「記憶」の儚さに苦しめられる6人の主人公を描いた傑作短編集 アンソニー・ドーア「メモリー・ウォール」(新潮クレスト)
こんにちは。
「記憶」にまつわる6つの物語。久々に、「これは…!」と思わせる作品でした。(2010年の作品集だけど)「新しい才能をまた発掘してしまった…!!」とホクホクしてしまうほど素晴らしい!スタンディングオーベーション!という感じ。笑
短編にしては長めで各話30分くらいですが、長篇並にどっと疲れる読後感。毎回ここまで泣かせるか!というくらい完成度も高くて大満足です。
ただ、表題作の「メモリー・ウォール」は登場人物がやたら多くて全然面白くなかったけど。笑
ネムナス川:両親を亡くしたアメリカ育ちの女の子が、リトアニアの祖父の家で暮らし始める話。近所に住む老女と共に、今は絶滅した(と思われている)チョウザメを釣り上げるのに奮闘する。
一一三号村:ダムの底に沈もうとする中国の寒村の話。最後まで村に残る「先生」と、種売りの「母」が、ダムが沈むまでの日々を共に過ごし、村の最期を見届けようとする。魯迅の「故郷」にインスパイアされたとおぼしき作品で、結末は尻切れトンボなんだけど、描写が美しい。O・ヘンリー賞受賞作。個人的に一番オススメ。
生殖せよ、発生せよ:不妊治療に苦しむ夫婦の物語。ややコミカルに描かれてはいるが、「命を繋ぐ」プレッシャーが重くのしかかる孤独な夫婦の悲しみが切ない。
来世:第二次世界大戦のホロコーストを生き延びた孤児院育ちの少女が、大人になって昔の友達を回想する話。自分だけが生き残ったことへの罪悪感と、絶たれてしまった友人の未来を思い孤独に苦しむ。なかなか出会えない傑作の香り…!!
これら6つの物語を貫くのは、「記憶」。例えばそれは、記憶の存在や不在だったり、記憶の断絶だったり、記憶の改変だったり、記憶の重圧だったり…。
「ネムナス川」では、両親の記憶がおぼろげになっていくことが少女を苦しめます。両親との楽しかった思い出はさらさらと消えていくのに、苦しみだけはギラギラと鮮明になっていく。「一一三号村」では、ダムの底に消えてしまうことで、村にまつわる記憶が二度と取り出せなくなるという理不尽さが母を襲い、「来世」では、歴史の渦に消えてしまった”家族”の記憶が女を苛みます。
また、「生殖せよ、発生せよ」は、「子どもができない」ことをトリガーに、妻の意識は、生命の意義や動物の本能、「無限」や「永遠」などの抽象的な思考をフラフラ彷徨います。妻は、夫と2人だけの人生を送る可能性にはある程度諦めがついていますが、自分の中に流れる太古からのDNAを絶やすこと抵抗を感じてしまいます。自分という存在がDNAレベルで消えてしまう怖さ、子どもがいない自分と夫という生命の寄る辺なさをひしひしと感じるのです。DNAも、広い意味では「記憶」なのか…。
ニクいなぁと思うのは、各作品には、「失われた記憶の象徴」が効果的に登場していること。
例えば「生殖せよ、発生せよ」では、着床に至らなかった胚、「一一三号村」では、誰もが行き来した小道の敷石。「ネムナス川」では、二度と写真が追加されることのないアルバムなど。そのニクい演出は、映画を見ているよう。
物言わぬ「失われた記憶の象徴」が、読者の眼前に突きつけてくるのは、人の記憶の儚さ。人の記憶と人の命、存在、行為など、人間が積み上げてきたもののが、いとも簡単に崩れ去るという脆さ。
人の心の中に生きている限り人は死なないなんていう言葉はありますが、記憶は基本的に失われ、改変され、断絶していくもの。記憶があることは必ずしもハッピーなことではなく、記憶が、しかもそれがあいまいな形であるからこそ、人は苦しむのかもしれません。
ただ、ごくごく稀に誰かと同じ記憶を共有している喜びがある。だから人は、時々旧友に会いたくなるのでしょうか。
とにかく心に突き刺さる文章が多くて、好みの作品たちばかりです。
たとえば「ネムナス川」で出てきた、親を亡くす悲しみは「ぎらりと光る鋭い斧の刃が心の中に埋まっている」ことで、その斧は、「ささいなことをきっかけに振り子のように揺れだして内臓を手当たり次第に切り刻む」。生きるためには、その苦しみにじっと耐えるしか術はないなんていう表現は、核心を突いていて大変素晴らしい。
次々と読みたくなるような類の短篇ではなく、長篇並に余韻どっぷり浸れる素敵な作品たち。また同じくらいの感動に出会いたいです。
おわり。