はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

山よりも高く海よりも深い母の愛 映画「私の中のあなた」

こんにちは。

大ベストセラーになった小説の映画化です。「私の中のあなた」

 

私の中のあなた [DVD]

 

私は映画を見る前に予告を見たくない人です。「全米が泣いた」とか「この夏最高の」とか「涙が止まらない」とか平気で言っちゃうし、結論を誘導してくるし、何より予告が一番おもしろいからです。でも、見た後はとりあえず予告もチェック。さて、本作品もご多分にもれず「この秋、自分史上最高の涙が…」と。自分史上最高とか結構強気に出ていますが、これはほんと、涙無しには見られない、2時間泣き通しの作品でした。

 

アナには、ケイトという姉がいます。姉はかなり重度の白血病で、腎不全を起こしており、腎臓移植しか打つ手はありません。アナはケイトの腎臓ドナーとして作られました(ドナーベビー)。「だいたいの命は、酒の勢いや避妊の失敗でハプニング的にできるけど、私は違う。子どもを計画的に作るのは不妊に悩む夫婦くらいのものだろう。姉の病気がなかったら、私の命はあったのか」という独白から始まり、アナの体は生まれた時からすでに姉の一部であるという重い荷を背負っていることがわかります。アナは、腎臓提供を含めた自分に対する医療的行為の停止を求め、両親を訴えます。

この映画、腎臓移植をできるか否か、がポイントに思えるのですが、途中で、何かちょっとおかしいことに気づきます。過去や現在が入り乱れるのでわかりにくいのですが、よく見ると、訴訟を起こした時点でケイトはすでに移植に耐えられる体に思えません。じゃあなぜ訴訟を起こしたのか?その真意はどこに?それは最後に明かされます。

 

さて、がん患者の家族は第二のがん患者、って言葉知っていますか? 家族も、がん患者と同様に金銭的・精神的負担を負っているという意味です。精神疾患を患う場合も多いとか。今まで見えにくかった家族の負担について、最近は目が向けられているそうです。

本作品も、アナ、ケイト、ジェシー(アナの兄)、サラ(母)、ブライアン(父)それぞれの視点から語られる家族の闘病日記的な側面があります。「我が家の一番の関心事項は私の白血球数値。ジェシー失読症は二の次」と、子どもたちもそれぞれ寂しさを抱えて生きているようです。

 

私が一番共感してしまったのは母親。

「私の14年間の戦いはどうなるの?」

特にこのセリフです。他の家族とは温度差があるんですね。他の家族は心のどこかで、ケイトの死を受け入れようとしています。しかし母親は、ヒステリックで、ケイトを含め他の家族の意向を無視して突っ走る。ケイトの病状が悪化しても、ホスピスへの入所や一時帰宅を拒否。「あの子は移植をして助かるの!」と強硬に主張して譲りません。彼女はケイトの病気が分かった時からずっと戦い続けている。ドナーベビーを作ろう、仕事をやめよう、食事にも出来る限りこだわって、異論を唱える夫の口を封じ、アナやジェシーの心が離れようとも、ケイトのためにずっと戦っているのです。

あるとき、「あなたは最後まであきらめない母親でいたいと必死で戦っている。それ以外のものは何も目に入っていない」と諭されるサラ。しかし、ケイトの死を受け入れることはできない、と答えます。

 

孤軍奮闘し、病院スタッフや家族からも遠ざかっていくサラの姿を見て、ケイトは心を痛めます。自分のために必死になっている家族の姿なんて見ていられませんから。

その反面、子の死を受け入れる準備ができる親なんていない。受け入れられるわけなんてない。どんなに選択肢がなくなっても、必死に策を考える。多くの母親はそうでしょう。そういう点では、病気と一番最後まで戦ったのはサラだったのかもしれません。

 

アナは姉の死で得たものなんてない、ただ、私には素晴らしい姉がいたといういうだけだ、と姉の死を理解します。小説や映画の中には、人の死に大きな意味を持たせ、残された人間の人生に奇跡を起こすものも多くありますが、悲しいかな、実際はこんなところでしょう。死は、ごくごく身近な人に時々思い出されること。死は死。無。そういう点で、死とは何か?を飾らずに表現した作品と言えると思います。

 

そうそうそうそう、

冒頭に映画予告の話をしましたが、この予告、「一度壊れかける家族が再度まとまる」みたいなことを言うんですよ。でも、劇中に、「姉の死で、家族が生きていくきっかけを得た?そんなことはない」「ただ姉は青空になっただけ」という独白があり、もうちょっとよく見ろやって思ったものです。

 

最後はdisってしまいましたが、

子どもの演技がうますぎてほんと、直視できない。涙が止まりません。

人によって感情移入できるポイントが違うはず。一度は見てもらいたいです。

 

おわり。

夫と喧嘩できますか? 映画「かぞくはじめました」

今回ご紹介するこの映画、日本では公開中止になった作品で、あまり知られていません。

 

かぞくはじめました [DVD]

 

原題は「Life as we know it」です。私たちが知っている人生?…人によって解釈が違うこの言葉ですが、「かぞくはじめました」はどうかな?冷やし中華か。

最近映画見ると、邦題いらなくね、っていう洋画多くないですか?これ別に、家族になっていく話ではないです。クソ仲の悪い男と共同経営者として親友の子どもを育てる中で、キャリアや夢にどう折り合いをつけるか。子どもの人生を考える上で、共同経営者とはどのような関係が望ましいのか、自分の恋愛・結婚をどう実現するか、そもそも自分は何をしたいのか。いきなり子どもを背負うことになった2人の若者が、様々なことを迷って人生を考えた話なんです。もしかしたらタイトルに、命のlifeと人生のlifeがかかっているんじゃないかな、と私は思ったのですが。

そもそも家族ってなんだよ。家族の始まりって、3人での生活が始まったところを指しているの? それとも、ホリーとエリックがデキてからですか? せめて原題に入っているlifeは活かしてほしかった。ホリー、エリックが、大切なソフィーのことも考えながら、それと同じくらい大切な自分の夢や人生に向き合おうとしていた話を、家族になろうとした話としてとらえられるのはどうか。

 

前置き長くなってごめんなさいw

とにかく言いたいのは、変に訳さないで、原題で良いですよということ。勝手にテーマを解釈された挙句に、最後の恋だの初めての愛だの家族だの耳当たりのいい簡単な言葉で片付けられることで、安っぽい映画に見られるのは原作にも観客にも失礼な気がするからです。今回も、「かぞく」「笑いあり涙あり」「ハートフル」、これでもかと安っぽい言葉詰め込んでこないでw

 

とまぁ、大層なこと言ってきましたが、ホリーとエリックの関係だけ見るとただの陳腐なラブコメです。

 

子どもを一緒に育てることになった男女の話。主人公は、レストラン経営をしているホリー。ホリーの親友アリソンは、夫ピーター、ソフィーという娘の3人家族。あるとき、事故でアリソンとピーターが亡くなってしまい、遺されたソフィーの親権者としてホリーと、ピーターの親友でスポーツチャンネルの監督をしているエリックが指名されました。2人は、ソフィーを育てることに…

さて、大親友の夫の大親友といえば常識的に考えて、仲が良い相手だろうとお思いでしょうが、この2人はクソ仲が悪い。以前、アリソンとピーターが2人をデートさせようと引き合わせたことがあって、エリックは何時間も遅刻した挙句に、レストランの予約もせず、しかもセフレからの電話に「あとでね〜」と回答する始末。エリックとホリーは大げんか。その後、結婚式や子どものバースデーパーティで顔を合わせますが、ささいなことで口喧嘩をしています。

もうこの辺りで展開が読めますね。大親友の夫の大親友であろうが、嫌いな奴とは会話しないようにすればいいのに、結局突っかかっていって喧嘩するんです。バーベキューとかもワイワイしたりするし。と、2人の恋愛模様は典型的なラブコメなので割愛しますw

 

私が思ったのは2点。

ひとつは、共同経営者として育児をすることで、揉め事が格段と減っているということ。彼らは、オムツ替え、ごはん、夜の世話などが50/50になるよう分担を決め、「気づいた方がやる」というような曖昧な約束はしません。クソ仲が悪いので、協力もほとんどしません。これを夫婦に導入すると意外に上手く回るのかも。相手に期待せず、夫/妻を1人の共同経営者とみなすと、いらん争いは生まれないのかも。逆にいうと、相手を他人以上の存在、簡単にいうと家族と思っているから生まれる争いもあるのかもしれない。

 

ふたつめ。「君たちのような喧嘩ができていれば、僕は離婚しなかったよ」というサムのセリフ。サムっていうのは、バツイチ男でソフィーのレストランに通っていたハンサムガイ。ポリーはサムと付き合い始めるのですが、あるときポリーは、エリックとの大喧嘩をサムに聞かれます。2人の喧嘩に圧倒されるサム。そのときサムは、このセリフを言い、別れを告げました。

喧嘩というのは、何かを乗り越えるためにするものです。喧嘩しない夫婦は、何も乗り越えていないということです。どちらかが折れているか、金や何かをつかって問題へ直面するのを避けていたり。でっかい問題が出てきたら、決定的な亀裂が入るんですね。

私も耳が痛いです。私は一人っ子なのもあってか喧嘩の収拾の仕方がよく分からず、友人との付き合いも近づきすぎず距離を置く派です。まぁ、今更ガチンコでぶつかることもできないので、そんなしょうもない私とつるんでくれる穏やかな友人を大切にしていきます。ちなみに夫もとっても穏やかです。

 

実は、喧嘩しただけ多くの問題を乗り越えている。

でも離婚する夫婦も喧嘩ばっかりだと思うんだけど、そこはどう説明をつければいいのかな? それは、離婚してみてからのお楽しみ。

 

おわり。

アフリカに行きたいと思っている人??「アフリカの日々」

さて今日は、「アフリカの日々」(河出書房)を紹介します。
アフリカに行った気になれる素晴らしい本ください!という動機で買いましたw

アフリカの日々 (河出文庫)


都会の喧騒に疲れきっている私は、「雄大な自然に抱かれて暮らしたい」と日々思っています。満員電車とか嫌すぎるし、子連れで行動する私は日々シジイやババアから心ない言葉をかけられたりするし、もっとおおらかなところに行きたい。。。

さて、アフリカってどんなイメージありますか?
山々に囲まれたのどかな土地。ゾウやキリン、バッファローの群れ。日本ではみることのできない濃い青空。白い雲。赤い土。
私のイメージはこんなん。あー、なんかいいわー!ってなりません? この本も、読んでいると乾燥した熱い空気が鼻先を漂ってくるような、そんな気分に。景色の描写が多く、ここはアフリカ!と叫びたくなります。

主人公「私」は白人。ンゴング丘陵というところにコーヒー農園を持っています。すごくどうでもいいことなんだけど、アフリカって「ン」から始まる地名結構あって、ンゴングとか。グローバルなこの時代、別にしりとりの「ん」はもはや負けじゃねぇよなと思います。
さて、「私」は男かと思っていたのですが、解説を読むと、著者は女性。しかしはっきり明かされていないので、とりあえず頭の中では男性として話を進めます。彼は、農場主という形で、裕福な生活を送っております。使用人もたくさんいるし、当時のアフリカ人にとっては大変珍しいハト時計がお家の中にあって、それを見たさに子どもが裸足で上がり込んで来たり、シマウマの列を見たり、可愛らしい描写がたくさん。

この本はただのアフリカ滞在記かと思ったら、そうではないです。どちらかというと、哲学。よそ者という立場から、アフリカ人とは、西洋人とは、人生とは、を考えていくのですが、これが面白い。農主と言いながらも、日がな一日、日記を書いているタイプの暇人なので、人間観察が趣味になっていくんですね。

アフリカ人は危機察知能力がめちゃくちゃ高くて、とにかく臆病らしい。迫害の歴史があるからです。その反面、偏見を持たないのだそう。これは、様々な種族や商人とのやりとりをたくさんするから、「普通」や「タブー」がない、とのこと。意外。
あと、びっくりしたのは、100%病気を治せる医師がいたとしたら、彼らはその医師を信頼しないだろう。「治る」と「治らない」ということに価値がある。というようなこと。神とかまじないを信じている彼らは、治るか治らないかは神の領域だと理解しているので、治せない病がある医師のほうを信頼しがち、と。これ本当かな?

アフリカには、商売をしている白人もたくさんいますから、北欧人についても観察を深めます。一番印象に残った言葉は、これ。
北欧人は自国や同じ民族の中で理に合わないことは決して許さない。しかし彼らは、アフリカ高地の旱魃、日射病、牛の疫病、雇い入れた現地人が与えられた仕事に適さないのを、自己卑下と諦めをもって受け入れる。
これ、わかる気がしませんか?日本人にもそういう部分ありますよね。
彼はこれを、「男が女に寄せる思慕」と解釈します。北欧人は、自分の理解を超えるもの、人間が調伏し得ないものとしてアフリカを見ている、と。

とまぁ、こんな感じでアフリカの暮らしが書かれていきます。へー、と思ったり、うそだ!と思ったり、アフリカを少し理解したような気持ちになれます。アフリカに蛍がいるって知ってました?
ただ、旱魃の辛さとか、貧しい子どもの痛々しさとか、結構胸を締め付けられる描写もあり、これがアフリカの現状なのか、と思ったりします。反面、アフリカ人の、陽気というか、発想の柔軟さに励まされたり。

途中、手記からの抜粋が出てくるのですが、イグアナを観察してみたり、鳥を観察してみたり、まぁとにかく楽しそう。種族の紹介とかは、文化人類学的な観点から見ても勉強になります。こんな、穏やかでまったりとしたアフリカ滞在記的な一面ももちろんあります。


さて、全然関係のないところで、私が一番印象に残ったところはどこかというと。
ナイロビという町があります。渋谷みたいな感じで、雑多に栄えています。もちろん六本木みたいな綺麗さはなくて、ゴミゴミして。
ナイロビにいると、「無軌道で荒々しい時代にお互いが出会うことはもう二度とないから、私(ナイロビ)をいっぱい利用しなさい」と言われている気がする「私」。そして、ナイロビと理解し合っていると感じている「私」。
「私」は、若いんです。自然に囲まれながらも満たされないものを感じている。そして、時々ナイロビに出かけて心を潤して帰ってくるわけです。「無軌道で荒々しい時代にお互いが出会う」という言葉、若い頃はホイホイ渋谷に出かけて行った私が、ここ数年は「近寄りたくない町」として嫌悪していることを思い出して。
町も人と同じく生き物みたいなもので、町と人間が求めあって目に見えない関係を築いていく。この町に住みたい、この町を出たい、というのは理解し合える町を求めている自然な感情。今何か満たされないものを感じている若者は、世界を広げて、理解し合える町と友と出会ったほうがいいわ、と感じたわけです。

ばーっと読むよいうよりは、鞄の底に入れておいて、スキマ時間でじっくり時間をかけて読みたい本でした。

おわり。

【6月映画公開】魅力的な人間は過去に支えられている「ガラスの城の約束」

6月に映画公開するこちら。「ガラスの城の約束」ノンフィクション作品です。

ガラスの城の約束 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

さて、「魅力的な人間は過去に支えられている」これ、私が考えたわけではなく、謝辞っていうんですか、一番最初に出てくる挨拶みたいなの、あれに書かれていました。「BIG FISH」に続いてこんなお話。

dandelion-67513.hateblo.jp

 主人公のジャネットは、ニューヨークで暮らす成功者。あるときゴミ箱をあさる浮浪者の母をみかけます。ジャネットは、父母、姉、弟、末妹の6人家族で育ちました。トレーラーハウスとやらに住んでいる極貧家庭です。父は新しいエネルギーを開発してエネルギー王になる的なことを言っていて、母は、私画家になる、ピカソも昔は不遇だったとか言ってしまう、どっちも一発当ててやる系父母。犯罪まがいのこともしますし、税金など滞納をしているので、常に追われる生活。いつもいつも、夜逃げばかり。

ケガをしたときに呪術医に見せたりする、といえばだいたいお察しいただけると思いますが、育児放棄に正当な理由をつけて自分をごまかしている母。こういう父母のもとに生まれた3人の兄弟が、力強く行きていく様子と、大人になるまでの葛藤。そして大人になってからの親との微妙な関係を描いた作品です。

 

親って、好きですか? 「好き!」と即答できる人、それはとっても幸せな人か、洗脳されている人かの二択だと思いますw 好きだし、好き以上の感情はあるけれども、割り切れないものも持っている、そういう人も多いのではないのでしょうか。

 

ジャネットも、被虐待児と言っても過言ではありません。両親の浪費のせいでごはんがまともに食べられない、喧嘩ばかり、叶わぬ夢を見ていて子どもの意見なんて聞きやしません。しかし、子どもながらに幸せを確かに感じるているんですね。「お前は天才だ」って言われたこと。「お前は自慢の娘だ」って言われたこと。そんなことを時々思い出しては、心を慰めている。

そして、年齢を重ねて自分の親を客観的に判断できるようになり、自分の親がダメ親だと知ってしまった後でも、どこかで親を慕い続け、親が苦しんでいる姿を想像しては、呼吸が上手にできなくなるほど胸を締め付けられています。

 

普通に考えて、ジャネットが父母に抱く感情や父母への行為と、父母から子どものときに受けた行為とは、到底ペイできるものではないんです。赤の他人が見たら、「そんな親捨ててしまえ」となるわけです。でも、できない。できるわけがない。

子どもって、すごいんですね。なぜか親が大好きなんです。親との悲惨な思い出を美しい思い出に転換する。苦しい出来事も、自分を悪者にすることで父母を良き存在として解釈し続ける。確かに愛されていたという思い出が、子どもの心を鷲掴みにして離さない。無償の愛というのは、親が子どもに与えるものではなくて、子が親に対して持っているものなんだろうと思います。

それが冒頭の「過去に支えられる」ということを指します。

 

親はずるい。気まぐれに示した愛の一つや二つで、生涯の子どもからの愛を獲得できる。そして、今まで子どもにかけた苦労や心につけた傷は、死ぬ前の「ごめんね」で水に流してもらえる。「毒親」という言葉が知られるようになって、親と子のこういったいびつな関係が浮き彫りになってきたように感じますが、古くからこういうことはあっただろうと思います。

 

親目線で。そして娘目線ではっとさせられることも多々ありますし、身を切られるような情景も浮かんだり。これがこの家族の答えか、と腑に落ちない部分もあったり。

どのように描かれるか、映画公開が楽しみです。

 

おわり。

藤原竜也と伊藤英明に騙されたい 「22年目の告白-私が殺人犯です-」

こんにちは。

藤原竜也伊藤英明に騙されたい人はこちら。「22年目の告白 -私が殺人犯です-
最後まで目が離せず、あー!ってなりました。

22年目の告白-私が殺人犯です- ブルーレイ&DVDセット(2枚組) [Blu-ray]

舞台は現代。ある男が殺人を告白します。
その事件とは、22年前に起こった連続殺人事件で、すでに時効を迎えていました。曽根崎と名乗るこの男は、手記を出したりサイン会をしたりやりたい放題。イケメンですから、ソネ様ともてはやさりたりして、被害者遺族は彼の行動に翻弄されます。

さて、連続殺人の被害者の1人である牧村。彼は一度は犯人に発砲し追い詰めたのですが、すんでのところで逃してしまいます。牧村を憎んだ犯人は牧村の自宅で牧村の敬愛する先輩を殺害。その日部屋にいたはずの妹はいまだに行方不明です。

牧村と曽根崎の対決と思われるかもしれませんが、そんなことはない、大どんでん返しが待ってます。
序盤の曽根崎の演技は、ぶちギレそうになるくらい、憎たらしいw 言うまでもありませんが、藤原竜也伊藤英明の演技は一級品でございます。


まぁこれ以上はネタバレになるので詳細は書けないのですが、無理のないどんでん返しというか、腹落ちする展開です。どんでん返し系の作品で多いのが、矛盾が出てきたり、真犯人の動機が単純だったりして、意表を突くためだけの犯人が登場してたりするのですが、本作品はまぁ、わからんこともないなぁ、という、全体がつながっています。伏線の回収も良い。

「被害者遺族に医者がいる」
がポイント。

おわり。

長い人生のほんの些細な出来事を哀愁たっぷりに描く トム・ハンクス「変わったタイプ」

こんにちは。

今日ご紹介するのは、トム・ハンクスの短編集「変わったタイプ」です。

 

変わったタイプ (新潮クレスト・ブックス)

 

トム・ハンクスって、あのトム・ハンクスですよ。え!うそ!?みたいな驚きみたいなのは方々で目にしましたので、ここでは割愛しますw

 

さて、海外事情に疎い私でも知っているトム・ハンクスアメリカン・ドリーム的な小説かなぁと思いました。

 

日常生活を題材にした作品ですが、

勇気を持ってした何かが功を奏し、人生大きく変わる話や、日常生活の些細なことの中で、友情や愛などの身近にある幸せを再認識する話

そのどっちでもありません。しかも、後者よりも冴えない感じ。名付けて、

長い人生において、重要な分岐点になるわけでもないような小さな出来事に寄り添う話です。

 

ある話を紹介します。

「心の中で思うこと」

 

主人公は彼氏と別れたばっかりの女性。ガレッジセールで、5ドルで古いおもちゃのタイプライターを衝動買いしますが、ちょっと壊れている部分があったので、直してくれそうなお店を探して閉店間際に飛び込みます。しかし、タイプライターの修理は難しく、女性は、これと引き換えに店主から格安でタイプライターを譲ってもらいます。条件は、毎日使うこと。一度仕舞えば、二度と使わないから片付けるな、とも。彼女は家に持ち帰り頭に浮かんできたことをタイプライターに書き付けます。

 

出てくる情景が美しい。

パインジュースで作ったアイスキャンディー。酒を飲むより体に悪くないだろうと思って何個か食べるけど、味気ないこと。翌日のために何個か残しておくこと。ただ、夏の夜風が気持ち良いこと。失恋したのに、修理屋の店主はぶっきらぼうなこと。

失恋をテーマにした作品って、人の優しさに触れてふっきれるとか、酒飲んでふっきれるとか、自分の大切なものに気づいたとか、立ち直りのきっかけが簡単に訪れるものも多いですが、実際そんなものではない。自分だけがドラマの中にいるような気持ちでいますが、自分のまわりは何も変わらない。一度吹っ切れた気になっても落ち込んで、吹っ切れての繰り返し。

彼女がタイプライターで何を書いたのかは明かされませんが、きっと朝いつもより遅く起きて、書いてあることを見て赤面して、破って捨てて終わり。そういう程度のものだと思います。そして、タイプライターの存在が、彼女の小さな救いになったことは確かだけれども、失恋の苦しみは、タイプライターごときで紛れることもなく、しばらくは続くと思います。

 

そういう、本当に些細な出来事。ドラマにもできない、彼女が何年後かには忘れているような日を丁寧に書きだして寄り添う、そういう作品でした。

 

冴えない人生を歩んできている私でさえすっかり忘れてしまっているような小さな感情の動きを、ハリウッドスターが丁寧に掘り起こしてくれる、なんか幸せな体験です。

どうしてこういう作品が書けるのかなぁ。

俳優としていろいろな人物を演じてきた体験がそうさせるのか、元々の人間性なのかはわからないけれども、こんなくだらない出来事に寄り添ってくれてありがとう。そんな読後感。

救いもどんでん返しもないけど、人生ってこういうドラマにもならないことの積み重ねだよなぁーと触れられる作品でした。大切に大切に読み返そうと思います。

 

おわり。

 

みんな心に「熱帯」を持っている「熱帯」森見登美彦

こんにちは。

本屋大賞候補作。続き。こちらは直木賞候補にもなりましたね。

 

熱帯

 

 

 

これは、本探しの物語。主人公は昔読んだ記憶のある「熱帯」という本を探しています。若き頃、アラビヤ書店という屋台のような古書店で購入し、途中まで読んでいたのは覚えているのですが、結末を読む前に紛失し今に至ります。同様に「熱帯」を追い求めている同志が複数いることがわかり、彼らと共に「熱帯」がどんなストーリーであったかを思い出すことにします。

しかし同志といえども不思議な人たちで、それぞれなにかを隠しているように思われ、信じられる仲間なのかどうなのか互いに疑心暗鬼に。そんな中、メンバーの一人であるマダムがいきなり脱退、失踪。彼女を追い京都まで向かう主人公。実はマダム、若き日の「熱帯」の作者を知る人物でした。はてさて、「熱帯」は見つかるのか。そして「熱帯」はどんな話なのか。というものです。

 

さてみなさん、私は探している本が2冊あるんです。下記の本をWANTEDしておりますので、思い当たる方はマジで連絡くださいw

一つは、ナントカ文庫と呼ばれる童話集。薄緑の布張り、金の箔押し、15cm四方で、シリーズで何冊もあるものです。額に印のある子どもが川の上流から流れてくる話とか、3人の魔女が未来を予言する話とか、ありふれた古い童話がまとめられている本で、小学校の図書館にありました。転校初日、クラス委員的な秀才の女の子が薦めてくれて出会って以来、何度も借りて読みました。今になってもう一度読んでみたくなって探しているのですが、見つかりません。

 

もう一つは、薄くてすごーい古い本。初心者向けの英語学習教材です。切り裂きジャックとか暗殺事件とか、外国の未解決事件が平易な英語で紹介されている本で、少しだけ日本語で解説が書いてあります。中学生の時に買ってもらったのですが、怖い話を英語で書いてある、そして日本語の言葉遣いもなんだか古めかしい、という気味の悪さがクセになり、こわごわとページをめくったものです。手元に置いておきたくて実家で探したのですが、もう見つからないのかなぁと思っています。

 

10年近く探しているのですが、思い出せば思い出すほど、どんな本なのかわからなくなっていくんですね。しかも、実際に手元にあった時よりも美しい思い出に書き換えられているはずで、運良く再度手にすることがあった時はきっと、あれ?ってなると思いますが。

 

さぁ、なんでこんな話をしているのかというと、みんな一冊や二冊、また読んでみたいけどもうタイトルも作者もわからず、半分諦めている本を心の中に持っているんじゃないかなぁと思うからです。そして「熱帯」というのは突拍子もないSFではなく、本好きなら一度は経験している本探しを冒険譚化した小説なのではと感じたからです。

 

本というのは、同じものを読んでも人によって感じ方が大きく違います。都合の良い部分だけ自分のいいように解釈されたり、些細なエピソードだけが記憶に残ったり、実際、結末ですらも曖昧。アニメや漫画よりも、本人の想像に委ねられる部分が多いため、読み返した時に、あれ?こんな話だったかな?と感じる。人と話した時に、そういう話だったっけ?となる。そんなものだと思います。

「熱帯」は、同じ本を前にしても、記憶や思い出は人それぞれ違う。同じ本といっても、読者の心の中では別ものになっている、そういう特性を書いた小説だと思います。少なくとも私の中では、今はそう解釈されています。

 

読書って、本当に面白い。読書という行為、本そのものの特性を丁寧に紐解いた、そういう小説です。きっと。

他の読者の皆さんはどう感じましたか?みんなで沈黙の読書会しませんか?w

 

おわり。

 

dandelion-67513.hateblo.jp