はらぺこあおむしのぼうけん

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自分が失ったものをひとつひとつ数え上げながら、それでも自己正当化をやめない老人への冷徹な視線。カズオ・イシグロ「浮世の画家」前半戦

こんにちは。

 

遠い山なみの光」に続いて一気に5作目。今回も川端康成テイストで面白い。1日で読み終えてしまいました。いろいろと浅い私のような人間は、やっぱりこれくらいシンプルなのがいいなぁ~と思うわけです。

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

本作品も終戦後の日本のお話で、「遠い山なみの光」と比較することもあると思うので、過去記事もどうぞ。

dandelion-67513.hateblo.jp

 

主人公は、小野という老人。ひょんなことから、ある資産家のこだわりの家を購入することが叶い、そんな素晴らしい邸宅に隠棲していることが彼の喜びであり誇りです。物語を読むにつれて、戦時中、彼が戦意高揚のための絵を描くことで財を成した画家であるということが判明します。小野には節子と紀子の2人の娘がおり、節子は嫁に行ったので、今は26歳の紀子と2人暮らし。妻と息子は戦争で失いました。

カズオ・イシグロ作品は、おなじみ「曖昧な語り手」により話が進行します。今回も本領発揮で、どんでん返しも「日の名残り」並みに鮮やかです。小野の記憶力や認知能力はかなり微妙。以下に書かれる情報の全ては小野から仕入れたものであるということを頭の片隅に置いておいてください。

 

物語は、1948年の秋から始まります。

節子は久々の帰省中。小野家目下の悩みは紀子の縁談がまとまらないこと。1年近く前、三宅という男との縁談が突然お断りされたこともあり、ピリピリしています。新たな縁談も持ち上がっているものの、紀子は能天気なのか気丈に振る舞っているだけなのか、もう決まったようなつもりでいて、小野も節子も気が気ではありません。

小野と二人きりになった節子は、こんなことを言い出します。「前の縁談が破談になった本当の理由はわからないのか?相手方の調査に備えたほうが良いのではないか」と。内気な節子は、昔からはっきりものを言えないタイプなのですが、おそらく戦意高揚系の絵を描いていた自分の過去を指すのだろうと、小野は考えます。敗戦により価値観が一変し、旧体制の人間が処罰されたり白い目で見られている今の世の中では、面倒な過去はうまく隠したほうがいいという、節子の提案でした。正直快いものではありませんでしたが、興信所の人間が調査を始める前に、古い知り合いを訪ねて回ることにした小野。回想も交えられ、小野の人生を共に振り返っていくという構成です。

 

小野は、偏屈ジジイ。戦争の犠牲は尊いとか、息子は国のために立派に死んでいったとか平気で言っちゃう。民主主義なんて受け入れられん、とか、日本人の魂は戦争の時に最も高まったとかも言っちゃう、顔見知りになりたくない男ナンバーワン。ただ、若い頃は古い価値観に歯向かい、日本はこのままではイカンと新しい取り組みをしていた時期もあったんです。若いうちは皆、旧来の大人との対立を試みてもがくものなのかもしれません。しかし、その頃の信条や成功体験を引きずり、若い者の存在も受け入れられなくなって、自らのアップデートをやめた時、鏡を見るとそこには、偏屈なジジイがこちらを向いているわけです…酷!

 

さて、年が明けて春になりました。

斎藤家の見合いも近づき、そわそわする小野。娘や元弟子や他人には、自分は正しかったと主張してはばからない偏屈ジジイっぷりは相変わらずでしたが、斎藤家との縁談においては、過去は過去として、自分の誤りを正視することのできる「やばくない」年寄りであろうとします。

そして見合い当日。紀子も小野も貝になってしまったので、会話がなかなか弾みません。当たり障りのない?民主化運動で市民が過熱しているという話題になった時は「今の若者はたるんでいる!権利だ何だとアメリカの猿真似だ!俺らの頃はなぁ…」と一席ぶちそうになるのをぐっとこらえて、「けが人が増えないといいですね」と繰り返します。ついに、戦争の時は…と水を向けられた小野は、「私が過去にやったことは、当時は正しいと信じてやったことです。しかしそれがとんでもない結果を生んでしまった。本当に申し訳ないと思っている」と謝罪します。「それは自分に辛く当たりすぎでしょう」と慌ててとりなす斎藤父子でしたが、小野はあくまでも、「申し訳ない」「とんでもないことをした」と一点張り。仲人のとりなしで白けたムードは収まりますが、小野の反応に紀子は度肝を抜かれます。しかしその後は、思いのほか楽しい会になり、久々に記憶があいまいになるくらい酒を飲んだ小野は良い気分で帰宅します。紀子と斎藤Jr.も良い雰囲気に。さて、お見合いの結果はいかに?

というストーリー。お見合いの部分が一番盛り上がり、その後は謎ときになります。大どんでん返しに期待!

 

ネタバレを防ぐため、一旦ココあたりでSTOPして、テーマの話を。

解説に、「人間の独善性に対する強い批判と、年中自己肯定感をしなければ生きていけない人間に対する深い同情」という言葉があり、まさにその通りの小説です。

小野は前述したとおり独善的で、老害そのものです。しかし、自分はやれるだけのことをやった、という意識が常にあり、それはそれで人が生きる上で大切な「柱」のようなものであると思うんです。批判と同情という矛盾するものを盛り込むことで、人生の不条理(というか一番不条理を感じているのは、よくわからん絵で戦意を高揚させられたまま死んでいった若者だと思うのだけれども、それは作中の素一(節子の夫)が言ってくれているので割愛)が料理されずに提供されるところが素晴らしい。

多くの小説は、「批判」か「同情」かどちらかに振ると思うんです。根は頑固なジジイに、またもや娘の縁談がきまらないという罰を与える「批判」か、一時的にでも自分の過ちを悔いて見せたことで、娘の縁談を決め、新たな光を見せてくれる「同情」か。しかし、どちらでもない。完全に悪い人間も、完全に良い人間もいないように、人間はどこかで独善的に振る舞いながらも、それによって失ったものを悔いている、そういうものですよ。と示してくれるんです。

 

ただ、小野の謝罪の仕方には、解せないものがあります。

自分が当時やったことは、正しいと信じてやったこと。「だから」それで間違った結果になっても許してください。ってどういう論法だよ?ドイツ人のゼークトの組織論に、「組織の中で最も問題なのは無能な働き者である」という言葉があります。組織の中で無能な働き者がマズいのは、行動力があるから。間違った方向に、熱意をもって、みんなを導いてしまう。小野もその典型です。自分なりに国を憂い、よくわからないものを崇拝し、戦時中のスローガンを掲げた絵をせっせと描いてみたりするのです。

しかし、こと日本では、無能な働き者が、無能な働き者であるが故に裁かれるケースはありません。日本では、「熱意の有無」や「精神的気高さ」や「忠実さ」が「無能か有能か」に勝ってしまうからです。どんな結果を産もうが、「そのときは正しいと思っていた」「悪気はなかった」でチャラになる。

セクハラオヤジの言い訳みたいな感じですね。体をベタベタ触っておきながら「セクハラのつもりはなかった!友好の証だったのだ!しかし、そちらがセクハラと感じたのであれば謝ります」って釈明するような。「他人の体にみだりに触れた」という結果よりも、「そんな意図はなかった」という動機を前面に出す。そうすると、何も言えなくなるわけで…。動機はどうあれ、自分が起こしたことに対する「結果」に責任を取る気はないんですよね。

小野も同じ。本当の意味で自分の行ったことに対して謝罪の気持ちがないから、そんな謝罪をするんです。「自分がバカだったから変な活動に熱を上げて民衆を惑わせるようなことをした。それによって戦争の継続に一役買ってしまったのです。自分の愚かな行為に惑わされた方々にお詫びします」が本当の謝罪。最も問題だったのは、「自分がバカだった」ことです。しかしそれは死んでも認めないという態度まま謝罪の形だけ整えるって、卑しいわ!!!と思ってしまう私でした。

ただ、こんな偉ぶっている小野も「しょぼくれたジジイ」であることが判明します。

さて、長くなってきたので、謎ときはディナーの後で(=後半戦で)。

 

つづく。