はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

父の不倫により崩壊してしまった家族を、妻・夫・子どもそれぞれの視点から描く物語。 「靴ひも」ドメニコ・スタルノーネ(新潮クレストブックス)

こんにちは。

「靴ひも」ドメニコ・スタルノーネ(新潮クレストブックス)

靴ひも (新潮クレスト・ブックス)

どっちが先なのかわからないけど、「パラサイト」を思わせる表紙の構図なので勝手に韓国小説だと思っていましたが、これはイタリア小説です。笑

父の不倫により崩壊してしまった家族を、妻・夫・子どもそれぞれの視点から描く物語。夫と妻の言い分で物語の85%を占め、子どもたちがほとんど登場してこないところがこの物語のミソ。妻と夫の言い分との中に子どもの存在を埋もれさせることで、間接的に子どもの苦悩を描き出している。

 

ヴァカンスから戻った老夫婦は、荒らされ放題の家を目にします。部屋の状態は筆舌に尽くしがたく、金目のものがなかったから腹いせに荒らしたのでは、と思しき有様。飼っていた猫もどこかに消えています。警察に相談しても「命があってよかったですね」と、こんなこと日常茶飯事と言わんばかりの対応で相手にされません。とぼとぼと家に帰り、片付けに取りかかることにした二人でした。

夫は数十年間、若い女と不倫し、家を飛び出たことがあります。何年にもわたるいがみ合いの末にやり直すことを決意した二人にとって、それは絶対触れてはならない話題。しかし、荒らされた部屋から見つかるのは、悲しい過去の痕跡ばかり。夫をなじる妻の手紙からは、辛く苦しい父親不在の時期がよみがえります。

 

一度は壊れた家族を再び結びつけることになったのは、タイトルにもある”靴ひも”。ダメ夫が唯一子どもとまともなコミュニケーションを取った思い出が、靴ひもの結び方を教えることでした。

「お兄ちゃんの靴ひもの結び方はお父さんが教えたの?私にも教えて」

という娘の言葉をきっかけに、再び家族のもとへ帰ることを決めた夫。靴ひもの思い出は夫にとって、子どもとの絆を感じさせるかけがえのないものでした。

 

妻の手紙で構成される第一部と、夫の回想から構成される第二部。妻のヒステリーと夫の言い分、どっちもどっちだなぁ…なんて思っていたところに、事件の真相が発覚する衝撃の第三部。

 

第三部を読むと、子どもは親のことを正しく見ていると感じます。そして、親の不仲、親の不在に、親が思うよりも傷つけられている。

”靴ひも”の思い出も、子どもにとっては全然違うものでした。”靴ひも”のことを問われた娘はこう言い放ちます。

あの二人にとってなにか意味をもつひもがあるとしたら、お互いを縛り付けて、生涯苦しめ続けてきたひもだけよ!

子ども時代を奪い、自分の人生を歪ませた両親に損害賠償を請求したいと言ってはばからない娘は、子どもを持たない人生を選びました。子だくさんの兄に何か言われる度に、「コピペ並の手軽さで子どもを作っている兄ちゃんに何がわかる!」とバカにします。コピペ並みって・・・笑

親ゆずりの神経質さと気性の荒さを持て余し、結婚生活も長続きせず、人間関係に苦労している娘は、責任の所在を幼い頃の悲しい記憶に求めるきらいはありますが、言っていることは概ね正しい。

 

特に、子どもを拒むことを途中で諦めて家に舞い戻り、母のサディズムに身を任せた父を憎んでいます。

母の精神をボロボロにして自分たちから母を奪ったこと、母の絶望や怒りの矛先が全て子どもに向いたこと、若い愛人への熱狂が冷めて後悔してから家に戻ったこと、そのせいで母のヒステリーにさらされたこと。

それに対して何の責任も取らないで家族の一員面しているクソジジイ!と。

 

娘は言います。

ひとたび親になったら私の人生は私のものだと主張できない

 

子ども持つことは完全に自己を放棄すること

子どものために人生のある時期を犠牲にする覚悟がないなら、子どもを作るんじゃねぇ、と。

厳しい言葉ですが、子どもなんて特別な手続きもなくコピペ並の簡単さでできてしまうものだから、ホイホイ子作りする前に親になる自覚を持てと。自分の意志薄弱のせいで不幸な子どもを増やすなと。今は親も親の人生を楽しんで良いという風潮ですが、それは節度を持ってのこと。特に異性間のトラブルを家庭に持ち込むのは御法度です。父と母に男と女を垣間見ることで、子どもが深く傷つく可能性がある。

 

熟年夫婦のいざこざの小説かと思っていたら、最後の最後で子どもが黙っちゃいない…、と驚きの小説。子どもは無力だから守ってあげないといけない、と大変身につまされる内容でした。この小説の子どもたちに幸あれと祈らずにいられません。

 

おわり。

良き結婚とは、点で見ると不幸せな出来事ばかりであっても、線で見るとは幸せなものかもしれない。「コレラ時代の愛」G・ガルシア=マルケス

こんにちは。

 

コレラ時代の愛」G・ガルシア=マルケス

コレラの時代の愛

人生で初めて、1年以上かかって読み終えた本です。すっげえ面白いってわけではないけど、決してつまらなくはない、いい意味で超単調な話。数ヶ月ぶりにページをめくっても、すっと馴染んでいけます。ちなみにコレラはあんまり関係ない。笑

 

ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもない。

という、書き出しが詩的で美しい◎

 

舞台は1860年代~1930年代のコロンビア、51年9カ月と4日間(!!)、一人の女性を思い続けた男の物語。

 

フロレンティーノ・アリーサという貧しい青年は、若い頃に成金商人の娘フェルミーナ・ダーサという少女に恋をします。二人は秘密の文通の中で互いへの愛を確信するのですが、フェルミーナの父は二人の恋愛に猛反対し、彼女を国外に連れ出すなどして、二人の恋を妨害します。妨害にもめげずに続いていた恋でしたが、フェルミーナが金も地位もある医師フナベル・ウルビーノとの結婚を決めたことで、唐突に終わりを告げました。

フェルミーナの結婚を裏切りと感じたフロレンティーノは、食欲をなくしてやつれ、住んでいた町を飛び出してみたり、その後は仕事に熱中してみたり、失恋あるあるをフルコースで体験。その後、彼女を憎み売女呼ばわりすることもありましたが、やはりどうしても振り切れなかったのはフェルミーナへの思いでした。

 

それから約30年。

妾の子だったフロレンティーノは幼少期こそ貧しかったものの、父の家系で自分以外に男が生まれなかったことで棚ぼた式に家業を継ぎ、ウルビーノ夫妻と”上流階級仲間”として相まみえるようになります。しかも、まだ飽きもせずフェルミーナを思っているという。笑

普通の人には思いつかないような気持ち悪さ全開の行為を繰り返しながら、フェルミーナに対して直接的な行動はおこさずに、彼女を見守り続ける彼。フロレンティーノはじっと”ある時”を待っていたのでした。

 

ここで冒頭の、”ビターアーモンドの匂い”に戻ります。友人の家のドアを開けた医師フナベル・ウルビーノは、ビターアーモンドの香りを嗅いで、友人の死を悟ります。そして、友人の死を嘆き命の儚さを感じる暇も無く、彼もなんと数時間後に命を落としてしまうのです。庭の木に止まっているオウムを捕まえようとして木から落ちるというあっけない(ドラマにもならない)最期でした。

 

フナベル・ウルビーノが亡くなるとき、それこそ、フロレンティーノが待っていた”ある時”なのでした。喪が開けないうちにフロレンティーノはフェルミーナを訪ね、数十年の思いを再度告白します。フナベルの死をきっかけに、フロレンティーノとフェルミーナの物語が再び動き出します。

 

若い頃の恋、51年9ヶ月と4日にわたる片思い、そしてついに二人が船上で束の間結ばれる…と、70代の男と女の生涯の(しょうもない)あれこれを延々見せつけられる約500ページ。そりゃ読み終わるのに1年もかかるわ、ってなるわけです。笑

 

基本フェルミーナはドライで頑固で、全体にわたってフロレンティーノへの愛情はほとんど感じられなないのですが、実は感情表現が下手なだけでフロレンティーノのことを想っていました。

年寄りの恋なんてみっともないと母をたしなめた娘に、昔は若すぎるからと邪魔された。やっと思いを遂げようとする今、年を取っているからと邪魔するなんて!もう邪魔はさせない!と娘を出禁にするのです。

 

彼女も、プライドの高さから孤独を選ばされてきたんでしょう。そんな女性に必要なのは、フロレンティーノという崇拝者と、何くれと世話を焼いてくれる保護者のような年上の夫…という意味で彼女の男運はめちゃめちゃ良いんですが、それには全く気付いていないんだよなぁ。笑

 

さて、ガルシア=マルケスがどうしてこんな小説を書いたかというと、「約半世紀のあいだ、同じ人を思い続ける物語を書きたい!」という動機があったからだそうです。そんな嘘みたいな恋を小説の中で成就するために、舞台設定や人物設定に吟味を重ね、ようやく1860年~1930年のコロンビアが選び出されたとのこと。

「50年以上同じ人を思い続ける」という現実に起きえない純愛を普通の人間の生活の中にぶち込もうとした結果、登場人物たちは相当な無理を強いられます。フロレンティーノなんかは月月火水木金金と、休みなくセフレのもとに通い続け、しかもそのうち2人を間接的に死に至らしめています。50年ごしの”純愛”を描く、それも、現実にありえるような姿で、という縛りプレイをするために、バタフライ効果的に多数の人が傷つけられていくという。

 

まあ、「50年来の愛」を単純で安っぽい小説で終わらせず、「50年以上同じ人を愛して思いを成就するためには、金もいっぱい作って、大量のセフレも作ってセルフケアしていかないとかなり厳しいっす…」という”現実”を示しているあたり、著者は、酸いも甘いもかみ分けたオトナなんだろうな、と想像されます。

 

フェルミーナとフロレンティーノの恋は置いといて、人生、とりわけ結婚というものの示唆に富む作品。

ウルビーノ夫妻の結婚は、些細な諍いの連続でした。嫁姑問題、夫の不倫問題だけでなく、石鹸がないだけで大げんか、朝自分より先に起きてせかせか動き回る夫に対して、わざと早起きしている!と殺意さえ抱く妻、まるで幸せそうには見えないんだけど、フナベルの死の後、フェルミーナはフナベルへの愛を感じ、自分の結婚生活は幸せだったと確信します。

良き結婚とは、一瞬一瞬という点で見ると不幸せな出来事ばかりであっても、連続した時間で見たときにはじんわりと幸せを感じる、そういうものなのかもしれない。

 

「50年も続く恋を描く」というある意味実験的な小説。500ページのボリュームのなかで読者が得られるのは、”人生がいかに凡庸で滑稽なものか”ということ。凡庸で滑稽な行いをくり返し、恥をかき、しょうもないものばかり集めていても、生きてさえいれば知らぬ間に何かしら積み上がっていると。

 

その反面、壮年期から老年期に充実した毎日を過ごさないことの不幸についてもしっかり言及されています。

フェルミーナを思って早30年。フロレンティーノはある夜に、自室でフェルミーナとの出会いを思い出し、『あれから30年も経つのか!!』と愕然とします。あれから30年、自分は何をしてきたのだろう、と。フェルミーナ以外のものに無頓着すぎたフロレンティーノは、人との関わりを拒否し、何も得ず、髪すら失って、ただのつまらない老人になりおおせたことに気付く。

対してフェルミーナ。結婚してからの30年は大変充実した30年でした。子どもを産み育て、夫と旅行し、本人は、クソ…って感じることばっかりだったけど、自分の人生を謳歌していました。

 

ハタチになるころまではだいたいみんな同じだけど、ハタチ過ぎてから還暦を迎えるまでは、気を張って生きていないと、30年もの時間をドブに捨てるような自体が簡単に起こりえると、二人の人生を交差させて比較することで、フロレンティーノの人生のスカスカ感を際立せます。

老年期には、自分の思い出を堀り起こしして数少ない美しい思い出を見つけることに費やすことになります。今を真剣に生きること、そして、人との関わりを持つこと、こんな超単純なことが生きていく上でとっても大切なんだと、フロレンティーノが身をもって示しています。

まあ彼自身は、フェルミーナと結ばれたことで、50年分をペイしたつもりかもしれないけど。笑

 

枕元に置いておいて、時間をかけてゆっくり味わいたい小説でした。

 

おわり。

後知恵はもっとも明敏な助言者。Why?よりもHow?から人生を始めよ。「静かなる天使の叫び」R.J.エロリー

こんにちは。

 

「静かなる天使の叫び」R.J.エロリー

静かなる天使の叫び (上) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (下) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

小説を読んでいると、「なんで主人公はこんなにメソメソしているんだろう」と感じる瞬間が多々あります。自分の身に起こった不幸を思い悩むのは構わないんだけど、他人の悲しみを自分のものと混同し、ウジウジウジウジ、先に進めなくなるタイプの主人公がいる。しかもそれを他人に押し付けたり、悩みすぎて人格を崩壊させてしまったりする。

こういうの読むたびに「これは...心が弱いというアピールか何かなのかな?」と、そういう性癖として片付けてしまう私は狭量な人間なんでしょうが、やっぱり、自分の周りで起こる出来事に影響されすぎでは?内にこもりすぎでは?とだんだんイライラしてきて、自分の心くらい自分で守れバカ者といいたくなるのです。笑

この本は、ある事件を境に、人生をそっくり奪われたと感じる男の一代記ともよめるミステリー。メソメソウジウジ系男子が主人公。

 

舞台は第二次世界大戦直前のアメリカ南部の田舎町。11才のジョセフ・ヴォーンは、つい最近までごくごく普通の少年でした。というのも、つい最近、最愛の父をなくしたばかりだからです。

父の死とほぼ時を同じくして、ジョセフの住む町では凄惨な連続殺人事件が起こります。犠牲者は全て幼い少女。人一倍感受性の強いジョセフは、自分にも何か責任があるのではないかと、事件を消化しきれずに悩み始めます。戦争による大量殺戮と、身近な殺人事件。ジョセフの周りには常に、理不尽な死がありました。

戦争が激化するなか、隣人のドイツ人一家クルーガー家に疑いの眼差しが向けられ、嫌がらせが始まります。気丈に振る舞っていた母もクルーガー家へのリンチを境に精神を病み、遂には精神病院へ。母は何かを知っていた様子で…。

 

あの殺人事件が自分の人生を狂わせた。

ジョセフは、事件の真相解明に執着し、卑屈になっていきます。数年後、保安官の勧めでニューヨークに渡り、作家としての活動を始めたジョセフ。事件はやっと過去のものになりつつあるかと思われましたが、死神はジョセフを追ってニューヨークにもやってきて…

 

ミステリージャンルに分類はされるけど、ミステリーとしては今ひとつ、もとい今ふたつなのでは?というレベルかと。まず、犯人以外に容疑者になれる人間が存在しないという体たらく。しかも、動機もトリックも自白するチャンスのないまま、せっかちなジョセフに銃殺される真犯人。

最後に犯人が饒舌に自白する小説は嫌いって言ったけど、自白もないままいきなりズドンされたらモヤモヤしか残らないやんけ!と、これはこれで重クレームなんですが!!笑

ついでに、心理描写も詰めが甘い。自分で世に産み出したキャラのはずなのに、キャラの内面を十分に把握しきれていない気がする。キャラの行動が場当たり的で辻褄が合っていない

例えばジョセフ、大人になるにつれ、被害者少女の最期を妙に生々しく想像するようになってきて、すごく気持ちが悪い。辛い気持ちに蓋をしてじっと耐えると見せかけて、実はそういう空想を弄ぶジョセフ。この矛盾した行為のせいで、ジョセフ真犯人説は最後まで消えなかったり。笑

また、担任だった女教師のアレグサンドラと付き合うジョセフなんだけど、突然アラサーのアレグサンドラが家に訪ねてきて関係を迫ったことをきっかけに堕落の道を辿ってみたり、二人でアオカンして逮捕されてみたり、ウジウジジクジク思い悩む割に、考えが浅くて周囲への配慮を怠りがちなあたり、何度も「おまえ、なにしてるん?」って突っ込みたくなります。

 

クレームついでに、

ジョセフは作家という設定なんだけど、個人的に、作家が主人公の小説は好きじゃないんです。なんかこう、主人公の影から著者がひょっこり顔を出す瞬間があるから。ジョセフもこの例に漏れず、ジョセフと、ジョセフに自分の理想を投影させた著者という一人二役を演じていると感じました。主人公の内面を何度理解しようとしても、あけてもあけても本体にたどり着けないマトリョーシカ感がある。

あと、主人公が作家の場合、作中でその主人公が書く著作は、著者のレベルをゆうに越えた傑作になりがち問題があって(偏見です)自分の夢投影すんのも大概にせえよ!と言いたくなる。ジョセフも、魂と情熱の傑作として「ひそやかに天使を信じて」という作品を仕上げるんだけど、君の本は売れに売れて印刷機が間に合わないだの読者はみんな憤慨しており、君の本はアメリカを動かすぞ!とか誉めちぎられていて、

うわ...何をやっても話がうまくいきすぎる少女マンガみてぇ…

と白けてしまう。

 

さて、気をとりなおして次は良かったポイントです。

アメリカ南部の田舎町が舞台ということで、アメリカ人が著者かと思ったんだけど、著者は実はイギリス人。「エデンの東」を彷彿とさせる舞台設定だなって思ったけど、舞台を作り上げるにあたっては、本当にスタインベックを意識したのかもしれない。

エデンの東」のオマージュ(勝手に認定)らしく、サミュエルとリーを足して二で割ったようなライリーっていう男が出てくるんだけど、彼ばかりが、現実には存在し得ない好人物として生き生きと描かれています。

過去の世界で迷子になってしまったジョセフに、ライリーはこんなことをいいます。

喪に服すのは供えた花が萎れるまで。

過去はあったままに、現在はあるがままに、未来はできる限りのものに

 

人生においては、「なぜ?」という問いが常に付きまといます。「なぜあれをしなかった?」「なぜあの道を選んでしまったのか」と。後知恵はもっとも明敏な助言者というのはジョセフの口癖(考えクセ?)ですが、過去の選択を生きている人間の多いことといったら。

しかし「なぜ」ではなく「どうするか」ではないかとライリーはジョセフに伝えます。Why?という振り返りが自らの立つ地面を均す行為だとすれば、How?とは、どんな土台の上にもそれなりの人生を築いてやるという力強い決意なのかもしれません。

 

「ありふれた祈り」、「ラスト・チャイルド」という、少年が成長するミステリーを心から求めている私。

「海外 ミステリー 少年の成長」とか検索しちゃうんだけど、検索のクセが。。。笑

この小説は、少年の成長物語とはほど遠く、子どもであることを許されなかった男の半生を綴った暗い物語。神に与えられたものを奪われ続ける人生を送った男は、ついにこの世に救いを見いだすこときなかったという。偶然の積み重なりではありましたが、不自由な人生を押し付けられたジョセフの人生に、同情を禁じ得ません。

 

おわり

本当の正義とは何かを、妥協することなく追究した重厚なミステリ「流れは、いつか海へと」ウォルター・モズリイ

こんにちは。

 

「流れは、いつか海へと」ウォルター・モズリイ

このミス2020、海外部門13位!

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ミステリ)

昼に再放送されている刑事ドラマに出てくる刑事たちは、犯人を追うときですらシートベルトをするし、もちろん拳銃ぶっ放したりなどしない。人生を奪われた者の復讐劇ですら、「だって殺人は罪だもの!」と、どこからどう見ても可哀想な犯人に「亡くなったアナタのお母さんはそんなこと望んでませんよ」なんて見当違いの説教を垂れたりする。民放の刑事ドラマ程度では、罪を裁くのに法以外を認めてはならないという不文律があるし、私刑を認めるなんて御法度。

まぁ、民放ドラマの魅力はチープさに尽きるのでそれは一旦おいておくとして、「法を超えて私人が正義を執行することの是非」という問いに真摯に向き合った小説がこちら。

 

主人公は私立探偵のジョー・キング・オリヴァー。”キング”の由来を語るところから始まるアメリカンな感じが、すごく良い雰囲気を醸し出している、上々の滑り出し。

彼は、刑事時代に起きたハニトラ事件により刑事の職を追われます。冷酷な元妻に怯えながらも、自分になついている娘との交流を唯一の癒やしとして細々と暮らしており、トラウマも克服途上にある。

あるとき、警官殺しの罪で収監中の黒人ジャーナリストに関わる案件が舞い込んできます。ジャーナリストの弁護を担当していた人権派弁護士が、突然弁護を放棄したという怪しい案件。それとほぼ同時に、自分をハニトラにかけた女から謝罪の手紙が届き、ハニトラを指示した人間の存在が発覚します。

調べてみると、黒人ジャーナリストの事件とハニトラ事件は、どちらも警察の大スキャンダルのもみ消しを企図した事件であり、黒幕も同一人物らしいということがわかりました。

事件に首を突っ込むと決めたわけでもないのに、可哀想なオリヴァーは、その頃から日常的に命を狙われ続ける羽目に

娘との時間を守るため、一度は事件から手を引くオリヴァーでしたが、真相を暴き、ジャーナリストを救うことを決意。相棒に選んだのは、元凶悪犯のメルカルトでした。

 

 

最初は若干女々しさを感じてしまう主人公ではありますが、”筋を通す”ことへのこだわりかけては右に出る者はいないのではという不器用さ(&かっこよさ)。真実に迫るためのやり口も大変エグいし、文句なしのハードボイルド認定。フィリップ・マーロウなんかよりも清潔感があって好ましい感じがする!笑

 

オリヴァーの自己肯定感は超低めで、自分をクズみたいなもんだと思っていますが、読者から見ると、そんなことは全然ないっていうことがわかります。

メルカルトは、自分を人間として扱ってくれた唯一の刑事オリヴァーに尊敬の念を持っているし、オリヴァーの理解者である娼婦は、窮地を救ってくれたことを感謝し続けている。何くれと世話を焼いてくれる娘だってそう。

オリヴァーが事件解決のために会いに行く人たちも、最終的には彼に対して敬意を払うようになります。コミュニケーション能力も、人間としてのレベルも実はすごく高いんだけども、それを生かせずに損をして、必要以上に卑屈になっているオリヴァー。うーん、ますます応援したくなる!笑

 

さて、オリヴァーとメルカルトがぶちのめそうとしている相手は警察組織ということで、一筋縄ではいかない。やることなすこと邪魔ばかりされるし、それ以前に命は狙われ続けているし、全く歯が立ちません。ハードボイルド探偵が短命なのは世の常で、オリヴァーが死を覚悟して死亡フラグをおっ立てまくる頃から、この人、マスコミに全部の証拠を送りつけた直後にダイナマイトを体に巻きつけて四散したりするんじゃないかしらと真剣に心配になってきますが、その点はご安心。正攻法での救出を断念し、キャッチミーイフユーキャン的な急展開になるのでワクワクします。

 

ミステリーの面白さを左右するのは相棒選びだと思っていますが、凶悪犯を相棒にするなんて粋な感じで◎ 裏社会にコネのあるメルカルトですから、大胆不敵で手際も鮮やか。大量の重火器を搭載した特別仕様車でオリヴァーを護衛するシーンが好き。やることなすことイケメンなので、タイタニックの頃のディカプリオで脳内再生するのをおススメします。笑

 

オリヴァーはメルカルトに再会したとき、

わたしが鏡の中に見るものを、他人がわたしの中に見ることはめったにない

と感じます。メルカルトは、オリヴァーの、公正であろう、善くあろうというポリシーを見て取り、それを評価してくれる希有な存在だと気付くのです。自分が大切にしているポリシーは概して人に理解されません。良心に従った善き行いが評価されることはほとんどなく、声の大きな人に横取りされて終わるのが世の常。

オリヴァーが相棒にメルカルトを選んだのは、「本当の正義とは何か」という価値観を共有できる存在と感じたからなのかもしれません。

 

警察を敵に回す過酷な捜査の中、2人とも自らの手を汚し続けます。一人のジャーナリストの汚名を雪ぐために、人を痛めつけ殺してよいのか?という問いはいつもつきまといます。それでもオリヴァーを突き動かすのは、”弱者を守るためにこそ法や警察は存在しているのではなかったか??”という信念。

そもそも、罪を裁くことを法に委ねたら、罪を認めているジャーナリストは死刑確定です。しかし、その原因となった警察官の不正のほうが重罪ではないか?という、法の裁きを超えたこの問題に、オリヴァーは正面から切り込み、自らを傷ついていきます。

 

自らの手を汚している以上「正義の執行者」と呼ぶのはふさわしくないだろうけれど、元警察官として、娘を持つ親として、不正義に目を背けないという姿勢には、異論を差し挟む余地はないように思いました。

 

解説を読むと、実際にあった事件に着想を得てこの物語が書かれたことが明らかにされます。簡単には割り切れないザラザラ感が残る作品。「円熟の技」と評されるだけあって、重厚感がたまらない作品でした。

 

おわり。

「‘’愛”なしで生きること」を自らに課し続けた女の一生 「オルガ」ベルンハルト・シュリンク  

こんにちは。

 

「オルガ」ベルンハルト・シュリンク

「朗読者」の著者ベルンハルト・シュリンクの作品です。朗読者に出てきた女のように、普通の幸せを手にできない強い女が主人公。

オルガ (新潮クレスト・ブックス)

舞台は19世紀末。幼い頃に両親を亡くし、ドイツの祖母の家で暮らしたオルガは、村の実力者である農場主の息子ヘルベルトと恋仲になります。しかし、ヘルベルトの妹や両親の妨害に遇い、二人の結婚は叶わないまま月日は過ぎ、オルガは教師としてキャリアを築きます。

ヘルベルトは兵役を終えましたが、熱に浮かされたように未開の地への夢を語り続けて働きもせず、ついに、北極への冒険の旅に出たまま戻らず終いに。

その後オルガは、戦火から逃げ、難聴と戦い、孤独に耐え…数々の試練を一人きりで乗り越えます。齢80を過ぎたある夜、オルガは公園で起きた爆発事故に巻き込まれて亡くなりました。

なぜ老女が夜中に公園にいたのか?オルガと夜中の散歩などまるで結びつかない…。

晩年のオルガを知る男が、オルガの書いた手紙をたよりに彼女の半生を探る小説。

 

オルガが主人公で、幼い頃からオルガ60歳くらいの頃までの人生を描く第一部。

家に週2度ほど来ていたリンケさん(オルガ)との思い出を”ぼく”が語る第二部。

そして最後に、オルガがヘルベルトに宛てた手紙の束を紐解く第三部。

 

いろんな視点からオルガの人生を眺める構成なのですが、第一部~第三部を通読し組み合わせることで、やっとオルガの身に起きた出来事の6割くらいを知ることができます(それでも6割!)。あとの部分は想像で補うことになるのですが、オルガの頑固な性格から察するに、残りは、傷つくこともなければ心から笑うこともない、寂しい日々のあれこれだったのだろうと思われる。

 

オルガの一代記なのに、オルガひとりぼっちの日々を徹底的に排除することで、人生の価値は、長さではなくその中にどれだけ素晴らしい物語を詰め込んだかで評価される(人との関わりを拒否した時期に本当の人生なんて存在しない)ということを示そうとしている?なんて感じます。

 

オルガの人生には、常に「反対を押し切る」行為が伴いました。進学、恋愛、結婚、就職…

”反対を押し切る”…この行為は様々な作品で、熱意を証明する行為として取り上げられますが、そんな素晴らしいわけなく、無駄な労力と不快感、孤独を伴い、人間関係の崩壊をしばしば招くものです。彼女の前には常に壁があり続け、逃げずに壁を突破することに彼女の時間の多くは費やされました。それは彼女が勇敢だったからではなく、弱いままでは生きていけなかったから。不幸な人生を押しつけられながらも、足掻き続けたのが彼女の一生でした。

 

世間には、”不幸な時期も時にはあるけれど、どんな人間も、幸せな出来事と不幸な出来事はほぼ同じくらいなんだよ。死に際に総合してみるとだいたい半々だから大丈夫!”という何の根拠もない妄言が一人歩きしていて、「幸せな人」「不幸な人」なんてなくて気の持ちようと解釈されている節があるけれど本当なのかしら。その流れで、他人のSOSを成長の一過程として済まし、「神は乗り越えられない試練は与えない」とか言って真剣に受け止めないことすらあるのは何なんだろう。その苦労のおかげで成長する人はもちろんいるけれど、打ちのめされてしまう9割の人にも思いやりを抱いて欲しいと思うわけです。

 

オルガを強い!!と褒め称え、その障壁は君の人生のスパイスだったんだろうね~、と終わらせてしまうのはちょっとズルい。もう一歩踏み込んで、彼女が不幸だったことは素直に認めてあげてほしい。

 

個人的に、幸せな人生になるかどうかは、幼い頃に心に負った傷の多寡で決まってくると思います。身分、経済力、いじめ…障壁が少なければ少ないほど、太陽の当たる道に歩み出て、傷の多い心はしぜん暗いところに向かっていく。

メディアでは「マイナスから這い上がった人」がたくさん出てくるので、試練も通過儀礼みたいなもんだと錯覚しがちだけど、そういう人が超少数だからこそテレビに出てくるんです!笑

 

ただ、オルガは可哀想な女性ではありますが、小動物系のか弱さは残念ながら備えておらず、むしろ逆。まあ直情型の人間で、行動の端々に「激情」を見て取ます。え!???となりながらも、彼女の人間らしさを垣間見れる貴重なシーンのいくつかが印象的。

 

オルガは、「愛」に恵まれない人生を送りました。ヘルベルトを失い、小さい頃から面倒を見ていた男の子ともわかり合えなかったオルガの人生は、「”愛”なしで生きること」を自らに課し続けた人生でした。もちろん自分の不器用さが招いた部分もあるかもしれないけど、人生の不条理を感じてしまいます。

気の難しいオルガですが、贈るべき言葉を他人に贈れる優しさを持っていました。相手が欲しくない言葉を選んでかけるようなヤツや、無意識に相手を追い詰めるずるい言葉を使う人もいる中、相手が必要とする言葉を贈ることのできるオルガには、もっと幸せになって欲しかったと思うのです。

 

個人的には「朗読者」よりもイイ!

著者が、電車の旅の中で軽い気持ちで読んでくれて構わない本を書きたかったと言っているそうなので、休日の朝にだらだら読みたいです。

 

おわり。

穏やかに見えるけど、怪しい人間がうろつく「狂気の森」で起きる失踪事件が暴く人の闇。「娘を吞んだ道」スティーナ・ジャクソン

こんにちは。

 

最近は海外ミステリにどっぷり浸かり、面白そうな本を探しては読みあさっています。ある事件を通して、社会の構造的な問題や、人間の底を垣間見るような作品が好き。海外ミステリはファンが多い分、ガイドブックなんかも充実しているのが嬉しい。最近は暇さえあれば「このミス2021年度版」で次読む本に目星をつけています。

古典作品ばっかり読んでいた頃は、レビューもガイドブックもなく、「読書ってこんなに孤独な行為だったなんて…!」とか思ったりしましたが、海外ミステリ沼に落ちてからはそんな切なさとは無縁です☆イエイ!

 

2021年度のランキングからは悔しくも漏れてしまいましたが、自然・風景描写が大変素晴らしく、独特な雰囲気にのみ込まれてしまうのがこちら。

 

「娘を吞んだ道」スティーナ・ジャクソン

娘を呑んだ道 (小学館文庫)

舞台はスウェーデン。3年前にリナという少女が失踪しました。父親のレレは、リナのことを夜な夜な探し回っている高校教師。ある時、レレの働く高校に、メイヤという女子が転校してきました。メイヤの母は、男のもとに転がりこんでは別れ、を繰り返しているダメ女。妻にも捨てられ孤独なレレと、家に居場所のないメイヤには通じ合うものがあるようで、メイヤは次第にリナの事件に興味を持ち始めます。

その夏、リナが失踪した場所からそう遠くない場所で、ハンナという少女がまた失踪します。ハンナの失踪をきっかけに、三年間止まっていた時がついに動き出す…!

 

北欧はいいところと言われるけれど、北欧の小説はその片鱗すらなかった。笑 自然は美しいかもしれないけど、気候は最悪。夏なのにムシムシしてて、すっきり晴れることがほとんどありません。そして一日中太陽が沈まない白夜。夜になっても外が明るいなんて、まるで眠れやしないし、次第に変な気分になってくる気がします。まるで満月の夜のオオカミみたいに。レレの住む村も、一見穏やかに見えるけど、怪しい人間がうろつく「狂気の森」という印象。

 

そんな狂気の森に身を潜めるのは、戦争の経験から人の世を倦み山に引っ込んだ男や、若い頃に犯した罪を隠し、ひっそりと暮らす男。しかもだいたい銃を携帯しているという恐ろしさ。

リナの失踪当初、レレはそんな怪しい男の家をしらみつぶしに捜索していました。罵声を浴びせられたこともあれば、コーヒーに誘われたことだってあるけど、捜索の中で見つけたものはそれぞれの男の”孤独”だけだった。という言葉が印象的。

レレのまわりにはそんな哀しい男がたくさんいます。世の中の出来事と折り合いがつけられず、森にしか居場所がない男たち。

 

メイヤを取り囲む男も例外ではありません。メイヤの母の彼氏であるトルビョルンは、(陰で)ポルノビョルンの愛称で親しまれるポルノ蒐集家。怪しい小屋も持っている。

メイヤの彼氏は、世界の終末に備えるサバイバリストの一家の末の弟。彼氏はイイヤツだけど、彼氏の父と兄はちょっと気持ち悪い。「国に監視されている!!」という理由でスマホも禁止のおうち。

 

こういう事件における捜査の鉄則は「まずは関係者を疑え」ということで、情緒不安定なリナの彼氏も容疑者にラインアップされているし、読者としては、物語の語り手である酒浸りのレレも完全に白ではない?という印象。また、リナの同級生に言わせると、リナは優等生風の外見をした「クソビッチ」らしく、リナの正体もつかめない。事実、こんなクソみたいな村から出て行こうとする若者も少なくなくて、事件なのか家出なのか、それすらわからないまま、レレは娘を探し続けます。

 

唯一同じ痛みを共有できるはずの元妻アネッテは、娘はいなくなったものとして前を向こうとしていて、娘を探す努力をしているレレとは逆方向。娘を探すレレに対して、「あんまり変なコトしないでよねっ!!もうそういう恥ずかしいコトはやめてっ!!」となじる。アネッテはFacebookで悲劇のヒロインになりきり、それっぽいpostを繰り返して若干気持ちよくなっている節あり。リナが失踪して3年目にあたる日に彼氏のトマスと企画したイベントはまるで追悼式典のよう。しかもその後に「リナ、妹か弟ができたのよ」とトマスとの間にできた赤ちゃんのエコー画像をpostするなどするので、「ああ、こういう自己顕示欲の強い母親を持つと苦労しそうだな…」と、リナの家出説も現実味を帯びてきたり。

レレ曰く「トマスはセラピストとして、あそこをびんびんにして準備万端アネッテを受け入れた」(!!)とのことで、アネッテを睡眠薬と鎮静剤漬けにした上、折に触れて元夫に張り合おうとするトマスもなんか気持ち悪いということで、トマスも怪しい男リストに加えておく。笑

 

美しい森だけど、その中には”なにか”が身を潜めている。娘を見つけることを諦めないレレが、ひっそりとした森の中のコミュニティで積極的に波風を立てることで、事件の真相が明らかになります。辛い道のりを歩むレレの心の支えはきっと、メイヤの存在。レレにとってメイヤは「まだ自分は誰かを助けられるかもしれない」と思わせてくれる大切な存在だったのでしょう。

支え合う二人の未来に一筋の光が射し込む良い感じのエンディング。

 

 

ただ、心理描写や切なさ、ハラハラ感は良いけれど、ミステリとしてはもう一歩という感じがします。犯人当て要素は薄め。伏線の回収もいまいち。リナがクソビッチと噂された件についても真相は語られなかったので、本当にただ救いようのないビッチだった説すら出てくる。しかも、私が苦手な、さいごに長い自白で種明かしする系。いきなり犯人がべらべらしゃべり出し、「お、おまえ…無口やなかったんか…!?」ってなるのは結構興ざめしませんか。笑

 

前半怪しいヤツをたくさん出すのは良いけど、後半は犯人しか出てこないので、既定路線というか、もうこいつしかいないんだろうなぁ~ってなります。コナンのように、容疑者全員に一度は怪しいアクションをさせるくらいのサービス精神があってもいい。暗い森に迷い込んだ先で真実にたどり着くような他のミステリとは違い、中盤から犯人判明までは、周りに何もないハイウェイをひた走っているような印象。

犯人まであとは一本道です!!

ってそれでいいのか、ってなる。笑

 

途中までは面白かったのに、中盤以降の展開で最初に醸した怪しい雰囲気をダメにしてしまった感があってちょっとだけ惜しいので、次頑張りま賞ということで。笑

 

おわり。

 

このミステリーがすごい! 2021年版

このミステリーがすごい! 2021年版

  • 発売日: 2020/12/04
  • メディア: 単行本
 

 

祝!本屋大賞翻訳小説部門2位!「神さまの貨物」ジャン=クロード・グランベール

こんにちは。

本屋大賞が発表されました!

 

本屋だからこそできる本との出会いに価値を見い出し、本屋を盛り上げようというこの企画自体は大賛成ですが、国内作品については、販売開始してから其処此処で話題になっているような人気作ばかりこぞってチョイスされるのがちょっと意味がわからない。

そもそも、ノミネート作を見ると、書店員というブランドそのものが曖昧になってきます。既に売れていて「なんかほっこりあったまるいい話」や「ちょいミステリー」などを激推してくるライトな読書家が多いなら、そんな書店員のチョイスをアホみたいにありがたがるのはどうなのだろうか…?と。

ただ、こういう本は、出張の時に手持ちの本が切れたとき、どこでも手に入る上面白いという大変力強い相棒であるので、文句たれながら結局読むんだけど。笑

 

実は本屋大賞は、自分好みの本をてめぇで選べないようなバカ共には、自分に本当に刺さった本なんて教えてやらねぇ。どうせ大して内容を理解できないんだからライトなやつから始めとけよ?という書店員の皮肉なのかも…。「オススメ本なんですかぁ?」ってヨダレ垂らしながら聞く愚民共を書店員がこぞって馬鹿にする裏テーマがあったり…、と、そんな妄想をするのです。

 

さて、前置きが長くなりましたが、本屋大賞翻訳部門!

1位はおおかたの予想通り「ザリガニの鳴くところ」。2位は「神さまの貨物」と3位は「あの本は読まれているか」でした。個人的には海外文学を盛り上げるために、翻訳部門も10位までランキングして欲しい!

 

「神さまの貨物」ジャン・クロード=グランベール

神さまの貨物

むかしむかし、から始まる昔ばなし。ただ、語られるのはホロコーストの恐ろしいお話。

木こりの夫婦は、厳しい寒さと飢えの中、何とか食いつないでいました。幸い、食べさせるべき子どもがいないため、飢えた子どもを抱える他の家に比べるとまだマシなほう。自分たちに子を授けなかった神の采配に感謝する夫でしたが、妻はその反対のことを思っていました。食べさせる子どもがいないということは、愛すべき子どももいないことだから。

 

妻は、森を歩いているときに、変わった列車を見かけます。その列車を眺めながら、飢えからも寒さからも解放された、旅する自分を夢見たのです。手を振ると、時々手を振り返してくれることもあれば、何か書いた紙を投げられることもある、不思議な電車。彼女の生活は、列車を待つこと中心の生活になっていきました。

 

さて、その列車とは何のための列車だったのか。

それは、ユダヤ人を強制収容所に連行するための列車でした。

 

ここで物語は、元医学生で床屋の男の家族の話に移ります。男は、妻と双子の子どもと4人で、列車に乗ってどこかに向かっていました。乗っているのは、老人、目の不自由な人、子どもたち…こんな”用なし”の人間に待っている運命は容易に想像がつきます。自分が家族を守らなければ、と、刻々と悪くなる状況の中で考え続ける男。

双子にあげる乳も尽きた頃、男は子どもの1人を取り上げ、窓から木こりの妻に渡したのでした。

 

木こりの妻と、神さまからの贈り物である娘の苦しい暮らしと、男の収容所暮らしを交互に見せられ、陰鬱とした気分になる小説。救いも無し。

もしかしたら著者はハッピーエンドを描いたつもりかもしれないけど、こっちからしてみたら、あんなにあがいて苦しんで泣いて得られたのがこんなちっぽけな幸せって…、こんなのハッピーエンドじゃない!ってなる。

 

戦争は、猛烈な嵐のようなもので、民衆は耐え、逃げ惑い、過ぎるのを待つしかありません。終わった後も、「災難でしたね」で済まされてしまう。天災でなく人災のはずなのに、いつも天災扱いで事後処理されます。生き残るためになりふり構わず突き進む戦時中、失ったものを数える戦後…。

戦争ものは、登場人物に降りかかる災いを誰のせいにできないので、救いがなくて読むのが辛いですね。「あのときあんなことしなければ…」という過去の一地点にも遡れない。やりきれない。

 

収容所で祖父と父を亡くした著者が伝えたかったことは「エピローグ」にあります。

今までの口調と打って変わって、反語を多用した著者の生の言葉は、読者に何かを迫るよう。童話のような仕上がりに若干物足りなさを感じていましたが、エピローグの最後4行に全部持って行かれる。ああ…これを伝えるための物語だったのか…!!と。

そしてもっと驚きなのが、「覚え書き」。実際に、生後28日の双子が移送されたという事実か明かされます。おそらくこの事実に着想を得た物語なのではないかと思います。

 

実際の人生でも物語のなかでも、ほんとうにあってほしいもの、それは、愛だ。

 

持つ者が持たざる者に与えることすら難しいのに、持たざる者がより持たざる者に自分の全てを与えたこの愛の物語に、息が苦しくなるほどたくさんの思いが渦巻きます。

普遍的な「愛」をテーマにした物語ですが、「心が温かくなりました!」程度の感想では済ませたくない。凄惨なホロコーストの現実を伝えたかったという著者の思いを汲んで、「夜と霧」をもう一度。

 

2022年にアニメ映画化予定とのこと。

あと、この作品、2019年のフランス本屋大賞(Le Prix des Libraries)で審査委員会特別賞を受賞したそうです。フランスにも本屋大賞あるんだ!!笑

 

本屋大賞1位・3位のレビューはこちら

 

dandelion-67513.hateblo.jp

 

 

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