はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

ミニマリズムVS子ども。丁寧な暮らしを喧伝している人に、本当に心の豊かな人ってどれくらいいるんだろう。「冷たい家」JP・ディレイニー

こんにちは。

 

「冷たい家」JP・ディレイニー。ハヤカワ・ミステリ。

 

完全無比の家…ここに住む女はなぜか、皆不幸に見舞われている…という、まさに映画化されるために作られたようなストーリー!邦訳の出た2017年の時点では「映画化決定!!」とされていましたが、結局その話どうなったんかな…?

冷たい家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

絶賛物件探し中のジェーンは、”フォルゲート・ストリート一番地”にある超穴場物件を紹介されます。面接とテストをパスしないと入居できないというこの物件は、エドワード・モンクフォードという有名な建築家が建てた家でした。ミニマリズムの極地。生活感が全くない家。住むにあたっては、本の持ち込みNG、洗い物をためるのNG、床にものを置くのNGなど、家をステキに保つための数百にわたる細かな規約にサインしなければならないというクセの強すぎる家。それでもここに住みたい!と熱望し、面接をパスしたジェーンには、密かな決意がありました。そして、入居が決まってしばらくすると、エドワードから「割り切った関係」の誘いが…。

 

遡ること数年、同じように、この家に惹かれて入居を決めたエマという女性がいました。彼女も、ジェーンと同じようにある決意を秘めていた。さらに、ジェーンと同じように、入居をきっかけにエドワードと深い仲になったのでした。

ジェーンもエマも、エドワードの”前の女”が不審な死を遂げていることを知り、エドワードと死との関係について密かに調べ始めます。そんな彼女たちの周りには、しだいに奇妙な出来事が起こり始めて…。

 

ジェーンとエマ。それぞれの物語が交互に語られる形で真相が明らかになっていきます。後半、エマの関係者がジェーンの物語に登場してくる頃から、どっちの話だったかわからなくなるの注意。笑 ただ、もちろん数年経っているので、(ある意味)共通の知り合いを取り巻く状況も変わっている上に、第三者であるジェーンの視点から見ると、関係者の印象も大きく違っていたりするので、そこも事件の謎を解く大きなヒントになるかと思います。

逆に、数年を経ても全く変わらずに若々しさを保ち続けているのはエドワード。

エドワード気持ち悪い。

 

エマの死はエドワードのせいなのか。エドワードの妻の死はエドワードのせいなのか。

という問題と、

エドワードってぶっちゃけ人間としてどうなの??

という問題。

ここをしっかり切り離して考えないと、最後どんでん返しでやられてしまいます。

 

ミステリ好きの例に漏れず、与えられた印象に翻弄されることなく、着実に隠された真実に迫りたいという、老練の刑事さながらのストイックさで本を読んでいる私ですが、活け作りとか、魚をさばくシーンとか、苦手な生臭いシーンが効果的に多用されているせいもあって、ついつい印象に引っ張られてしまいました。落ち着いて読めば、結構簡単に犯人わかったような気がするんだけど、く、くやしい…!!!笑

 

さて、エマとジェーンは、姉妹かと間違われるほど同じ容姿をしていますが、社交的で魅力的で若干小悪魔的なエマと、内向的で自己完結型のジェーン、2人の性格は大きく違っています。ただ、どちらもエドワードの虜に。

エマは自分に魅力があると思っており、どんな男と付きあっていようと、もっと上があるのではと感じています。エドワードとの交際には概ね満足。交際当初から、エマはエドワードのいいなりです。そんなエマに対して、エドワードは精神的なDVを加えます。あくまでも紳士的に、友達から引き離し、徐々に洗脳していく。

対してジェーンは、バリバリのキャリアウーマンなのに自己肯定感低め。そして、そういう女あるあるで、不倫経験も済。しかし、二度と同じ経験を繰り返さないという強い意志があるため、エドワードに対してもはっきりモノ申します。「私、アナルは嫌です!!」と宣言するなど、笑、簡単には折れません。そんなジェーンには、間接的DVなんかではなく、殴るなどの暴行を加えるエドワード。

ジェーンもエマも、不幸な経験を経て、過去の自分と決別したい!という明確な意思をもって入居を決めましたが、それにつけ込むエドワード。そういえば入居の面接の時、彼女たちの不幸話に目を輝かせていたなぁ…なんて。

エドワード気持ち悪い(定期)

 

とまぁ、エドワードはやばい男で、彼からの仕打ちに耐える意味はありません。その証拠に、入居から2週間そこらで逃げている危機管理能力の高い女も複数いたということがさりげなく明かされています。

じゃあ、そんなエドワードってなんで同じ容姿の女を漁っているのか?なんの目的があるのか…?というのもこの物語の謎の一つ。「(エドワードから)逃げろー!!」とハラハラしながら読みましょう。笑

 

さて、この本、コンマリのMethodに大いにインスパイアされた作品とのこと。

洗練された暮らし、丁寧な暮らし、ときめかないモノは全部捨てる…など、ゴミ箱のような家に住んでいる私からすると、「うらやましい…」なんて思う時もありますが、ミニマリズムを追求した先にあるものは本当に安らかさなのか、時々疑問に思います。

エドワードみたいなサイコ野郎はおいといて、)丁寧な暮らしを喧伝している人に、本当に心の豊かな人ってどれくらいいるんだろう。「『洗練された暮らし』を追求する」という目標も、ある意味執着であり、雑音なのではないかなんて思います。

 

この本の裏テーマは「ミニマリズムVS子ども」です。エントロピーを増大させる方向にしか動かない子どもという存在とミニマリズム、自分の思い通りにいかない存在である子ども。「ミニマリズムVS子ども」というテーマは、子どもを亡くし、障害のある子どもを抱える著者なりの皮肉なのかもしれません。

 

おわり。

「記憶」の儚さに苦しめられる6人の主人公を描いた傑作短編集 アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」(新潮クレスト)

こんにちは。

 

「メモリー・ウォール」アンソニー・ドーア(新潮クレスト)

メモリー・ウォール (新潮クレスト・ブックス)

「記憶」にまつわる6つの物語。久々に、「これは…!」と思わせる作品でした。(2010年の作品集だけど)「新しい才能をまた発掘してしまった…!!」とホクホクしてしまうほど素晴らしい!スタンディングオーベーション!という感じ。笑

短編にしては長めで各話30分くらいですが、長篇並にどっと疲れる読後感。毎回ここまで泣かせるか!というくらい完成度も高くて大満足です。

ただ、表題作の「メモリー・ウォール」は登場人物がやたら多くて全然面白くなかったけど。笑 

 

ネムナス川:両親を亡くしたアメリカ育ちの女の子が、リトアニアの祖父の家で暮らし始める話。近所に住む老女と共に、今は絶滅した(と思われている)チョウザメを釣り上げるのに奮闘する。

 

一一三号村:ダムの底に沈もうとする中国の寒村の話。最後まで村に残る「先生」と、種売りの「母」が、ダムが沈むまでの日々を共に過ごし、村の最期を見届けようとする。魯迅の「故郷」にインスパイアされたとおぼしき作品で、結末は尻切れトンボなんだけど、描写が美しい。O・ヘンリー賞受賞作。個人的に一番オススメ。

 

生殖せよ、発生せよ:不妊治療に苦しむ夫婦の物語。ややコミカルに描かれてはいるが、「命を繋ぐ」プレッシャーが重くのしかかる孤独な夫婦の悲しみが切ない。

 

来世:第二次世界大戦ホロコーストを生き延びた孤児院育ちの少女が、大人になって昔の友達を回想する話。自分だけが生き残ったことへの罪悪感と、絶たれてしまった友人の未来を思い孤独に苦しむ。なかなか出会えない傑作の香り…!!

 

これら6つの物語を貫くのは、「記憶」。例えばそれは、記憶の存在や不在だったり、記憶の断絶だったり、記憶の改変だったり、記憶の重圧だったり…。

 

ネムナス川」では、両親の記憶がおぼろげになっていくことが少女を苦しめます。両親との楽しかった思い出はさらさらと消えていくのに、苦しみだけはギラギラと鮮明になっていく。「一一三号村」では、ダムの底に消えてしまうことで、村にまつわる記憶が二度と取り出せなくなるという理不尽さが母を襲い、「来世」では、歴史の渦に消えてしまった”家族”の記憶が女を苛みます。

また、「生殖せよ、発生せよ」は、「子どもができない」ことをトリガーに、妻の意識は、生命の意義や動物の本能、「無限」や「永遠」などの抽象的な思考をフラフラ彷徨います。妻は、夫と2人だけの人生を送る可能性にはある程度諦めがついていますが、自分の中に流れる太古からのDNAを絶やすこと抵抗を感じてしまいます。自分という存在がDNAレベルで消えてしまう怖さ、子どもがいない自分と夫という生命の寄る辺なさをひしひしと感じるのです。DNAも、広い意味では「記憶」なのか…。

 

ニクいなぁと思うのは、各作品には、「失われた記憶の象徴」が効果的に登場していること。

例えば「生殖せよ、発生せよ」では、着床に至らなかった胚、「一一三号村」では、誰もが行き来した小道の敷石。「ネムナス川」では、二度と写真が追加されることのないアルバムなど。そのニクい演出は、映画を見ているよう。

物言わぬ「失われた記憶の象徴」が、読者の眼前に突きつけてくるのは、人の記憶の儚さ。人の記憶と人の命、存在、行為など、人間が積み上げてきたもののが、いとも簡単に崩れ去るという脆さ。

人の心の中に生きている限り人は死なないなんていう言葉はありますが、記憶は基本的に失われ、改変され、断絶していくもの。記憶があることは必ずしもハッピーなことではなく、記憶が、しかもそれがあいまいな形であるからこそ、人は苦しむのかもしれません。

ただ、ごくごく稀に誰かと同じ記憶を共有している喜びがある。だから人は、時々旧友に会いたくなるのでしょうか。

 

とにかく心に突き刺さる文章が多くて、好みの作品たちばかりです。

たとえば「ネムナス川」で出てきた、親を亡くす悲しみは「ぎらりと光る鋭い斧の刃が心の中に埋まっている」ことで、その斧は、「ささいなことをきっかけに振り子のように揺れだして内臓を手当たり次第に切り刻む」。生きるためには、その苦しみにじっと耐えるしか術はないなんていう表現は、核心を突いていて大変素晴らしい。

 

次々と読みたくなるような類の短篇ではなく、長篇並に余韻どっぷり浸れる素敵な作品たち。また同じくらいの感動に出会いたいです。

 

おわり。

母親の恨み言、聞いているうちに涙が出てくるのは何故だろう… 「娘について」キム・ヘジン

こんにちは。

初めての韓国小説、「娘について」キム・ヘジン。亜紀書房「となりの国のものがたり」シリーズで、現在7作品出ているうちの一つ。タイトルからわかるとおり、母と娘のすれ違いを描いた作品ではあるのですが、性的少数者をテーマにしていたり(韓国ではクィア文学と言うらしい)、高齢化社会がいずれ直面する問題を浮き彫りにしていたりと、示唆に富んだ作品です。

娘について (となりの国のものがたり2)

介護施設で働く「母」は、女の恋人を連れて実家に転がり込んできた娘の扱いに苦しんでいます。大学まで出したのに、定職につかず、ようやくありつけた講師の仕事も放り出して、同性愛者の不当解雇問題に首を突っ込んでいる娘。

「私の人生なんだから好きに生きていいでしょ!お母さんには関係ない!」と食ってかかる娘に、「娘が平凡な幸せをつかむ姿を見せてもらう権利くらいはあるわよ!!」と反論する母…これはおそらく古今東西にわたって見られる光景ですが、母には、「勝手にしろ!!」と娘を諦められない理由がありました。

母が担当しているのはジェンという老女。若い頃は地位のある方だったそうなのですが、子どももおらず、誰も訪ねて来ず、良いとは言えない環境で一人死を待つだけの身。

誰が見ても「哀れ」な老後を迎えたジェンに、社会のため、仲間のために生きる、今は立派な娘の将来、ひいては、たった一人の娘と決裂した自分の将来を見る気がする母。

 

母からすると娘の生き方は「子どもも作らんと遊びみたいなことしてからに!!」とぶった切りしたくなるようなものなのですが、娘が不当解雇問題に絡み大けがを負ったこと機に、母は、”ままごと”と決めつけていた娘の行動は、紛れもない彼女の”人生”だったのだと気付かされてはっとします。今までまともに取り合おうとしなかった娘。彼女も彼女なりに地に足をつけて踏ん張って生きていたのだと。

 

ただ、だからといって、軽々しく和解なんてことにはいきません。母の心を暗いところに縛り付けているのは、老女ジェンの存在でした。汗かいて血も流して、社会や人のために生きた先に訪れたのは耐えがたい孤独と苦しみ。貴重な若い頃の時間をご立派ものに注いで得られたものとは、誰からも顧みられない死とは…。自分のことのように苦しむ母。

さらに、ジェンは認知症。どんな立派な過去があろうが、記憶はすでに取り出すことができなくなっています。取り出せない記憶に価値はあるのか、語る術を失った人生に意味はあるのか、「娘にはこうなってほしくない」という気持ちが先走り、母は、ジェンの人生を勝手に総決算します。

 

娘の生き方を認めてわかり合いたいけれど、娘がジェンのようになるのを防ぐ手立てを講じるのは母親の務めなのではないか、と母の心は揺れる揺れる。たたみかけるように、母の同僚はこんなことを言います。

立派な生き方ですって?尊敬される人生?そんなもん、人生はあっという間だって思っている人間の言うせりふですよ。ご覧なさい。人生はぞっとするほど長いんです。みんな最後は一緒。死を待つだけなんですってば。

 

老人介護施設で生々しい「生」の苦しみを目の当たりにした人間だからこその言葉に、正面切って反論する自信はあるか…

 

老後に備えて生きることと、今ある生に全力投球すること、前者は後ろ向きな生き方とバカにされがちではありますが、若いときにした選択が正しかったかどうかは、老いてみないとわからなのかもしれません、そして、老いてから正解に気付いてもほとんど手遅れで。「人生100年時代」が喜びのトーンで語られない今、誰にとっても他人事ではありません。

 

愛とか信頼などという”不滅なもの”に依存する嫌いがあり、几帳面で神経質な母。そんな母との生活は、娘にとっては息が詰まりそうなものかもしれません。母を頑固者して打ち遣って、娘を応援したい気持ちも十分に理解できるけれども、でも…

「私の血と肉から現れた娘は、もしかすると私からもっとも遠いところにいる人間なのかもしれない」と苦しみ続け、時折ぱっと霧が晴れたように、「自分の考えは年寄りくさいのかもしれない」と娘を認める気になったりするけれども、やはり「娘の直面するこの問題から逃げてしまっては、娘が不幸になる。私しかいない」と焦燥に駆られて娘にぶつかっていく姿を見せられると、「もっと娘のことをわかってあげて!」なんて言葉は口が裂けても言えないと感じます。娘にぶつかっていくときは、母だって傷だらけなんだ。

 

母親の恨み言は続くよどこまでも。ただ、聞いているうちに涙が出てくるのは何故だろう…。それはきっと、「あんたのことを世界で一番心配して、あんたの不幸に最も心を痛めるのはおかあさんなんだよ!!」という言葉は紛れもない真実だから。よその人は耳障りのいいことを言ってくれるかもしれないけれど、あんたがどうなろうと気にとめやしないんだから、というのもまあ当たっている。どんなに罵られようが、蔑ろにされようが絶対に娘を諦めないのは、母だからなのです。

子どもに親の望む生き方を強要するのはダメだけど、これだけは大きい声で言いたい。「子どものゆく道に横たわる障害物をひとつでも減らしたいと思って何が悪い!そしていちいち障害物をうまくかわして、できるだけ傷つかずに生きていって欲しいと願って何が悪い!」と。

 

母は、ジェンの看取りをすることで、「目の前のことに集中して終わらせることを考える」ことの良さにも気付きます。

ただ、娘の問題は未解決のまま。きっと母はこのあとも迷い、人に傷つけられ、誰かを傷つけ、不幸を呪いながら生きていくのでしょうが、、少しだけ、母の中で何かが変わったのでは?と思うのです。

 

娘も母も、きっと誰もが、「ただそこにいるだけで認められる幸せ」を求めてさまよっています。その幸せをを得るのはなかなか難しいけれど、よーく考えてみるとそれは、幼い頃に、親と子どもがお互いに与え合っていた幸せなのかもしれません。いずれは消えてしまうけれど。

 

おわり。

春になる前に読んでしまいたい心に冷たい風が吹きすさぶミステリ3選

こんにちは。

通勤のお供として重宝しているミステリ作品ですが、最近は引きが悪く、可能であれば避けて通る「残虐」ジャンルが続いてしまいました。しばらくは安心安全のアガサクリスティに逃避しようか悩んでいます。笑 桜も咲きはじめましたが、春になる前に読んでしまいたかった系「心に冷たい風が吹きすさぶミステリ」のご紹介。

 

「死んだレモン」フィン・ベル

死んだレモン (創元推理文庫)

このミス2020年16位受賞作。ニュージーランドの小説です。

事故で車椅子生活になった男が、引っ込んだ先の田舎町で26年前の少女失踪事件を追う話。崖っぷちにつるされている絶体絶命の男が出てきたと思ったらそれが主人公だったという、アクションムービーさながらの登場をする男フィン・ベル(なんで主人公と著者が同じ名前なんだろう?)。フィンは、一見満ち足りた幸せな生活をしていましたが、アルコール依存症となり、車の事故を起こして車椅子生活になりました。自宅や事業を整理して、ニュージーランド最南端の田舎町で暮らし始めたフィンは、おっかないお隣さんと、前の家主にまつわる事件に興味を持ち、事件について調べ始めます。「明日も来年も同じ顔ぶれ」の狭い田舎町で、それをお隣さんが放っておく訳もなく、警告のあと、ついに命を狙われる羽目に!

 

犯人(冒頭で示唆される)から必死に逃げる現在と、ことの起こりである5ヶ月前からのエピソードが交互に登場する構成で、読者は過去と現在の違和感を結びつけながら、少しずつ真相に近づいていきます。犯人の残虐さと、事件の気持ち悪さに吐き気がする思いが。さらに、明らかにされる真相も辛く、もう読めん!!!となりました。

 

みどころは、「カウンセラー」のベティという女性とのやり取り。「あんたを車椅子生活にした間違いを繰り返すつもりなの!?」と、カウンセラーのくせにクライアントを煽っていく特殊なスタイル。しかし、もともとM気質だったのか、フィンは彼女に心を許すようになり、少しずつ変わっていきます。

心の中にある不愉快な感情を書き出し、それに一つ一つ名前をつけると楽になる

酒におぼれるのはダメだとわかっていながら自分を偽ること

など、自分もカウンセリング的なものを受けている気分になれるところはGOOD。田舎町特有の距離感とのんびりした人々の暮らしぶりが挟まり、残虐さを若干和らげてくれるのは救いか?

 

「アイアン・ハウス」ジョン・ハート

アイアン・ハウス (上)

エグい家族ドラマを書きながら、涼しい顔で「崩壊した家族は文学の豊穣な土壌」と言ってのける(趣味悪)ジョン・ハートです。

主人公はマイケルという名の殺し屋(!!!)。こんな物騒な職業、伊坂幸太郎でしかお目にかからないので、なんとも現実味に欠ける滑り出し。笑 本人たちは真剣なのに、伊坂幸太郎の憎めない殺し屋イメージがどうしても先行してしまい、コイツも猫アレルギーとかしょうもない弱点をもっているんじゃないかなんて妄想してしまう。さらに、マイクを一流の殺し屋たらしめている「柔和より凶悪、緩慢より迅速」とかいうスローガンも、それっぽすぎて逆にニヤけてくるなど、物語に浸るまでに苦労したのは私だけでしょうか…。

 

殺し屋の例に漏れず、恋人に身分を偽っているマイケル。イタリア製の高級スーツに身を包んだ”仕事モード”を彼女に見られ、「なんでこんな服着てんのよ!!!」と突っ込まれたりするなど、殺し屋ジョークもキレがある。こういうシーンで、歴戦の殺し屋達は頬を緩めたりするんでしょうか…笑

彼女が妊娠したことを機に殺し屋の世界から足を洗おうとするマイクの身に、殺し屋組織のお家騒動が降りかかる。兄貴分の追撃をかわし彼女と新天地を目指すことができるか…!?

 

と、若干伊坂幸太郎っぽい展開を期待してしまいそうになりますが、ジョン・ハートはもちろんエンタメ作家ではないわけで、マイケルの「弟」の存在が明らかになったころから一気にダークサイドに引き込まれます。アイアン・ハウスと呼ばれる児童養護施設で、マイケルと弟は育ちました。アイアン・ハウスが過酷な環境なのは想像に難くなく、タフなマイケルに対し、弱々しい弟はいじめのターゲットに。マイケルにとって弟の存在はいわばアキレス腱で、目立たぬよう、弟に矛先が向けられないよう、いつも気を配っているマイケル。二人そろって里子に出されるはずでしたが、ある事件のせいでマイケルは鑑別所送りになり、二人は別れ別れになります。

 

再会した弟と、弟の周りで起こる殺人事件の数々。しかも被害者はアイアン・ハウスのいじめっ子たちという奇妙な符合。弟を信じるか、否か、マイケルは迷います。自分の子まで宿した恋人の安否よりも、何年もの間生き別れていた弟のほうに心を奪われてしまうあたり、「川は静かに流れ」のテーマと通じるところがある。

 

血がどばーっと流れる系の描写は少ないですが、殺し屋が考える拷問が生ぬるいわけなくゲロゲロってなる。また、施設で打ちのめされる子どもの描写も、結構タフ。「・・・・・・(無言)」となること必至です。エンディングもハッピーじゃないし、どんよりした気分になる系ミステリ。

 

 

チャイルド44」トム・ロブ スミス

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

レオ・デミトフシリーズということでシリーズ化されている作品の第一弾。舞台はロシアということで、常に監視され、おかしな行動を取ったら即矯正収容所に送られる恐怖と隣り合わせの世界観です。

国家警察の優秀な捜査員であるレオ・デミトフが、ある連続殺人(とおぼしき)事件を独自に捜査する中で、組織・国家のあり方に疑問を持ち、数少ない味方の協力を得て事件を解決に導くというストーリー。

序盤に本編とは全く関係ない感じのする挿話が出てきます。第二次世界大戦時の食糧難を印象づけるためだけに作られたプロローグかと思いきや、物語の鍵を握る最重要なエピソードだったりする。

 

ミステリとしての完成度◎、スピード感◎、キャラの作り込み◎という三拍子そろった良作ではあるのですが、社会が閉鎖的で恐ろしいところとか、警察が罪のない国民をいたぶるシーンとか、食糧難だから何でも食うシーンとか、犯人が猟奇的なところとか、そういうシーンが結構気持ち悪い。特に犯人の犯行の気持ち悪さは「死んだレモン」並で身の毛がよだつ。

 

第二弾以降の作品は未読ですが、本作品の最後では、今回の実績が評価されて、モスクワに刑事課を作ってもらうところで終わっている。今回の事件で味方になってくれた刑事とコンビを組んで普通の刑事になる予感がするので、また機会があったら読んでみたいです。

 

 

 

人が殺されないと物語が始まらないミステリだからといって「残虐性」は必須でないと思っているので、かわいい顔(表紙)した残虐系に当たるとうわーってなります。残虐な犯罪が物語の根幹に関わる重要なポイントのときは希にあるけど、その場合でもそういうことを示唆するに留めておけば十分。残虐なシーンは、著者の趣味みたいなもんに過ぎないと思っているので、映像作品にあるR指定、書籍にも同様にあったらいいなと思うことも多々あります。暴力の有無、流血(死体が流している血を除く)の有無、性暴力の有無…など。

その上で個人的には、暴力よりも胸が痛む、「子どもが可哀想な立場に置かれる話」とか「可哀想な人が犯人」とかも、もっと細かく教えて欲しいです。ほぼネタバレ感はありますが…笑

ノミのハートの私がミステリを楽しむためには、ある程度のクリアランスがないとキツいな、と思う次第。しばらくはアガサクリスティとかエラリークイーンを読もうと思います。

 

おわり。

鼻つまみ者刑事が直感をもとに謎に切り込む正統派ミステリー。今後のシリーズ展開にも期待「ストーンサークルの殺人」ハヤカワ・ミステリ文庫

こんにちは。

 

英国推理作家協会賞最優秀長篇賞 ゴールド・タガー受賞作。このミスでも高評価、続編の邦訳も決まっている絶好調のこちら。

ハヤカワ・ミステリ文庫「ストーンサークルの殺人」です。

ストーンサークルの殺人 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

タイトルはベタ過ぎますね。西村京太郎の「熱海・湯河原殺人事件」ばりにシンプルでよろしい。調子に乗って、「ストーンサークルの周りで起きる謎の連続殺人!変わり者コンビが追う奇妙な事件の裏に、20年前の悲劇!」なんて2時間サスペンス風サブタイをつけたい気分です。

 

主人公のワシントン・ポーは、ある事件でミスをおかしたかどで停職中の身。田舎に引っ込んで暮らしています。巷は、ストーンサークルの中心で人が焼き殺される凄惨な事件、通称イモレーション・マンの話題で持ちきりです。

あるとき元部下のフリンが訪ねてきて、一時的な復帰を打診します。理由は、イモレーション・マンの3人目の犠牲者の体に、ポーの名前が刻まれていたこと。殺人鬼のターゲットとして警護の対象となるか、捜査の一員に加わるかの2択を迫られた彼は、渋々復帰を受け入れます。

 

立ち上がりは上々。設定もキャラ設定もあるあるなんだけど、会話が軽快で楽しく読み進められます。そして、そこはかとなく漂う相棒臭。

今回、頭は切れるけど鼻つまみ者刑事ポーの相棒となるのはティリーという分析官の女性。ティリーは分析官として超優秀ですが、人付き合いがからきしダメで浮いています。暴走しがちな二人を支えるのは、フリンと、ポーの数少ない友人キリアン。

イモレーション・マンの被害者は、リッチな老人。ただ、被害者同士の関わりが全く見つけられません。被害者同士のつながりがないことから、捜査本部は老人を狙った無差別的な犯行と決めつけますが、「こんな田舎町で、上流階級に位置する同世代の老人が互いを知らないことなんてあり得るか?」と意図的に隠された関係を示唆。ティリーも「それは統計学的にあり得ない」とお墨付きを与えます。

刑事の長年の勘を優秀な分析官が裏付ける形で、捜査本部と真逆の方針で捜査を進めていく彼ら。ホームズの、「可能性を一つ一つ消していって、最後に残ったものがどんな奇妙なものでも、それが真実である」を地で行くようなアプローチ。

あくまでも特例での復帰ですし、もともと嫌われているポーの捜査は身内に妨害されてばかり。令状や記録の閲覧許可もなかなか出ません。フリンとキリアンは、こういうところでさりげなく便宜を図ってやる役割も担っています。特命に手を貸す角田課長と社美弥子ポジションも健在。

 

証拠はほとんど残っていないし、イモレーション・マンは挑発してくるし、政治的な圧力もかかっているし…コンディションは最悪ですが、度重なる妨害にもめげず、真実だけを追い求める2人は、約20年前の事件に行き当たります。20年前の事件を知ると、イモレーション・マンの犠牲者への同情は一瞬で消え、イモ氏をちょっと応援したい気にすらなる。

 

そして肝心のイモ氏は誰なのか。これは大変衝撃的。登場人物が多くないので、途中、本当にこの中に犯人がいるか心配になってくるんですが、そういうことか!と。犯人がわかってから推理すると、疑問に思っていた点が全てつながるんだけど、地味にショックを受けます。

このミスで評価されているだけあって、謎解きも内容もキャラも完成度高いですが、個人的にすっきりしたのは「復讐劇を完結していること」です。

復讐劇も終盤に差し掛かり自分の身元が割れたことに感づいた犯人は、普通に考えて、早々に対象を始末しようと焦る気がしますが、何故か多くの犯人は、最後の最後でモタクサして一番始末したいヤツを取り逃がしてしまいがち。その上、船越英一郎みたいな熱血漢に「復讐は何も解決しない」と説教されたりもしますが、この本はひと味違い、ポーが見守る中で復讐が完遂されます。

どうせフィクションだし、いっそのこと黒幕も始末しちゃえばいいのにと普段モヤっている私。この展開は「ナイスですねぇ!」(その光景は全然ナイスな感じではなかったけど)とグーしたくなります。

こういう小説の主人公は、性格に難はあっても、基本的に弱きを助け強気を挫くタイプであることが多いですが、ポーはちょっと違い、「てめえの罪はてめえの命で支払え」というタイプ。それどころか、「俺のダチを傷つけた罪もてめえの命で払え」とすら思っている節があり、時折見せる嗜虐性に戸惑う読者も多いでしょう。こんなポーの人格を形成した過去編は今後のシリーズで展開されていくと思うので、引き続き期待しています!

 

おわり。

全く異質な2つの話を切り口に、日本人の死生観・信仰・国民性に深く切り込んだ超力作。「津波の霊たち」リチャード・ロイド・パリ

こんにちは。

 

2020年1月に文庫化されたばかりの「津波の霊たち」リチャード・ロイド・パリ

 

3.11の後に至る所で報告された「心霊現象」と、訴訟問題にもなった「大川小の悲劇」の二本柱で、全く異質なこの話を切り口に、日本人の死生観・信仰・国民性に深く切り込んだ超力作。海外でも高い評価を得ています。

津波の霊たち 3・11 死と生の物語 (早川書房)

3.11の時は東京にいましたが、私の故郷は沿岸部の大損害を受けた地区。被災者である家族や友人の生の声と、絆!絆!と涙活に勤しんでいた東京の友人とのギャップを感じて、孤独を感じました。「絆なんてねーよ」と薄々感じていた私は、この本を読んで救われたような気がします。

 

はじめに、心霊現象について。

津波の後、自分の近親者の霊に会ったという話がいろいろなところで聞かれたというのは結構知られています。会いたい人の声が聞ける電話ボックス、なんていうのもあった。

この本には、目撃証言に加え、憑依、口寄せなどのエピソードも載っている。お寺の住職が仔細を語り、それをジャーナリストが系統立てて説明するのを見ていると、心霊現象をあまり信じないタチの人は戸惑ってしまうと思います。

多くの聞き取りにより、日本人は無信仰に見えて、目に見えない多くのものを信じていると著者は感じました。この本では、心霊現象を「トラウマの吐露」であると解釈します。肯定することも否定することもしませんが、人間が立ち直る一助となることは間違いないようです。

 

次に、大川小学校で起きた悲劇。

こちらも訴訟にもなった有名な悲劇。安全なはずの学校で、多くの小学生が亡くなりました。津波が来るから山へ逃げようと懇願した子がいたにもかかわらず、それを撥ねつけ1時間以上も校庭に留まる指示をした教師たち。一人だけ生き残った教師は体調不良を理由に姿を消し、発言にも多くの嘘が混じっていたことがあとからわかります。調査委員会を作った者の、子ども達からの聞き取り資料はしれっと破棄されました。

通常、自治体を被告とした訴訟は、原告側の負けになることがほとんどだそうですが、大川小訴訟は最高裁までもつれ込み自治体が敗訴した極めて特異な例です。

 

心霊現象も訴訟の話も、膨大なインタビューが収録されています。被災者の生の声を、外国人特派員の目線で構成し直すことで、あまり認知されてこなかった、「(良くも悪くも)日本らしさ」というものが浮かび上がってきます。心霊現象は日本人の信仰を、訴訟の話では根底にある全体主義的な部分を浮き彫りにしました。

 

大川小の悲劇をめぐる学校や教育委員会の不審な動きには当初、「何かを隠している」といういわゆる陰謀論めいたものが囁かれました。しかしそれを「無能であることをひた隠しにしているだけ」と一刀両断。ゴメンを言いたくないというだけのために、多くの人を傷つける結果になりました。

また、大川小訴訟が最高裁までもつれた点については、「何か争いたいことがあるわけではない。ただ、自治体は負けるわけにはいかないという意地のようなもので控訴し続ける(その費用は税金ですがね)」と鋭い指摘を。

外国人なりの”Why Japanese People?”という鋭いツッコミを起点として、「日本人の”美徳”は当時報道されたほど良いものなのか」という問いを投げかけてくる。鷹のような目(外国人の勝手なイメージです)に射すくめられたら、何も言えねぇ…

 

また、原子力発電のリスクや日本の政治の特性や問題点についても取り上げられています。3.11を機に、日本は大きく変わるかもしれないと考えた著者でしたが、結局臭いものにはフタをするいつもの毎日に戻ってしまいました。この本にはコロナについては書いていませんが、著者はそれをどう捉えたことでしょう。

外国人の「日本はここがおかしい」論にはアレルギーを示す人が多く、「だったら国に帰れ」と反論されがちですが、10年以上特派員として日本に住む著者は、外側から好き勝手言っている外国人とは少し違う印象。もちろん、いつまで日本にいるのかはわかりませんが。

 

”東京で被災した東北人”としてずっとモヤモヤしていたことが的確に言い表され、約10年経過してやっと心の澱を掬ってもらえた気がしました。

「いいとこ取り」されて報道される被災地の状況、気遣う振りをしながら消えた故郷について聞きたがる人たち…こんなアレコレは今思い出してもモヤるけど、あの頃、故郷の友達や家族や親戚の苦しみは、”あっち側”の人たち(特にマスコミ!!)の格好のネタとして様々に調理され、消費されていたように思います。

 

いわゆる絆の押しつけは、被災者にとって大変苦しいものでした。

被災者は、震災前に特に仲が良かった相手ほど仲違いをすることがあります。無意識に、震災によって「何を失った人か」「何が残った人か」を比べた上で、関わる人間を選ぶようになってしまう。誰を失ったか、家は残ったか、ある程度”釣り合い”が取れない相手とは、関係は結べない。”釣り合い”の取れた相手と一時的に強い関係を結ぶが、些細なことをきっかけに粉々に崩壊する、そしてそれっきり。

「震災があったからこそ人の絆のありがたみがわかった」という論調もありますが、破壊や破滅の”おかげで”強くなる絆があるというのはおそらく間違っている。生き残るために家族や他人が強く結びつくというのは、小さい動物が群れを作るのと同じ行為で、それ以上の意味合いはないような気がします。

 

他にも、閉鎖的な陰湿さに関する批判も本質を突いています。訴訟を巡るインタビューは大変リアルで、涙なしには読めません。敵は市だけかと思えばそうではなく、原告団となった保護者に対する”村八分”がまかり通りました。ルールを守り、与えられたものを受け取り、粛々と生きている”普通の”人は受け入れられるが、ひとたび声を上げ権利を主張すると、手のひらを返される。欲しがらない、批判しない姿勢を暗に求められるという、若干戦時中的なマインド。

大川小で唯一生き残った教師に不利な証言をした個人事業主が、証言後、一気に市からの仕事を干されたという話にはぞっとする。

あんなにありがたがった絆(wって何なんだろう。

 

薄々気付いていたけど、読んでいて「やっぱり震災で多くの絆が失われたよな…」という結論に達しました。

 

悲しくなるのでこの手の本は避けていているのですが、悲しすぎて泣けてくる。震災だけでも辛いのに、そのせいで人と人とがバラバラになるなんて。

全くもって伝わりにくい表現ではありますが、読みたくないけどページをめくる手が止まらず、自分にとって大切な本だけど、辛すぎて手元には置いておきたくない、そんな本。

 

おわり。

なぜ人間は、未踏の地に惹かれるのか ジェフリー・アーチャー「遙かなる未踏峰」

こんにちは。

 

ジェフリー・アーチャー「遙かなる未踏峰

主人公は、「そこに山があるから」で有名なジョージ・マロリー。彼の人生に”着想を得て書かれた”作品とのこと。確かに、話が出来過ぎている上に、きれいにまとめられている感半端ないため、おそらく実際に起きた出来事以外はほぼフィクションだと決めてかかって読むのがちょうど良いとは思う。笑

 

遥かなる未踏峰〈上〉 (新潮文庫)

 

ジョージ・マロリーはイギリスの司祭の子として生まれました。幼い頃から運動神経がずば抜けており、好奇心も旺盛で大変生意気。そんな息子の危なっかしさに、いつもハラハラさせられている母と、なんだかんだ言って理解がある父。つつましく幸せに暮らしていました。

プレパラトリー・スクールに入ったマロリーは、のちに親友となるガイ・ブーロックと出会い、登山の喜びに目覚めます。その後ケンブリッジに進学した彼は教師の職を得、美しい妻とも出会いますが、その後従軍。除隊後は教師の職に戻り、アマチュアながらも彼の生活の中心には登山がありました。モン・ブランなどの山々を、男の心をとらえて離さない女神と例え、高くそびえ立つ山を制覇することに魅力を感じています。

ちょうどその頃、世界の国々は未踏の地の初制覇に躍起になっていました。例えば南極や、エベレスト。エベレストの登攀隊長に選ばれたマロリーは、山頂に妻の写真を置いてくると約束し、エベレストを目指したのでした。

 

ご存じの方もいるかもしれませんが、マロリーがエベレストの山頂に到達したかどうかは未だわかっていません。妻の写真の行方はわからず、共に山頂アタックしたアーヴィンのカメラも見つかっていない。何年か前のナショジオでも特集が組まれており、ドキドキしながら読んだのを覚えています。

 

最初に「きれいにまとまりすぎ」と言ったとおり、友情の物語も◯、夫婦の愛の物語も◯、山岳小説としても◯、と、可もなく不可もなく…全体的に無難な仕上がりとなっています。心震わせるようなシーンもなく、「まあそこに落ち着くのが一番いい感じになるよね」という展開ばかりではあるのですが、政治的な駆け引きの描写には力が入っています。

 

エベレスト登頂は、国家の威信を賭けた事業。

1921年、1922年、1924年と計3回の遠征が行われました。

マロリーが大変優れた登山家であるということは誰もが認めていることですが、彼が何のトラブルもなく重要な役職を与えられたのには、「生粋のイギリス人で、ケンブリッジ卒」であることも大きく作用したと思われます。イギリスを代表してエベレストに登る以上、マロリーのような経歴がふさわしいと、そういうわけです。

マロリーが登山家として自分並の実力と認めているのは、フィンチという男。オーストラリア人の化学者です。私生活には大変問題あり、酸素を積極的に使用するというお行儀の悪さ(当時は聖域たるエベレストに酸素は無粋だというような精神論がまかり通っていました)。素行も悪く、オーストラリア人ということもあり、お偉い方は快く思っていません。マロリーの懇願かなわず、フィンチは第3回遠征隊には選ばれませんでした。

 

登山というおよそ学歴・出自・人柄・ポリシーなど関係ない実力勝負の世界で、「理想」という鋳型に現実を無理矢理当てはめようとする権力者達。その代償を払うのはクライマー達です。世界で初めてエベレストの山頂に立つべきは、イギリス人に限り、こんな学歴を持ち不倫なんかとは無縁で…と、最も大切にすべきクライマーとしての実力をないがしろにした結果が、第三回遠征隊の悲劇を招いたのかも知れません。

 

本質とはかけ離れた議論の連続にイライラ。そりゃ自分たちはブランデー片手に結果だけ待ってりゃいいんだもんな、となる。マロリーは一矢報いようとしますが、狸オヤジのほうが一枚上手で、フィンチの同行は叶いませんでした。

 

この本は、つまらないはずの遠征隊の人選に多くのページが割かれています。人選時の駆け引きはなかなか面白い。遠征隊の隊長にブルース将軍っていうのがいて、エベレストに風呂釜持ち込んだりするし偉そうでむかつくしフィンチと反目し合っていたんだけど、第三回遠征隊の人選の際は、周囲の予想に反してフィンチの登用を主張します。フィンチが大嫌いなのと遠征の成功は別。確かにブルース将軍は嫌なヤツだけど、危機管理という点で見ると至極真っ当なことを言っていて、昔の手柄自慢ばかりだからといってバカにできない。

腐り果ててるなって思うのはヒンクスという男。前例重視!風見鶏!権力におもねる嫌なヤツ!!という。

 

こういう政治的なすったもんだの果てに組織された第三回遠征隊。

マロリーとしても「これが本当に最後」という思いだったそうです。「ごめん!!俺の夢だから行かせて!!」と言って出て行った前回の遠征とは異なり、第三回は複雑な要因が重なって受け入れざるを得ませんでした。気乗りしない遠征、しかもフィンチもおらず、不安要素だらけの遠征がどんな結果を招いたか…、切なくなりました。

 

ジョン・クラカワーの「空へ」なんかを読み、映画「エベレスト」も何度も見て、行ったこともないのにエベレストを登った気になった私としては、「まあ、デスゾーンだものね」「サウスコルか…」「ああ…ヒラリー・ステップね(当時はヒラリー・ステップという名前はついていない)」なんて勝手に歴戦の登山家気取りで読み進めました。

過去に本や映画なんかで得た知識がつながるとなんか嬉しいですよね!

 

「そこに山が」発言を念頭に置いて、逆算して作ったようなエピソードの数々で”置きに行った感”は否めませんが、読むと良い気分になれる、軽めの読書向きの小説。おそらく本物のエピソードを知ってしまうと「……結構普通だな」となる気がするので、読み終わった後に詳細をWikipediaで調べるのは止めましょう。笑

 

おわり。