はらぺこあおむしのぼうけん

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良き結婚とは、点で見ると不幸せな出来事ばかりであっても、線で見るとは幸せなものかもしれない。「コレラ時代の愛」G・ガルシア=マルケス

こんにちは。

 

コレラ時代の愛」G・ガルシア=マルケス

コレラの時代の愛

人生で初めて、1年以上かかって読み終えた本です。すっげえ面白いってわけではないけど、決してつまらなくはない、いい意味で超単調な話。数ヶ月ぶりにページをめくっても、すっと馴染んでいけます。ちなみにコレラはあんまり関係ない。笑

 

ビター・アーモンドを思わせる匂いがすると、ああ、この恋も報われなかったのだなとつい思ってしまうが、こればかりはどうしようもない。

という、書き出しが詩的で美しい◎

 

舞台は1860年代~1930年代のコロンビア、51年9カ月と4日間(!!)、一人の女性を思い続けた男の物語。

 

フロレンティーノ・アリーサという貧しい青年は、若い頃に成金商人の娘フェルミーナ・ダーサという少女に恋をします。二人は秘密の文通の中で互いへの愛を確信するのですが、フェルミーナの父は二人の恋愛に猛反対し、彼女を国外に連れ出すなどして、二人の恋を妨害します。妨害にもめげずに続いていた恋でしたが、フェルミーナが金も地位もある医師フナベル・ウルビーノとの結婚を決めたことで、唐突に終わりを告げました。

フェルミーナの結婚を裏切りと感じたフロレンティーノは、食欲をなくしてやつれ、住んでいた町を飛び出してみたり、その後は仕事に熱中してみたり、失恋あるあるをフルコースで体験。その後、彼女を憎み売女呼ばわりすることもありましたが、やはりどうしても振り切れなかったのはフェルミーナへの思いでした。

 

それから約30年。

妾の子だったフロレンティーノは幼少期こそ貧しかったものの、父の家系で自分以外に男が生まれなかったことで棚ぼた式に家業を継ぎ、ウルビーノ夫妻と”上流階級仲間”として相まみえるようになります。しかも、まだ飽きもせずフェルミーナを思っているという。笑

普通の人には思いつかないような気持ち悪さ全開の行為を繰り返しながら、フェルミーナに対して直接的な行動はおこさずに、彼女を見守り続ける彼。フロレンティーノはじっと”ある時”を待っていたのでした。

 

ここで冒頭の、”ビターアーモンドの匂い”に戻ります。友人の家のドアを開けた医師フナベル・ウルビーノは、ビターアーモンドの香りを嗅いで、友人の死を悟ります。そして、友人の死を嘆き命の儚さを感じる暇も無く、彼もなんと数時間後に命を落としてしまうのです。庭の木に止まっているオウムを捕まえようとして木から落ちるというあっけない(ドラマにもならない)最期でした。

 

フナベル・ウルビーノが亡くなるとき、それこそ、フロレンティーノが待っていた”ある時”なのでした。喪が開けないうちにフロレンティーノはフェルミーナを訪ね、数十年の思いを再度告白します。フナベルの死をきっかけに、フロレンティーノとフェルミーナの物語が再び動き出します。

 

若い頃の恋、51年9ヶ月と4日にわたる片思い、そしてついに二人が船上で束の間結ばれる…と、70代の男と女の生涯の(しょうもない)あれこれを延々見せつけられる約500ページ。そりゃ読み終わるのに1年もかかるわ、ってなるわけです。笑

 

基本フェルミーナはドライで頑固で、全体にわたってフロレンティーノへの愛情はほとんど感じられなないのですが、実は感情表現が下手なだけでフロレンティーノのことを想っていました。

年寄りの恋なんてみっともないと母をたしなめた娘に、昔は若すぎるからと邪魔された。やっと思いを遂げようとする今、年を取っているからと邪魔するなんて!もう邪魔はさせない!と娘を出禁にするのです。

 

彼女も、プライドの高さから孤独を選ばされてきたんでしょう。そんな女性に必要なのは、フロレンティーノという崇拝者と、何くれと世話を焼いてくれる保護者のような年上の夫…という意味で彼女の男運はめちゃめちゃ良いんですが、それには全く気付いていないんだよなぁ。笑

 

さて、ガルシア=マルケスがどうしてこんな小説を書いたかというと、「約半世紀のあいだ、同じ人を思い続ける物語を書きたい!」という動機があったからだそうです。そんな嘘みたいな恋を小説の中で成就するために、舞台設定や人物設定に吟味を重ね、ようやく1860年~1930年のコロンビアが選び出されたとのこと。

「50年以上同じ人を思い続ける」という現実に起きえない純愛を普通の人間の生活の中にぶち込もうとした結果、登場人物たちは相当な無理を強いられます。フロレンティーノなんかは月月火水木金金と、休みなくセフレのもとに通い続け、しかもそのうち2人を間接的に死に至らしめています。50年ごしの”純愛”を描く、それも、現実にありえるような姿で、という縛りプレイをするために、バタフライ効果的に多数の人が傷つけられていくという。

 

まあ、「50年来の愛」を単純で安っぽい小説で終わらせず、「50年以上同じ人を愛して思いを成就するためには、金もいっぱい作って、大量のセフレも作ってセルフケアしていかないとかなり厳しいっす…」という”現実”を示しているあたり、著者は、酸いも甘いもかみ分けたオトナなんだろうな、と想像されます。

 

フェルミーナとフロレンティーノの恋は置いといて、人生、とりわけ結婚というものの示唆に富む作品。

ウルビーノ夫妻の結婚は、些細な諍いの連続でした。嫁姑問題、夫の不倫問題だけでなく、石鹸がないだけで大げんか、朝自分より先に起きてせかせか動き回る夫に対して、わざと早起きしている!と殺意さえ抱く妻、まるで幸せそうには見えないんだけど、フナベルの死の後、フェルミーナはフナベルへの愛を感じ、自分の結婚生活は幸せだったと確信します。

良き結婚とは、一瞬一瞬という点で見ると不幸せな出来事ばかりであっても、連続した時間で見たときにはじんわりと幸せを感じる、そういうものなのかもしれない。

 

「50年も続く恋を描く」というある意味実験的な小説。500ページのボリュームのなかで読者が得られるのは、”人生がいかに凡庸で滑稽なものか”ということ。凡庸で滑稽な行いをくり返し、恥をかき、しょうもないものばかり集めていても、生きてさえいれば知らぬ間に何かしら積み上がっていると。

 

その反面、壮年期から老年期に充実した毎日を過ごさないことの不幸についてもしっかり言及されています。

フェルミーナを思って早30年。フロレンティーノはある夜に、自室でフェルミーナとの出会いを思い出し、『あれから30年も経つのか!!』と愕然とします。あれから30年、自分は何をしてきたのだろう、と。フェルミーナ以外のものに無頓着すぎたフロレンティーノは、人との関わりを拒否し、何も得ず、髪すら失って、ただのつまらない老人になりおおせたことに気付く。

対してフェルミーナ。結婚してからの30年は大変充実した30年でした。子どもを産み育て、夫と旅行し、本人は、クソ…って感じることばっかりだったけど、自分の人生を謳歌していました。

 

ハタチになるころまではだいたいみんな同じだけど、ハタチ過ぎてから還暦を迎えるまでは、気を張って生きていないと、30年もの時間をドブに捨てるような自体が簡単に起こりえると、二人の人生を交差させて比較することで、フロレンティーノの人生のスカスカ感を際立せます。

老年期には、自分の思い出を堀り起こしして数少ない美しい思い出を見つけることに費やすことになります。今を真剣に生きること、そして、人との関わりを持つこと、こんな超単純なことが生きていく上でとっても大切なんだと、フロレンティーノが身をもって示しています。

まあ彼自身は、フェルミーナと結ばれたことで、50年分をペイしたつもりかもしれないけど。笑

 

枕元に置いておいて、時間をかけてゆっくり味わいたい小説でした。

 

おわり。