はらぺこあおむしのぼうけん

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幸福は、分かち合えるものだけが、ほんものである。 ジョン・クラカワー「荒野へ」

こんにちは。

ジョン・クラカワー「荒野へ」

ポパイのサマーリーディング1冊目です。

 

dandelion-67513.hateblo.jp

 

カポーティの「冷血」と同じようなものを期待して。

「冷血」がある程度時系列に事件を追っているのに対して「荒野へ」は「死」からの逆算であり、アプローチは違います。「死」を起点として主人公クリスの足取りを追っていくため、彼の動機を答え合わせしていくような感覚で読みました。

荒野へ (集英社文庫)

クリス・マッカンドレスは、エモリー大を優秀な成績で卒業したばかりの青年。彼は、家族に黙って姿を消し、約2年にわたる放浪の末、アラスカの山中で死体となって発見されます。餓死でした。優秀なクリスは、なぜ無謀な旅に出たのか?彼の死はどのようなものだったのか?彼の訪れた地を訪ね、彼と関わった人間にインタビューし、彼の動機を探るというのが本書のテーマです。

 

乱暴にまとめてしまえば「自分探しの旅に失敗した青年」。この事件は当時センセーショナルに報道され、批判的な意見も多かったそう。いろいろ考えすぎて煮詰まってしまい、現実から逃げるために軽装で自然に挑み、食べ物をとれなくて死んじゃった青年。バカだなぁ。頭がよくてもダメだよねぇ~。自然を舐めてる!!現代なら、週刊誌やツイッターの餌食でしょう。

各章の冒頭には、クリスが心の支えにしていた文章が紹介されているのですが、正直、「青いな…」とは思う。人間の醜さや欲望を認められず、それを全て浄化してくれるものとして自然を神聖視するような。人間の醜さも自然の美しさも、所詮は頭のなかで作り上げた思い込みにすぎないのに、白と黒を神経質に切り分け、イタズラに自然を求めている感じはしました。

 

人はなぜ荒野に惹かれるのか。それはこの一文に凝縮されています。

アラスカは長いこと夢想家や社会的な不適格者などの、人生のほころびを人跡未踏の広大な最後のフロンティアがなにもかも繕ってくれると思い込んでいる者たちを惹きつけてきたのだ。

そしてこう続く。

しかし森は容赦のない場所であり、希望だの憧れだのは歯牙にもかけない。

これがこの物語の全てを暗示しているのです。

 

裏表紙の紹介を読んだ段階ですでに、クリスがどのような感情を持ってアラスカを目指したのかはだいたい想像がつく人が多いと思うし、びっくりするほど、想像した通りの青年なんです。必要最低限しかお金を持たず、途中でお金を燃したというエピソードを聞けば、「ああ、お金は醜いものだ思って忌み嫌ったんだろうなぁ」って感じ、森の地形図を持たずに森に入ったという話を聞けば「ああ、モノホンの『冒険』をするためにわざと持たなかったんだろうね…」と理解する。

ステレオタイプというか、考えも凝り固まっており、中二病とも呼ばれかねないガンコさを感じます。それは彼と直接触れ合った人のインタビューを聞いていても頷けるんですが、田舎町の教養のない農夫みたいな男には最大限の優しさをもって接し敬意を表する反面、大きい都市のマックでバイトした時は、誰とも関わろうとせず、上から目線。素朴な()町で暮らす善良な()人々は祝福されるべき存在だが、米国資本主義の見本市のようなゴミゴミした街で生きている人間は付き合うに値しない、と思っているんだろうなぁ、と彼の思考が手に取るようにわかる。

 

こういう風に書くと、「バカな青年の冒険旅行の顛末が書いてある本?」と思われるかもしれませんが、そんなことはなくて、著者のただただ温かい目線が本書のみどころ。登山家として「あのとき一歩間違えば死んでたな…」というような経験をたくさんしたジョン・クラカワーは(過分に若い頃の自分とクリス重ねているきらいはあるけれども)、クリスの無謀な行動の数々を、誰もが通る道として批判することはしません。クリスのようなことする人はゴマンといて、ほとんどの人は無事に帰ってきている。彼の死は2、3のしくじりのせいで起きた不運な出来事だ、というスタンス。そして、「(批判する大人に大して)昔の自分の思い出したくない部分が引き出されているからこそ冷たく当たるのだろう」と、クリスに向けられる批判の盾になろうとします。

また、「無知のせいで死んだ」という世間の認識に疑問を投げかけ、彼が死ぬ前の数週間を仔細に描写しようとします。様々な証拠から考えられる可能性をひとつひとつ潰していき、死の真相に肉薄する最後のシーンはウルっとくる。

 

何度も書いているように、クリスに対して「青いな…」と感じる部分はたくさんあります。本を読み始めて数ページで、クリスの性格や動機、家庭環境なんていうのもだいたい想像できてしまい、自分なりの「結論」みたいなものはすぐに出てきて、読み続ける中で確信を深めていく。それはひとえに、自分が年を取ったからなんだと思います。

クリスは「自分の考えている複雑な思考は他人には理解し得まい」とか、「俺の本当の心の傷は誰にもわからない」と思い孤独に陥っていたようですが、実際はかなり丸見えだった模様。旅の中で出会ったウェスターバーグという男は「根はいい奴だがコンプレックスをいっぱいもっていたようだ」、「深刻に考えすぎるために、世間のことも人間の仲が悪い理由も理解できなかった」、「父親との間に何かあって、それにこだわり穏便に済ますことができなかったんだろう」と、クリスの行動から彼の置かれた状況を的確に分析します。他の大人たちも「森を見てなかなか気が見られない人間のようだった」や、「恨みをくすぶらせ悪意を鬱積させていた」と、かなり核心を突いたコメント。

決して自分の素性を語らずに付き合ってきた大人たちに、高解像度で心を見透かされていたあたり、クリスの幼さが際立ちます。ただ、不思議とイライラするようなことはなくて、「この時期を無事過ぎれば、普通に優しくていい大人になりそう」と感じるんです。だからこそ余計に彼の死が悔やまれる。

たくさんのことを考えられる頭脳を持ちつつも、心が弱くて少し幼い。理想が高く、自分ができる以上のことを自分に(時々他人にも)求めてしまう。ただそれだけ。そんな欠点は屁でもないから…40代になって「あのときはバカなことしたなぁ」と振り返れたらどんなによかったか、そんなことも思います。

 

クリスは旅の中で、ある老人に出会いました。老人はクリスに養子になることを求めますが、クリスは答えを保留します。そして、アラスカへの道中、彼にこんな手紙をしたため、自分と同じように孤独な冒険の旅に出ることを促します。

楽しみをもたらしてくれるのは人間関係だけだと思っているとしたらそれは間違いだ

また、

誰にも顧みられることなく幸福…孤独で幸福

と、孤独な旅を誇りにも感じていました。しかし、アラスカの森の中で過ごした最期の時、この思いは訂正されることになります。

おそらく最後に読んだ本の横に、こんな言葉を付け足すのです。

幸福は分かち合えるものだけがほんものである

また、トルストイの「家庭の幸福」にある

人生における唯一の確かな幸福は、人のために生きることだ

という言葉にアンダーラインを引いています。

もちろん孤独の中で一時的にそんな思いに達したと解釈することもできますが、白か黒かで判断したがり、皮相的なものを憎む彼ですから、この気持ちは本物だったのだと思います。

自分探しの旅というものにはうさん臭さを感じてしまう私ですが、もしかしたらクリスは「旅」で大きな収穫を得たのかも。もし森をおりることができていたら、人と積極的に交わり明るく生きていったのかもしれないなと感じました。持ち前の人の好さで、彼の人生は大きく拓けていったことでしょう。

 

エピローグは、クリスの父と母がクリスが最期を過ごした地を訪れるシーン。母親の

いくらかはましな日もありますが、これからは一生、毎日がつらいでしょうね

という言葉が印象的。ジョン・クラカワーは、若者が危険を求めるものは文化における通過儀礼みたいなもんだとしながらも、遺された家族に会ったときには

危険極まりない冒険を雄弁に弁護しても、空疎に、無意味に聞こえる

と感じています。

日頃、自分の人生は自分だけのものと考えがちですが、自分がこの世からいなくなることで、決定的な打撃を受け、二度と人生を回復できない人がいる。そんなことを思いました。この本の売り上げの一部はクリス名義の奨学資金に寄付されるそうです。

 

ジョン・クラカワーの、全ての出来事や言動を「そういうもの」と受け止め、いちいち批判したり懐疑的になったりしない姿勢がとても温かく、他の本を読んでみたくなりました。

ということで最新作。「信仰が人を殺すとき」を購入。私の夏の課題図書とします。

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)