はらぺこあおむしのぼうけん

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ジョン・クラカワー「空へ」

こんにちは。

ジョン・クラカワー「空へ」

空へ―「悪夢のエヴェレスト」1996年5月10日 (ヤマケイ文庫)

数年前に「エベレスト」という、1996年にエベレストで起きた大量遭難事件について取り上げた映画がありました。当時映画館でも見て、映像の美しさ、極限状態での人間ドラマに圧倒された記憶があります。極寒の登頂付近で「暑い・・・」といいながら服を脱ぐ男性の姿に衝撃を受け、ずっと忘れられない作品となりました。

今はアマゾンプライムで!!無料で!!見ることができます。読み終わってすぐ再視聴しました。

エベレスト (字幕版)

さて、かたやジョン・クラカワー。

「荒野へ」、「信仰が人を殺すとき」ですっかり魅了されてしまった私は、過去の著作をあたっていたところ、1996年のエベレスト大量遭難事件のドキュメンタリーを発見。映画でも見たこの話、さぞやすごい内容だろうと思って購入したらなんと!!この事件の当事者であることが発覚し、二重に驚き。この本は彼の名を世に知らしめた出世作です。

 

1996年、エベレストの商業登山は社会問題になりつつありました。商業登山とは、ろくに登山具も使えない登山者であっても、760万円(当時の金額)を支払えば、エベレストの山頂を目指せるというもの。自分の身一つあれば、ガイドが山頂まで同行してくれる。そして、ルート工作、酸素などの運搬、食事の世話など、身の回りの面倒ごとはすべて高山帯で暮らすシェルパに丸投げできるというもの。お金次第ではエスプレッソマシンまで持ち込める!!

物語の主人公は、エベレストの商業登山にいち早く取り組み、確固たる地位を築きつつある「アドベンチャー・コンサルタンツ社」のロブ・ホール隊「マウンテン・マッドネス社」のスコット・フィッシャー隊。ロブ・ホールとスコット・フィッシャーはライバル関係にありますが、相手のことは信頼しています。

ロブ・ホールは顧客に対して手厚いガイドを売りにしており、その分費用も高額。対してスコット・フィッシャーは、社名からもわかる通り放置主義。実力のないやつは山に登るな、とも思っています。ジョン・クラカワーは商業登山について取材するためにロブ・ホール隊の一員として山頂を目指します。

 

映画で得た印象は、冬山登山ってチョー危ない、危険すぎる、ちょっとミスればすぐ死ぬ、っていうものでしたが、本を読んで思ったのは実は逆。2つのことを守れば、生きて帰ることは、そこまで難しくない、というもの(もちろん落石・雪崩などに巻き込まれ…という事故は除く)。

一つ目の約束とは、相当な対策。これは、日々のトレーニングに始まり、豊富な登山経験、ルート工作、十分な酸素と荷物…などなど。

二つ目の約束とは、内なる声に従うこと。具体的に言うと「危険を感じたら戻ること」もしくは「決められた時間に引き返すこと」。肝心なのは無事に降りてくることです。登って終わりではない。自分の実力をしっかり見極めて「これ以上は無理」と思ったら潔く下山する

この2つを守ることにより、無事に帰還する確率はぐんと高まるのです。

 

とはいうものの、営業登山では1つめも2つめも金で解決可能。必要な物資も、経験に基づく内なる声も、ガイドとシェルパ頼みで補える。山を聖地と考え、登頂に至る過程を重要視する昔ながらの登山者から見ると、これは人間の思い上がり以外の何物でもなく、だからこそ営業遠征隊は問題視されていたのです。しかし、ネパール政府は対策をとらないばかりか、入山料の値上げにより外貨を獲得しようとさえしていました。

 

エベレスト大量遭難事件は、本当にたっっくさんの人でひしめくエベレストで、数え切れないほどの判断ミスが重なって起きてしまった事件でした。事件そのものについてはwikipediaでも臨場感ある内容を得られるので割愛しますが、人の多さ、お客さん気分の登山客(自覚不足)、ガイド、顧客ともに登頂への執着が強すぎる…こんな要素が複雑に絡み合って、起こるべきして起きた事故であると感じざるを得ませんでした。

皮肉にも、マズい状況をいち早く察知し「こんな状況では事故が起きてしまう…」とつぶやいたロブ・ホールの予言通りになってしまったのです

 

なぜ、人は山に登るか。

「そこに山があるから」以上の言葉を見つけるために、エベレスト登頂に志願したジョン・クラカワーでしたが、商業登山隊のメンバーと過ごす中で違和感を覚えます。話題作りに思えるような動機だったり、記録を残すために登るという人、登ることが夢だったという割には日頃の鍛錬は足りていなさそうな人、クラカワーが最も親しくしたダグ・ハンセンという郵便局員(犠牲者)は、ダブルワークをしてエベレストを目指します。「こんな自分が登ることで子どもたちを勇気づけたい」という思いがある上に、昨年は目と鼻の先で登頂を断念している彼の執着は相当なものでした。

もちろん、気持ちはわかるんだけど、皆「登頂ありき」であり、そこに至る過程や自己の成長にはあんまり興味ナシのメンバーに若干の失望をします。何人かの印象はその後変わることになりましたが。

 

対して、元々クライミングが大好きなクラカワーは、山=聖域、登山=神聖な行為という意識を少しだけ持ち合わせていました。著書の中で彼は、先人の著書を多々引用していますが、長々と引いたのはこれ。

登山の魅力はいろいろに言われるーー個人と個人の関係を単純化してくれる作用とか、友愛をスムーズな相互作用に還元してくれる作用とか、人との感情的な結びつきを他のものへ転化してくれる作用とか

(中略)

加齢や他人に対する脆弱や、個人間の義理、あらゆる種類の弱さ、遅々として進まない平凡な人生、そういったものを生真面目に受け取ることを拒絶しようとする意思があるのかもしれない…

うーーーん!尊い!!!

他にも、固定ロープと自分を固定して登山する商業登山と、信頼できるパートナーと自分を固定する(命を預け合う)昔ながらの登山を比較し、信頼できる山仲間がいないからこそ商業登山を利用するんだ…としみじみ感じていたりもします。

 

山に登る理由なんてもんは人それぞれで構わないですが、登頂にこだわりすぎることは命に関わる大問題です。

こんなエピソードが出てきます。実力も実績も十分にある、単独登攀に挑んだ青年は、ロブ・ホールらよりも数日早く山頂アタックし、あと60分登れば登頂というところであっさり引き返してきます。これ以上登れば無事故で下るのは難しいと判断したから、という理由でしたが、この話を聞いたロブ・ホールは、彼の判断を「なかなかできるものではない」と賞賛するのでした。無事に降りるまでが登山、ということですね。

このエピソードといやでも対比されてしまうのが、ロブ・ホール隊、スコット・フィッシャー隊はじめ、営業遠征隊のメンバーの一部です。14:00までに登頂できなかったら引き返す、という決まりを守らず、一番最後の人が頂上を降りたのはなんと16:00近くになってからでした。その後の悪天候で、大量の人が遭難し、命を落とします。山頂付近でどういう会話が交わされたかはわかりませんが、登頂へのこだわりは隊員だけでなく、登頂者数が翌年以降の営業にもろに直結するガイドにだって十分あったのかもしれないとクラカワーは振り返っています。

 

約1000万円の出費、数週間に渡る休暇、夢、野望…

これだけのものをかけた以上、結果を出すことにこだわるのは想像に難くありませんが、あまりにも多くのものを背負いすぎると、人生ごと山に持っていかれる、そういう意味で山は恐ろしい場所なのです。

「山は身軽で登るべき」

もちろん装備の話ではなく、あれもこれもと山に託すのは相当危険だという印象を受けました。山登りは時に人生に例えられますが、「全力で登ってはいけない」って実は生き方にも通用していたり…なんて思ったり。

 

商業登山を云々することはできませんが、心のどこかに、山の中くらいでは、人間の命は平等であってほしいという思いはあります。本来は命を預け合うバディと、文字通り一蓮托生で登るべきもの。だけど、そんな山仲間作りから登山ルートまでを他人に丸投げした上、自分の力不足のツケまで、金に物言わせて他人(主にシェルパ)に支払わせるのはどうか…と思ってしまう。

ただ、数週間の登山シーズンに、西洋人を神聖な場所エベレストに登らせるのを手伝うことで暮らしているシェルパがいるのは忘れてはなりません。貧困が根底にある以上、根は大変深い問題です。

 

息もつかせず2日で読み終えてしまいました。

描写の細かさに圧倒され、エベレスト登山した気分…とまではいかないけど、ベースキャンプに着いたくらいの気分にはなれました。

 

おわり

 

 

dandelion-67513.hateblo.jp