフィッシュ」の前日譚 ダニエル・ウォレス「西瓜王」

こんにちは。

「ビッグフィッシュ」に続いて、ダニエル・ウォレス「西瓜王」です。

ビッグフィッシュの父エドワードの出身地アシュランドで起きたお話です。「ビッグフィッシュ」の中で触れながらも明快な答えを出せなかった、「なぜ人は自らを飾り立てずにはいられないのか」という疑問について、答えを示してくれる。

実は2020年初ヒットの予感ですが、人気が出なかったのか入手困難。

西瓜王

 

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主人公はトーマスという18才の青年。彼は自分を産んですぐに死んだ母のことを知るために、彼女の最期の地アラバマ州アシュランドを訪れます。アシュランドは今では忘れられた町。かつてはスイカの名産地スイカの名産地~♪)として名を馳せていましたが、18年前、べと病という病気により、全てダメになってしまいます。ニッポンからも観光客が来たほど栄えていた町も、今やその影もなく、若者も去り、偏屈な老人や老害ジュニアがのさばる保守的な町に。

母の死の真相を町の人から聞き出す中でわいてくる、父は誰なのか?という疑問。自分を育ててくれた祖父の嘘と真実。そして、トーマスを王として18年ぶりのスイカ祭りを強行しようとするアシュランドの人々との緊迫したやり取り。みどころ満点です。

 

まずは、母の死の真相から。

母ルーシーは若い頃、父の資産(父は存命なので遺産ではない)の調査という名目でアシュランドを訪れ、父の持ち物であるハーグレーヴス邸に住み着きました。燃えるような赤毛に緑の目、そしてはじけるような若い肉体に、アシュランドの男は骨抜きにされ、用のあるふりをしては家に近づくように。ルーシーもそれを最大限に活用し、家のリフォームを「毎日の手作り弁当」で請け負ってもらうなどして、町の人との交流を楽しんでいます。

それを面白く思わないのはアシュランドの女たち(と一部の老人)。バカな亭主が若い女に夢中なのもムカつくけど、ルーシーが、アバズレを装っておきながら男たちに指一本も触れさせていないのも、それはそれで腹立たしい。そしてもっとムカつくのは、自分たちがずーっと村八分にしてきた黒人や障がいを持つ人々とも交流しているところ。イギーという障がいのある青年を家に招き、読み書きを教えていました。(便乗して、俺も綴りが怪しいから教えてもらいたいな~~。と群がる男もいるもんだから、妻はカンカン!)

保守的で排他的、言い換えれば古いしきたりを守りよそ者を入れないことで維持してきた「暮らし」を変えてしまったルーシーと、反感を抱かずにはいられない町の人たち。

さて、アシュランドには古くからの伝統行事「スイカ祭り」がありました。その一番の見世物は、「イニシエーション」という、町で最年長の童貞に年増女と初体験をさせ豊作を祈る儀式。元童貞は、スイカ王として崇られる(見世物にされる)ことになります。今年のスイカ王はイギーに決定したのですが、イギーに聞いて野蛮な儀式の存在を知ったルーシーは、怒り心頭で実行委員会に乗り込みます。しかし、「もう決まったことですから、よそ者が口出さんでください」とあしらわれ、彼女は一計を案じる。次に実行委員会のもとを訪れた彼女は、「実はイギーは童貞ではありません。そしてその証拠に…」と自分の膨らんだお腹を見せます。その時お腹にいた子がトーマス。そして、ルーシーは出産時の出血によりこの世を去ります。

イカ王を生み出せなかったその年、町のスイカ畑は全てやられてしまい、名産品だったスイカも、結束の証だったスイカ祭りもそれっきりに。

 

そして18年後、ルーシーの子トーマスがアシュランドを再び訪ねたことを、町の人々は「王の帰還だ」と喜び合います。「18年前に生まれた男の子をスイカ王に立てることで町が甦る」というでっちあげをし、トーマスをスイカ王にしてお祭りを強行しようとします。閉鎖的な町に閉じ込められたトーマスは、逃げることができるか…?そして自分の父は誰だったのか…?

というお話。前半部は「セバスチャン~」風で謎とき要素もあって楽しく、18年後の後半部は「閉鎖的で狂信者ばっかりの町に閉じ込められる都会人」風のサスペンスっぽくてハラハラする。

前半部では快く話をしてくれる気さくなおっちゃんおばちゃん連でしたが、「トーマスはスイカ王」だと認識した後半部、途端に図々しくグイグイ迫ってきます。決まりだ!伝統だ!無視するな、若輩者が!と、ノーなんて言わせない。コレ、田舎移住あるあるでしょう。お客さん扱いされているうちは優しかった村人が、移住した途端、自治会やらなにやらで圧力をかけてくるやつ!!

 

「母の死の真相」と「18年ぶりのスイカ祭り」の間に挟まっている祖父についての回想は、人生哲学に満ちていて趣深い。

トーマスは祖父に育てられたのですが、その祖父はビッグフィッシュの父と同様にアシュランド出身で、ほら吹き。祖父の仕事は不動産業だったのですが、「家を売るのではない、夢を売るのだ!」と話を「大げさ」に語ることで契約にこぎつけ、セールスマンとして名を上げていたようです。

トーマスは祖父に、母のことを教えてと何度もお願いしていますが、これもまたビッグフィッシュ父と同じようにはぐらかし、教えてくれないんです。母や自分の生まれについて何も知らないトーマスは、「自分は冒頭100ページが破り取られた小説のようだ」と感じています。そして、「世の中、愛してくれる人さえればいいというものではない。血を分けた家族が欲しい」と、自分が恵まれていると認めながらも、母の面影を求めてやまない。トーマスをアシュランド行きに駆り立てたのはこんな思いでした。

トーマスが年頃になったころ、祖父は職を失います。かねてから問題になっていた祖父のホラ営業が裁判沙汰になり、不動産を販売するライセンスを失います。実は、「この家には文豪が住んでいた」や「この家にはチョウがとまる」、「この家の下の鉱脈が神経痛を治す」という完全アウトな嘘をついていたんですね。詐欺!!!物語を語るという大切なものを失った祖父は、元気を失い、亡くなります。

「祖父は、自分がつくった物語の寄せ集めでしかない。祖父は楽しく生きる世界の住人かもしれないが、ぼくはそうではない」

真実と向き合えずに夢ばかり見ている人のことは理解したくもない…トーマスが祖父を見る目は冷たいものでした。

 

子どもの時には宝くじを買う親のことを見て「宝くじなんて…3000円あったらいろんなことができるのに」と思っていましたが、この年になって思うのは、人生どこかで、「ああ、今の人生変えるには宝くじしかないんだなぁ」って気づく瞬間があるね、ということ。

「ああ、こんなクソくだらねぇ毎日」と宝くじを買うような時、「がむしゃらに頑張る」以外に人がとる道は2つあります。「過去にすがる」か「二次元(夢の世界)に行く」か。(高校の時、アニメにはまりすぎて「二次元に行きたい!!!」って言っていた同級生がいました。それ以来、私は現実から目を背け夢の中に生きる人を二次元の人と呼んでいるのですw)

祖父は二次元の人となりました。祖父もどこかで感じたのだろうと思います。このままの道を進んでも、たぶん自分が望むような出来事には出会えない。そして、自分の人生を粉飾することを選び、実世界で孤立を深めていったのです。

祖父の言い分はこう。「自分たちのことを物語にして語れるからこそ、人は生きていける。物語なくして人生が成り立つか」

祖父は秘かにバカにしていました。「文豪が住んでいた家」に住んだ小説家志望の男。家を買う時は「創作意欲がわいてきた!!!」ってなっていたくせに、現実をチラ見してしまい夢から覚めてクレームを入れる。「どうして夢を見続けることができないんだ??」と怒りさえ覚えます。夢を見て心地よく生きていればいいものを、現実世界に勝手に戻ってきやがって、しかもイライラを他人のせいにするんじゃねぇ。と。

対してアシュランドの人は、過去に生きることを選びます。「平々凡々とした町として生きる運命に引きずられる一方、わたしらはどうしても過去をふりかえらずにはいられない。唯一無二の特別な場所であった頃の、その町を」

これ、「町」を「人」にするとめっちゃ共感するやつ。

過去に救いを求めるのも、ウソ話を自分に聞かせるのも、所詮は「虚飾」。自分が自分の人生を肯定するためには、「自分は立派な人間である」という前提が必要です。その証拠に、トーマスは自分がかつて愛されていた証拠を探しにアシュランドまで来たのです。

しかし、「自分が立派である」という大前提を失ってしまったら、それは自分で作るしかない。過去の素晴らしい時に思いを馳せるのでもいいし、自分をファーストレディだと思い込むのでもいい。そうやって、何とか自分の気持ちを立てようとする必要が出てきます。

 

ただ、本人はどうでもいいよ、ご勝手に~なんだけど、家族やまわりに迷惑をかけるのは良くない。過去に生きるとか二次元の人になるとか、それは老人ホームに入ってからで全然間に合うので、今のところは日々を生きていこうと思います。

この小説には、ヤバめな人も狂信的な人もいるけど、平々凡々な毎日に立ち向かう人もたくさん出てきます。

例えば、ルーシーに夢中になる男の妻。

「どうしようもないわけだよ、自分がどうしたいかわかっていて、それが無理なのもわかっていて、手にしているものにはもう飽きちまって、となると、あとはわたしたちにとっても不幸な話さ。本当に惨めだった」

ルーシーのことを語る老婆。

「どうして人は他人の失敗を何よりも喜ぶようにできているのかしらね。ほかにもっと楽しいことはないのかしらって、いつも考えてみるんだけど、いまだに一つも思い浮かばないわ(笑)」笑いごとじゃないけど、真実ではある。

ルーシーに夢中になる男の妻Part2

「特に驚くこともないけど、飛び上がって喜ぶことはない、透明なのが一番なのじゃないかしら。すべてほどほどなのが。なんでも、大きければいいってもんじゃないでしょう。やたらと目立って、いつもまわりの人を惹きつけずにはおかない、誘蛾灯みたいな人生は、ねぇ。あなたのお母さんじゃないけど(笑)」

どうだろう、最後の2人はルーシーの不幸で自分を慰めているタイプだから健全とはいえないかなw

 

 

他にも読んでみたいんだけど、邦訳で手に入る長編は今のところ3作品のみでした。2017年にも長編が出たらしいので、邦訳希望!!

 

おわり。 

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面白みのない真実よりも、語り継ぎたくなる物語で彩る人生 ダニエル・ウォレス「ビッグフィッシュ」

こんにちは。

昨年読んだ「ミスター・セバスチャン~」の作者ダニエル・ウォレスの作品2つ。「ビッグフィッシュ」(と「西瓜王」)

一緒に紹介した理由は、「ビッグフィッシュ」と「西瓜王」がつながっているからです。「ビッグフィッシュ」の主人公の父エドワード・ブルームの出身地アシュランドは、「西瓜王」の舞台。貧しい村に保守的な村人、黒人差別も横行しているアラバマのアシュランドは、若者が「積極的に捨てるべき故郷」として描かれています。アシュランドを捨てたエドワードがどのように生きたか、二つの作品を見比べるといっそう理解が深まるんですね。

まずは「ビッグフィッシュ」から。

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり

主人公はウィリアム。父エドワードの死を前に、彼の人生の真実を知りたいと願っています。この本は、父が語った断片的なおとぎ話短編集の趣。その間に「父の死ーテイク1」といった具合に、ウィリアムが語る父の死のシミュレーションがはさまり、物語が進行していきます。

映画を見ておいたほうがわかりやすいと思います。ストーリーらしきものはなく、著者も「ずっと書きためたものをまとめた」みたいなことを言っているので、まとまりがない。テーマも取ってつけたような感じで、映画の補完として読むのが良いかと思います(本来なら順序逆だけど)。ただ、映画ほど目が覚める鮮やかさはないし、淡々と暗い感じ。結末は少し違ってて、個人的には映画のほうが100倍好きです。

 

父の人生はざっとこんな感じ。

アラバマ州アシュランドに生まれ育つ。アシュランドは何もない田舎町で、早々に家を出る。家を出るときにはかなりの反対に遭ったが、それを押しきって旅立つ。一文無しだったエドワードは、世話焼きの夫婦の雑貨店で住み込みで働き、約一年でそれなりの貯えを作った。その後カレッジに進学し、妻と出会い結婚。もともと商才があったエドワードは、その後3つほど仕事を変え、金持ちに。

ただ、仕事に満足していない(好きでもない仕事に忙殺されている?)らしく、出張のふりして二重生活をするようになる。スペクターという町で20そこらの娘と不倫していた。晩年は癌が全身に転移し、自宅で療養生活中。余命いくばくもない。もともと家にいるのが苦痛だった男、そして妻に不義理をはたらき、その上息子にはホラしか語って聞かせないため、すごく微妙な関係になっているが、それでも息子は分かり合いたがっている。

 

どうあっても映画と比較してしまうんだけど、映画のエドワード老人はお茶目だったし語って聞かせる話が色鮮やか(文字通り、映像が綺麗だったということ)で美しく、好感が持てました。対して、小説ではほぼ寝たきりの老人の臭いとか頭ベタベタとかそういう話が生々しいし、見どころであるべきおとぎ話がワンパターンなので、好き放題やって、面白くもないダジャレを言いながら死んでいくジジイ感あふれていて、共感できない。

ほんと、ワンパターンで…とりあえず盛っとけ、みたいな。巨人を描くときは「普通の成人男性の2倍の背の高さ、3倍の肩幅、10倍の腕力があった大男」からはじまり(そこまでは許容範囲なんだけど)、寝ている間にベッドから足はみ出す、とか、ご飯食べている間も成長していくのでボタンが飛んでいくという尾ひれがついて、ハイハイってなる。毎度こういうパターン。エドワードが作る物語は、あくまでも自分の経験を「盛る」という程度ですから、登場人物をバカみたいにデカくするか強くするか物騒にするか、というバリエーションしかないんですね。

飲み会で刺身盛り合わせがなかなか来ないとき、「お?これは海に釣りに行ってるな!」とかいうおじさんのジョーク並みに寒く、何度も擦られた感があってうんざり。息子のウィリアムもそれを指摘していて、「あ、それ前に聞いたよ」と先手を打って怒鳴られるという場面もあったりします。

 

エドワードがおとぎ話を語る理由は、このセリフに集約されています。

「話を忘れない限り、相手は――それを話してくれた人間は生き続ける」

自分の生きていた証を長く残すためには「語り継ぎたくなるようなストーリー」を用意する必要がある。と考えたんですね。「若い頃、30億の仕事をとったんだ!」というような面白くもない武勇伝を息子に語っても、それっきりになるだろう。しかし、「俺は山奥で巨人を戦ったぞ!」というような話は子から子へ語り継いでもらえるのではないか。そういって語り継がれていく限り、自分は生き続けることができる、という。

確かに、自分の創作したお話が後世に語り継がれれば、自分という存在がいつまでも残っていく気がします。

が、ただ、ただ一点。【※但し面白い話に限る】と言い添えたい。

ぶっちゃけ、エドワードの話はあんまり面白くないんですよね~。本人は、オチを言う前に自分が吹き出してしまうくらい面白い話だと思っているようですが(てか、そういう話し方も素人っぽくてよくない)、読者としては、新人賞の審査員のように「キャラクターの作りこみが雑で、展開がワンパターンです。また、話に広がりもありません。もう一度設定とプロットを練り直しましょう」と突き返してやりたいレベルの代物で、どっちにしろ語り継ぐ気も起きない気がするんだけど。。。

またある時、神を信じるかと父に聞いたウィリアムは、話をはぐらかしておとぎ話をされ、イライラします。父の言い分としては、「イエスかノーかなんて日によって変わるものだ。それよりも、お話のほうが価値があるのではないか」と。そうして、100回くらい聞かせた鉄板ネタをせき込みながら言い、(苦笑)ってなる息子。

 

ウィリアムとエドワードの関係は、ドラマでよく見る父と息子の関係です。息子が成長するにつれて互いのプライドがぶつかり、ぎくしゃくしてくる、という。私から見ると、ウィリアムに共感を超えて同情してしまいます。

例えばこういう言葉。

「父はカメのような人間。感情を甲羅にして身にまとい、防御は完璧でどうやっても入り込むすきはない。せめて最期くらい、無防備でやわらかな下腹を見せてくれてもいいと思うのだが」

ほんとだよ、ほんと!

ホラ話ばかりをしているのはいい、それがぜんっぜん面白くないのも100歩譲ろう、しかし、それ以外にまともに自分の話をしないのはダメじゃないか!と説教したくなる。それっぽいこと言ってはぐらかしているけど、自分のことで手いっぱいで、全然家族を大切にしていないんですよね。

 

ただ、家族以外にはものすごい愛想はいいようで。

エドワードの回想によると、彼はスペクターという小さな町をまるごと購入したと言っています。こういう素敵な町がいつまでも残ってほしいという思いで、まわりの土地や小さな商店まで全て購入したと。そして、「所有者が変わるだけでだ。いままでと変わらない生活をしていい」と悪徳業者みたいなことを言って彼らに取り入っていたそうです。もちろん悪意はなく、スペクターを息抜きの場所として愛しただけのようですが。

まぁ、これはかなり盛っているでしょうね。プール付きの家を所有するような男でも、さすがに資産家の子とかでなければ、町いっこ買うのは難しい。さしづめ、時々遊びに行って金を落とす羽振りのいい男というところでしょう。スペクターの住民はエドワードをこういう風に評価します。

「私たちは彼の一部、彼の人生そのもので、彼もまた私たちの一部にほかならない」

彼との交流は私たちにとってすごく価値あるものだし、彼も私たちとの交流によって満たされていた、ということ。

いるよね。こういう、憎めないおっちゃん。時々遊びに来て面白(くな)いホラ話聞かせて帰っていく金持ちのおっちゃんなんて、いいじゃん。いいことしかない。「いやー、話面白いっすね!やばいっす!明日腹筋やばい!」とか言っておけばいいんだから。ただ、「娘さんを僕にください」とか、「一週間お宅にお世話になっていいですか?」には全力でノーって言うけど。うっすーーーい関係ならWELCOME!

 

友人にするには特に問題のないエドワードは、恋人や家族として深く長く、良好な関係を築くには骨が折れる相手。自分の置かれた現実を認められず、夢ばかり見ている現実逃避野郎なのですから。

その証拠に、スペクターに置いてきた情婦(不倫相手)は不幸になります。

20になったばかりの娘に手を出して(今話題のアレか!)、セカンドハウスを用意し住まわせますが、幸せだったのも最初だけ、しまいに娘は心労のためやせ衰え、愛らしいポーチが自慢だったセカンドハウスも蔦だらけのお化け屋敷に。そして出窓から見えるのは、エドワードが来たかしら?と目を光らせる20代には見えない女。不倫相手すら幸せにできないとか終わってる。

しかも不倫の理由、聞きます??

「愛には限界があった。ひとりのときはたしかに孤独だが、それをしのぐ寂しさを、大勢の人間に囲まれ、休みなしにあれこれ要求されると感じることがある。息抜きが必要だった」

お!フラリーマンの言いぐさ、キター!

会社でもアレコレ言われ、家に帰っても小さい息子と妻がアレコレ言ってくる。疲れた俺!ってことでしょうね。妻だって子育てで疲れてたと思うけど…

 

話があっちこっちにいきましたが…ここらへんでまとめ

前提として、エドワードが試みた「嘘であっても、美しい物語で自分の人生を彩り、その鮮やかさそのまま語り継いでいけたとすれば、自分の人生は今よりも高い次元に昇華できる」という試みの意図は理解し、やや共感しました。「もっと他の人生があったなぁ」と思って生きている人が多いのは事実ですから。

ただ、それを実現できるかは別の話だし、エドワードについては失敗だと思います。話の面白さ云々は読者次第として、どんなに彩っても所詮はメッキだなぁと感じる話しか生まれてこなかった。人は結局、自分が経験した事柄からしか物語を作れないし、大切にするべき家族をないがしろにする人は、家族を大切にする話は作れない。

それが顕著にわかるのは、上記の、不倫の理由のところです。読者としては、本音ダダ洩れですよー!妻にそれ聞かせるんですか?ってなるわけ。そういうところこそ粉飾決算でしょう。「家族には会いたかったけど、倒すべき悪の巣窟がスペクターにあって、毎度毎度呼び出されていた。実は家族を守るために世界を守ってたんだ」とか言えばいい。どんな面白いおとぎ話を語ろうが、「正直家族の存在がうっとおしかった」って本音を言っちゃうストーリーテラーは、ストーリーテラーとしても、父親としても失格では。

 

と、「セバスチャン~」や映画のクオリティを期待していたのでちょっと期待外れで消化不良。

実は、訳者あとがきに「可笑しくて悲しくて、切なくて愉快。そうした要素が溶け合って理屈では説明できない何かが、たしかに、読み終えたあとに大きくふわりと広がっていく感じがする」って書いてあったんですよ!

あーこれ、面白くない本の感想ってだいたいこういう風に書くよな、って。

「説明できない」とか「ふわりと」のあたり特に…やっぱりあんまり面白くなかったんかな…なんて勝手に仲間意識w(ごめんなさい)

若輩者がこういうことをコメントするのは失礼ですが、著者の言いたいことが熟しきっていない感じがあったんですよね。対して、次の作品、「西瓜王」は著者の想いが熟していて、含蓄に富んだ人生哲学に満ち満ちています。言葉選びのセンスがいいんだよ~ほんと。

 

とりあえずここらへんで、

おわり

 

過去記事はこちら

dandelion-67513.hateblo.jp

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世の中には一つとして「完全オリジナル」の小説は存在しない 「大学教授のように小説を読む方法」

こんにちは。

世界的に売れた本です。トーマス・C・フォスター「大学教授のように小説を読む方法」

世界的な文学作品の読み方を笑い転げながら理解できる本。今までのテクニックを試すためのテストと、巻末にオススメ本が難易度別に紹介されているのが素晴らしいです。また、流れるような文章に、著者のジョークを鮮度そのまま日本語にした訳者の方にも拍手を贈りたい。

大学教授のように小説を読む方法[増補新版]

この本を手に取った理由は、ずーっと教授に聞いてみたかったことがあるんです。いわゆる「あれも男根、これも男根問題」。え?アレですよアレ。どんな夢を見ても男根を示唆するフロイトの話をもじって。

文学の授業を受けたり、解説書を読んだりすると絶対にぶつかる「アレはコレのメタファーで、ソレは皮肉で…」ってどれくらい正しいの?そしてそういう(時にはこじつけと思えるまでの)突飛な発想はどういうところから出てくるの?という。

 

それに対して先生はこのように回答してくれます。※ここは全編通して得られた私の意訳です。少なくともこういう回答を得た気分になっています。

もちろん教授であってもコレ何?ってなることもあるし、教授が出した答えがすべて正しいわけではない(作者に確認のしようもないし)。しかし、小説家は自分では完全オリジナルの作品を書いていると思っていても、世の中に、完全オリジナルの小説というものは存在しない。登場人物の設定から、テーマやアイコン、見せ場など全て、意識的・無意識的に関わらず過去に接した作品から拝借している。教授は何千もの作品を読み、それを解釈し蓄積することで、「あ、コレはあの作品を読んだ時の…」と比較検討できる。そういう個々のデータベースを持っているという点において、教授が一読者(一学生)とは異なる存在であると言える。

素直に「教授といえども全知全能ではない」と認めているところ、そして意外に理系的なアプローチで答えを導き出してくるところ、いいですね。好感が持てます!

 

ざっと、エッセンスをまとめるとこんなん。

★旅はみな探求の冒険である

a)探求者、b)目的地、c)目的地に行く建前上の理由、d)途中でぶつかる困難や試練、e)目的地に行く真の理由

があればそれは冒険の物語。そして、e)目的地に行く真の理由は往々にして「自分探し」である。主人公が旅をする話(時には旅をしないし、目的地に達せないまま終わるものもあるが)を読んで、おや?と思ったらa~eを探して当てはめてみるべし。これは冒険の物語であると気付けたら、もうけもの。

★食事=聖餐式

一緒に食事をする場面は親密さの象徴。ときには性的なものも示唆することもある。食事の中断は不幸の前触れ。食事中に相手を殺すような話には嫌悪感を抱く。

★天気(季節)の話

季節や天気は言いたいことを伝えるための絶好のツール。

雨=清らか、禊の象徴。しかし、雨が降ると地面がぬかるむ。転んだりするともっとしみだらけになる。要は使いよう。また、雨と春の組み合わせは再生を意味する。

霧=混乱や困惑。雪=清らか、残酷、厳しく、温かく、魅力的、遊ぶには楽しい、重い、汚らわしいなどたくさんの意味があるので、どこを選んで料理しているかがミソ。

★おとぎ話のアイロニー

BMWに乗ってブランドものをゴテゴテに身に着けたカップルが森に迷い込む話。これはヘンゼルとグレーテルを示唆。力の象徴だったもの(BMWとか…)が何の役にも立たなくなった(逆に災厄を招きかねない)今、子ども同然。「複雑化して道徳さえ曖昧になった現代社会におとぎ話やその単純明快さを持ち込もうとする時、作者はまず間違いなくアイロニーを目指している」とのこと。

アイロニーじゃないけど、この本と相通じるものがあったので、参考までに。

診療室にきた赤ずきん―物語療法の世界 (新潮文庫)

診療室にきた赤ずきん―物語療法の世界 (新潮文庫)

  • 作者:大平 健
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2004/08/01
  • メディア: 文庫
 

★死

登場人物が死ぬときは、事態の進展、プロットを複雑に・もしくは複雑になったプロットの整理、ある人物にプレッシャーをかけるためのことが多い。

「ミステリー小説は例外。200ページもある小説では少なくとも3人は死ぬが、これらの死に意味はあるか?いや、無意味と言って差し支えない」ってただし書きしてあるのウケる。

★セックスとロレンス

「私に言わせれば、ロレンスのありがたいのは、作品分析に全てセックスを絡ませておけば問題ないところ」という話で始まるセックス談義。性的なものがそのものズバリ出てこなくても、思春期の中学生並みに「これは…性的メタファーなのでは…?」くらい積極的に考えていってOK。

しかし、セックスの行為そのものを書いているとき本当は何か別のことを言おうとしている。セックスの行為(それに至るまでの道筋ではなく)を逐一書くのは、一度自分でもやってみたらわかると書いてあるけど、古臭くて気持ち悪くて気恥ずかしいし、そんなにパターンがない、つまり全然書いていて楽しくない。それをおして書いた以上、著者にはほかに伝えたいことがあるとみて差し支えないということ。

ここの章はマジで面白い。「セックスを書いてセックスだけを意味している場合もあるが、これには特別な呼び名がある。”ポルノグラフィー”だ」からはじまって、学生が気恥ずかしそうに「これって何なんですか?」ってセックス描写をもってくることがあるが、自分にも全てはわからんちん!!と書かれる。最後には「ロレンスは40代初めだというのに肺結核で死期が近づいたとき、過激なまでに率直で赤裸々な小説『チャタレ夫人の恋人』を書いた。(中略)ロレンスはもうこれ以上長編を書くことができないと知っていた。激しい咳に苦しみながらこれまでに発表した作品とは比べものにならないほど露骨な性描写に満ちたストーリーに命を注ぎ込んだのである。自分の存命中にこの本が広く読まれることはないと熟知しつつ。だから今度は私が尋ねる番だ。...これって何なんですか?」で締め。爆笑!絶対ロレンスのこと馬鹿にしてると思うw

★浮かび上がったら洗礼

水に飛び込んで浮かびあがってきたら(洗礼を受けた)特別な人になる。

★なんで物語に出てくる病気は結核なの?

見た目が気持ち悪くないからです!見た目が気持ち悪くなるやつは使えないないからです!

この章、「医学が進歩していなかった時代、昔の小説は作り物の病気でいくらでも好きなことを言えたのに、今は医学が進歩したから好き勝手病気作るなんてできないよね~」って締められているけど、今でも日本には「オエって吐いたりしない、綺麗なままで死んでいく謎の病気に罹る女子高生と男子高生の命を懸けた愛!涙なしでは見られない!」とか陳腐な作品あふれてるけどね~。って思う。

 

さて、いろいろ挙げてみましたがこれら、これ全部、どっかで読んだり見たりしたことあるよね~?っていうのがこの本で最も言いたいことなんです。

冒険の物語なんてRPGそのものだし、金持ちだけどなんか好きになれない男と食べるフレンチは美味しくないけど、好きな人と食べる銀だこは最高だとかそんな話腐るほど見たことあるし、雨に打たれて走る男がコケて泥まみれになったらだいたいその恋はうまくいかないのも知っている。羊の木っていう映画で、2人で海に飛び込んで浮かび上がってきたら神、みたいなのもあったよね。

と、大して本を読んだりしていなくても、なんかこういう設定知ってるわ~、ってなるわけです。世界で初めての小説が何だったかなんて知るわけはないんだけど、100年前の小説も今ここで生まれている小説も、全てどこかに源があるということは確か(小説だけでなくドラマや映画も)。そして小説家は、知らず知らずの間に、それを少しずつ取り込んで作品を作っているんです。

だから、この描写、匂うなとか、これ、あそこで読んだな…?というアプローチで本を読み解く大学教授の言うことは、少なくとも自分が思う解釈よりも真実に近いと思うし、そういう読み方をかじる意味は存分にあると思います。

あと、文学好きなのに、周囲の読書好きはだいたい東〇圭吾とかばっかりでイチイチ語る気も起きないという人が喜ぶような、文学ジョークもところどころに挟まっているので、ニヤニヤできるところも良い。

 

最後に、おもしろかった部分を紹介しておわり。

・暴力(シーン)を否定したら様々な文学作品が読めなくなる。ジェーン・オースティンばかりを読むっていう手もあるけど…オースティンだけが頼りの読書は心もとない。

・ハリウッド映画は一時期、ヘイズ・コード(映画製作倫理規定)により厳しく制限されていた。なかなか興味深いのは、死体なら薪のようにいくら重ねても構わないが、生身の人間の体は縦に並べてはいけない(性的描写の制限)という決まり。

(教授だから当たり前なんだけど)すごく物知りで、ぜんぜん関係ない引き出しからびっくりするようなものを持ち出してきて、変なことを言い出す。そして、皮肉が冴えているんですね。小説を読んで「あー面白かった」で終わらせないたくない人の、必携本でした。

おわり。

泣ける×いちいちかっこいい=やっぱりこういう小説はいい アステリア・マクリーン「女王陛下のユリシーズ号」

こんにちは。

アステリア・マクリーン「女王陛下のユリシーズ号」。映画化もされたようです。

ガンダムや銀英伝好きとしては、好きなジャンルの小説。ハッチとかタラップとかいう単語を聞いて、なんかかっこいい!と興奮する人にはたまりません。そして、泣けるよ~、めっちゃ泣く。デトックスしたい人にはススメの作品です。

ただ、ミリタリーオタクではないため、毎度毎度「え?巡洋艦駆逐艦って何が違うの?掃海艇とは?」となるし、名前が覚えにくい。ベントリーとヘンドリーとが同時に居合わせた時には嫌がらせかと思いました。(英語だとBentleyとHendlyで全然違うんだけど)

 
女王陛下のユリシーズ号 (ハヤカワ文庫 NV (7))

女王陛下のユリシーズ号 (ハヤカワ文庫 NV (7))

 

第二次世界大戦中の「援ソ船団」の話です。連合軍がソ連を支援するための物資を運ぶための船団。スコットランド北岸沖のスカパ・フローを発し、ロシア北西部ムルマンスクまでの約1週間。最初は30隻以上いたものの、悪天候とドイツ軍の攻撃により数を減らし、最後は片手で数えられるまでに。その中でも浮沈艦とか奇跡の船とか呼ばれていたユリシーズ号とその男たちの物語。

こんなシーンから始まります。「兵が疲れ切っている!」とキレる軍医と、意にも介さない軍本部の皆さんの不毛なやり取り。軍医は、前の任務が明けて時間も経っていないのに、また新たな任務を言い渡されたことに対し、正気じゃない!と怒っている。現に艦では反乱も起き、人死にも出ています。兵の体力や精神状態も限界。このままじゃまともにたどり着けないと。しかし本部は聞く耳持たず、「そんなこと言う軍医はチェンジでぇ~」とごり押しし、ユリシーズに援ソ物資の護衛を命じるヴィンセント・スター(英国海軍中尉:ホントこいつ最後まで最低)でありました。

 

ここで主要なメンバーを紹介します。

<艦でも、物語でも最重要クラスの方々>

ヴァレリー艦長:結核で死にそうな男。大量に吐血して血清を打っての繰り返し。病気を押して任務に出発します。宇宙戦艦ヤマト風。

ティンドル:戦隊司令官のご老人。我が強いが、若人の進言を受け入れるくらいの余裕はある。しかし、「俺は爺さんだからな!若いやつはすごいな!」と毒づくのはやめられない。

ターナー:副艦長。瀕死の艦長に代わり、艦長やティンドルの命令を遂行するために骨を折る、損な役回り。

カポック・キッド:航海長。カポック~はあだ名で、こういう名前がついているということでお察し、腕は確かだけど冗談好きで女好きな男。ニヤっと笑うと歯が欠けてそうなイメージ(あくまでもイメージです)。アンドルー・カーペンターっていうのが本名なんだけど、カーペンターっていう名前でも登場してきたりして、読者としては毎度毎度戸惑う。

ブルックス:軍医長。おそらくヴァレリー艦長に物申すことのできる唯一の人間。これも宇宙戦艦ヤマトを彷彿とさせる。

ニコルス:軍医。実務は彼が担っている。最後は医師がいない僚艦に移乗。ユリシーズの最期を見守る。医務室にいろんな薬品(アルコール的なもの)とか隠しているけど、最後のほうにはそれらを偉い人にくすねられ続ける。(医療用とか工業用のアルコールは絶対に飲んではいけませんよ!!)良心の塊みたいな人。

<物語の中で重要な役割をする人々>

ラルストン:一等水雷兵。快活で経験豊富、技術も確かな若者。同乗していた弟を反乱で亡くし、空爆で母と姉妹を亡くし、そして最後、父を命令により魚雷で撃ち、数日ですべての家族を失う。しかし、ふさぎ込むことなく、最後まで任務を全うする。

カースレイク:中尉。プライドとエリート意識の塊。ラルストンに恥をかかされたことを根に持ち、彼を殺そうとして返り討ちに合う。

イサートン:砲術長。彼の起こした事件と最期に泣く。

クライスラー兄弟:水測兵(兄)と伝令兵(弟)。

マクウェイター:18歳の調理担当兵。

ライリー、ピーターセン:機関員。

(ネタバレすると、ニコルスしか生き残りません。クライスラー兄、マクウェイター、ライリー、ピーターセンの4人は、散り際に見せ場がある。もちろん「コレ、泣かせにきてるな…」っていうのはわかるんだけども、泣きます。)

 

こんなメンバーで冬の北極海へ繰り出すわけなんですが、嫌がらせかと思うほどの悪天候、そしてドイツ軍のUボート(小型潜水艦のことらしいんだけど、写真見たら全然小型じゃない)の攻撃を受け、撤退や沈没で僚艦を失っていきます。何度も憎きヴィンセント・スター爺に打電して撤退のお伺いを立てるも、「ガンバレ!」「あとで応援部隊がいくからガンバレ!」と取り合わない。乗組員は何十時間も総員戦闘配備を強いられ、身も心もクタクタ。そんな中でのドラマ(っていうか簡単に言うと死にざま)がメインです。話の筋は単純明快なんだけど、とにかく涙が止まらない作品。

 

泣けるポイントはたくさんあります。

例えばイサートンの話。敵襲を受けた彼は、ポムポム砲(名前はサンリオのキャラのようにかわいいけど絶対かわいくない奴)を撃て!と命令します。本当は別の人の指示を待つ必要があったのですが、「責任は俺がとるからとにかく撃て!!!!」と命令。しかし、砲の中に詰め物がしてあるのを忘れたまま発射指示してしまったせいで、暴発が起き砲台ごと吹っ飛びます。死傷者は10人以上。艦付きの牧師も死なせてしまい、瀕死の艦長に水葬を取り仕切らせるという二重の苦しみ。責任を感じたイサートンは自室で拳銃自殺します。

他にもマクウェイターの死。彼は火の迫る弾薬庫で、消火のためにスプリンクラーを作動させます。しかしハッチは壊れて中から開けられず、避難することが叶いません。充満する水の中で仲間を抱きながら死んでいきます。ピーターセンも同様に、艦の底に閉じ込められた仲間のため、外から怪力でハッチを開け彼らを逃がし、その上、自分が艦底に入りハッチを閉めて死んでいきます。

…やっぱり言葉とか戦艦という舞台が独特過ぎて、一番泣けるシーンなのに上手に想像できないこちら2つのシーン。ということで簡単な基礎知識。大型船は沈没を防ぐため各部屋の気密性が高くなっており、浸水があると、損傷個所を遮蔽して艦へのダメージを最小限に抑えようとします。タイタニックでもあった気がするんだけど、閉じ込められて迫りくる水にあっぷあっぷするという、作中最も怖いシーン。マクウェイターもピーターセンもこういう亡くなり方をしたということです。

(物理的にも身分的にも)上のほうにいる方々は、ベッドの上で死ねるんですが、艦の底部分で働いている人々は閉じ込められたり、狭苦しい部屋で何が起きたかわからないまま死んでいくから、読んでいてしんどい。閉所恐怖症でもないのに、きつい!この圧迫感!!となりました。

 

さて、著者が何を伝えたかったかは今更知る由もないのですが、単純に、男気!とか自己犠牲の精神!とかいう言葉で片付けてはいけないと思います。特にイサートン。彼の不注意の遠因となったのは、寒さと睡眠不足であったことは言うまでもありません。マクウェイター、ピーターセンも、彼らが死を選んだ時点で、正気ではなかったと言えるでしょう。

改めて、冒頭のシーンの話。疲れ切った兵を連れて極寒の北極海に繰り出すのは無謀だ、という会話が思い出されます。その後も要所要所で、鼻の先が凍傷でやられる、とか、手の平がぐちゃぐちゃになった、という話が。敵影をレーダーで感知するたびに夜を徹して総員戦闘配備となります。配備が解除された後は、揺れる船室での数時間の雑魚寝ですから、疲れも取れない。そして食事は冷たいコンビーフ・サンドだけ。

こんな環境下で乗組員たちは、「辛いけどあとちょっと。頑張ろうな!!」なんて健全な精神と肉体を維持することができるわけなく、日々、心をやられる人が出てきます。「こんな待遇…反乱起こしてやろうぜ!」とか言っていた人も目がうつろになり、もはや全てを受け入れます。彼らがまともな精神状態ではないことを強く認識するのはこんなシーン。スカパ・フローを発して数日後、航海不能となった僚艦が離脱するのですが、「うらやましい」なんて思う人はいなかったと書かれています(離脱すれば生き残る確率が上がるが、そういう計算すらできない状態ということ)。誰もが今日を生きるのに必死。

そしてこのように、異常な空気に満たされた幽霊船と化しているユリシーズに対峙するのはドイツ軍。Uボートと呼ばれる小型の潜水艦やコンドル(戦闘機)で攻めてくるわけですが、統制されていて、レーダーで船団の位置を寸分たがわずとらえ、撤収のタイミングも絶妙。ユリシーズの乗組員(そして僚艦)は彼らに翻弄されます。

英伝にこんなシーンがあります。「この局面、必ず勝つにはどうすれば?」と聞くお偉いさんに、戦術家のヤン・ウェンリーは「6倍の兵力を維持し、無理のない補給線を確保すれば…」と答えます。そんな答えにお偉いさんは「そんな話をしているんじゃない。(もっとミラクルを起こす感じのやつちょうだい!!)」と苦い顔をする。ヤンは心の中で、「戦局を左右するのは、奇策でも士気の高さでも何でもなく、正しい戦術と整備と補給線だ…」なんて思う。なんでこのシーンを思い出したのかというと、ユリシーズを攻めるドイツ軍のパフォーマンスの高さは、ただただ、整備と補給のなせる業なんだろうなぁと感じたからです。ドイツ軍にも決死の行軍で兵のほとんどを失うとか、無能な上官とか、同じような物語はあると思うけど、このユリシーズの行軍においては、死にかけのスズメを鷹(コンドルだけにね!)が突っつきまわすというような構図でした。それもこれも、ヴィンセント・スターのせい!!!

戦争をテーマにした小説は、崇高な自己犠牲や、死をもって償う(無意味な)行為への賛美、仲間を大切に!というところに着地しがちなので個人的に嫌いです。個々の人間ドラマにフィーチャーして、小さい力が合わさって下支えされている国!みたいなところでお涙頂戴する、的な感じが無理!彼らの悲劇の根っこには、もっと大きな失策があるのに、そこは華麗にスルー。しかしこの小説は、整備や補給が満足に受けられない兵の極度のストレス、そしてそれに起因する精神の崩壊、また、ヴィンセント・スターへの糾弾がしっかり盛り込まれていて、より現実的だなと感じました。実は著者マクリーンは大戦中に海軍への従軍経験があるそうで。この小説から得られるメッセージは、全て彼が肌で感じたことなのかもなぁと思いました。

高校生の私が読んだならば、男の友情や自己犠牲に惹かれて、読書感想文に「かっこいいと思いました。明日から彼らを見習っていきたいと思います」とか書いちゃうと思うんだけど、そうじゃねぇよ、という。かっこいい男たちがいたというところは置いといて、戦争で先に死んでいくのは下っ端、そして少年たちからだっていうところ、軽く考えてはいけないな、と思いました。

クレームが恐ろしいこの世の中なので、全てのページの下部分に(※この行動は極寒の中満足な食事もできず何十時間も緊張状態を強いられた男たちの行動であり、通常の精神状態ではありませんのでご理解ご了承ください。良い子は真似しないでください)くらいは書いといたら?なんて思いました。

 

おわり。

感想はただ一言、「これが、若さか…」みずみずしさあふれる芥川賞(2002年)候補作 島崎理生「リトル・バイ・リトル」

こんにちは。

島崎理生「リトル・バイ・リトル」です。芥川賞候補にもなったので、結構有名な作品なのかしら。

久々に、出会いの妙を感じた本。運命の1冊になるようなこともないし、読み返すことも絶対ないけどw、ばったり昔の同級生と会って一晩語りあかしたような(そしてそれっきりまた他人に戻る)、そんな余韻が残る本でした。良い時間だった!!

リトル・バイ・リトル (角川文庫)

主人公はふみという高校卒業したての女の子。母と異父妹のユウちゃんと3人で暮らしている。母が二度目の離婚をしたことで学費のアテがなくなり、進学することができなくなった。とりあえずバイトをしながら今後のことを考え中。整体師として働いている母の仕事をきっかけに周というキックボクサーに出会い、少しずつ恋仲になる。

という話。

 

感性のみずみずしさが際立っていて良いです。

例えば、周と深夜のコインランドリーに入り「幸せだねぇ」と言う。コインランドリーで洗濯物待つ間ってなんであんなにほっこりするんだろう。あとは、通っている習字教室の先生のご飯。「白いゴマのかかった玄米になめこの味噌汁。里芋の煮物にアジの開き。納豆はパックではなくワラに包まれた高価なものだった」こういうご飯あったら一日幸せに過ごせるわ。

誰もが心の中に持っている「なんかいい気持ちになれるポイント」を的確に突いてくる。心の奥にしまい込んだ心地よさを取り出してきて、心をマッサージしてくれるんです。しかしそうやって、あれやこれやと「なんか気持ちいいもの」を書きだすのには熱心なのに、肝心なことは書かないでご想像にお任せするんですね。このギャップにやられる!!

まず、母とユウちゃんとの暮らし。母の言動を見る限り、自己中心的で男に期待をかけて結婚し(あるいは恋仲になり)裏切られるタイプであることがわかります。子育ては放棄して、女であることを最優先に。また、ユウちゃんはまだ小学生ということで、ふみは母のグチやイライラのはけ口にされているんだろうなぁということも想像に難くない。ユウちゃんはそんな母を軽蔑しているきらいがある。だったらこういうこと書けばいいんですよ。

「母の一番目の夫、つまり私の父はいいかげんな男だった。うまい話に飛びつき借金をこしらえたり、友人の連帯保証人になったり、疲れ切った母は離婚した。二番目の夫は、普通の人だった。彼は、やがて生まれたユウちゃんには優しかったが、私や母にはどことなく冷たかった。しかし、母には、連れ子を受け入れてくれた夫に遠慮する気持ちがあったのだろう。母の威勢のよさは封印され、いつもつくり笑いを浮かべていた気がする。しかしそんな生活も数年前に終わりを告げることになる。ユウちゃんは父に似ている。色が白くてお人形さんみたいで、ときどき、母を値踏みするような目で見ているところも全て…」(全て想像による補完ですw)

そして、自分が一番割を食っていることを読者にさらけ出せばいいんです。そして、共感を得ればいい。でも、あえて書かない。ふみの感情はおろか、分析や解釈を挟まずに、全て彼女の行動から想像させるあたり、焦らすなぁ。もっと教えて!おばさんに話してみなさいよ!!って気分に。笑

たぶん、こうやってふみの性格や想いを書き連ねていったら、量は3倍になるだろうし、もっとテーマが明確になるんだろうなと思うんだけど、読者それぞれの経験からふみを理解してね、そして、何かを感じてね、ってそういうことなのかもしれない。

また、ティッシュ配っていたら手を握られたり、周の男友達にベタベタされたり、ふみは、よく痴漢に遭います。そしてこれをあーあで済ませてしまう。こんなところも、彼女の性格を分析する鍵になります。痴漢に遭ったりセクハラされたりする人は、自信のなさが前面に出ていることが多い。理由は単純。反撃されない確率が高いからです。勘違いしている男の人多いけど、別にエッチな服を着ているからでも、誘っているからでもないんだよねぇ。しかも、エッチな服を着ているからと言って痴漢に遭ってもしょうがない理由にはならんけどな。

と、ふみは自信のないタイプなんだけど、学校の図書館から希少本をぱくってきたりするところはアクティブです。しかも司書の先生に「卒業証書はいらないからあの戯曲の本が欲しい」と懇願してたから犯人はバレバレで、即刻返却するようにというはがきをもらって悪びれもせず返却するような。クラスには友達がいないけど、保健室や司書の先生のような大人には自分をさらけだすタイプなのねぇ。ということもわかる。

そんなふみは自分の気持ちを言葉にできません。怖いと言ったら、寂しいと言ったら、自分のそんな気持ちを認めることになるから。一人目の父にある日突然捨てられたこと、二人目の父とは仲が悪かったこと、姉妹のように仲良しと思われている母と妹との関係がしっくりいっていないこと。そんな気持ちを何とか自覚しないようにしているんです。しかし、それをこじ開けてきたのが周でした。「なんでも話して!」とガンガン攻めてくる周と、苦笑いしながらも変わっていこうとするふみ。二人の今後の関係を示唆して、物語は終わります。

 

2時間ドラマを見ているようなさらさら感(正直、安っぽさも存分にあるけど)ですが、若さゆえの傷つきやすい心が率直に表現されていて、ただただ頷いてしまいました。心が洗われるよう!!手折られやすく、しかし柔軟。「若芽」っていう(ワカメって読むけどワカメじゃないよ)言葉がぴったりのこの小説。

 

 

ただ、一つだけミソがついたなぁと思うのが、さいごのさいご、二人の大切な初めての夜です。家族が全員留守の家でご飯を食べて、その後公園に散歩に行った時、なぜか井の頭公園の茂みの中で事に及ぶんですね。なんで家に帰ってからしないんだろう。ふみは野犬に噛まれそうとか心配してたけど、覗きとかのほうがタチ悪いと思うよ。てか、「君のこと大切にする」的なこと言って、舌の根も乾かぬうちにあおかんって。…若い感性とかみずみずしさってそういうことなんですか?

って、さわやかな感動が訪れるべき最後の1ページで「???????」ってなり、そのまま了。これが、若さか…。

 

やっぱり芥川賞(受賞作も候補作も)は全体的に若いな~っていう印象。次はどっしり系を読みたいです。

 

おわり。