はらぺこあおむしのぼうけん

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じいちゃんの補正された思い出話を延々聞かされるという苦行 新潮クレスト「海に帰る日」

こんにちは。

2005年ブッカー賞受賞作、新潮クレスト「海に帰る日」です。

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)

年老いた男マックスが、人生を回顧する物語。彼の心の中には、亡くしたばかりの妻アンナと、初恋の相手クロエの二人がいましたが、妻を失った今、彼の心はクロエとの思い出の地に引き寄せられていきます。別荘地での一夏の恋、そして曖昧にしか思い出せない海難事故の顛末。未来に目を向ける気力を失った男は、過去の世界で生きることを望むようになります。

マックスは美術史の研究家。本を出してはいますが、実際は資産家のアンナに養ってもらっていたヒモ男。アンナとの間には一人娘クレアがいます。もともと内向的な彼は、結婚後はアンナとの生活が全てになります。これからもずっと穏やかな毎日が続くだろうと思っていたある日、アンナが余命告知の後あっけなく亡くなりました。失意の彼はさらに内にこもるようになり、過去の世界に没入しはじめます。思い出されるのは、ずっと蓋をしていた初恋の少女クロエの死の記憶。思い出の地を訪れ、自らの記憶を紐解いていくマックスは、クロエの死の真相にたどり着けるのか。

 

最初に言っておきますが、これは年寄の回想録以上の何物でもありません。「なんか微妙だな」と気付いた時には半分過ぎていたから全部読んでみたけど。とにかく読み辛いし、年寄りの思い出話ほど役に立たないものはありませんから、オススメは斜め読み。

アンナとのなれそめ、闘病生活、そしてクロエとの出会い、恋、そして事故…マックスが回想しているわけですが、どれもこれも、思い出補正されている上、毒にも薬にもならないじいちゃんの考察が混ざってきて、わけわかんねぇなぁ…なんて思っているうちに、「ああ、こんがらがってきてしまった」とマックスが反省して他の話を始めるという、ジジイの与太話。どこまで本当かは、マックスすらわかりません。

 

この物語の肝は、「人は過去に生きることは可能か?」ですが、たいそうなお題目を唱えた割には、消化不良。そして、クロエの死の真相も、あれだけ引っ張ってコレ?という感じです。

マックスが求めている「過去に生きる」とは、死ぬまで良き思い出を反芻し、黄金時代を何度も追体験すること、です。そのためにクロエと出会った地に下宿を見つけ、そこに逗留します。マックスは何度も、「自分は過去にしか救いを求められない可哀想なじいちゃん」であり、「自分のような考え方をするじいちゃんは、世の中でも珍しいじゃろう」と、自分はそんじょそこらの年寄とは全然違う、深い考察ができる人間だとアピってきますが、定年退職して若者相手にイキり散らしてる爺さんと大して変わらねぇ…と思うわけです。そもそも、下宿を探して電話で予約を取って、「晩御飯はいりません~」とかおばちゃんに話しているわけですよ。お前、ばっちり”今”を生きてるじゃん!と突っ込みたくなるわけです。

また、挙句の果てに「自分がわからなくなってしまった…」と中二臭いことも言い始めますが、自分がわからないという割に、自分の原風景としてクロエとの思い出の地を挙げ、「ここが私のアナザースカイ!」ばりに紹介してくるわけですから、都合のいいことばっかり忘れたジジイだな、という印象。

 

また、マックスは、「一人になりたい」、「一人で生きていく」と宣言していますが、構ってほしいオーラがぷんぷん出ています。同居している娘にもハンストを実施し、「もういい加減にして!!!自分も辛いんだ!」と泣かれたりしています。この手の男は、妻が一日家を空けた時に、何も食べずに帰りを待ち続けるタイプですね。自分では「手のかからない良き夫」と思っているけれども、妻からは確実に、もう少し生活力をつけろよ、趣味作って出かけるくらいしろよ、と思われています。

印象的なのはこんなエピソード。下宿での同居人(退役軍人)と会話を愉しんだマックスは、「これは、世界を自分の中に少しずつ取り込む、いわばホメオパシーなのか。自分は生きている人間の中で生きることを学びなおしているのだろうか」と自問します。こんなことを分析して病んでるアピしてくるあたり、全然病んでないという証左なわけで、うわ、めんっどくせ~ジジイだなぁ…という感想しか出てこないですね。

 

とはいえ、人生に対する考察は興味深いものがありました。
例えば、「自分の存在を突き詰めたとき何が残るか」。生まれた場所、肩書、階級など、簡単に自分を説明できるものが取り去られたとき、そこに残るのは何か?と考えたマックスは、それは「他者の中にある自分」以上のものはないのではないか、と思い至ります。人は他者の中にしか存在しえない、ということは、他者の中に生きることを怠ってきた自分は、アンナ、クロエ亡き今、クレアの死と同時に消えるだろう。途方もない数の人生が、この瞬間に生まれては消えてゆくのだ、と恐怖に慄きます。
また、「人生の最終章とは」。若い時は、今は人生の練習の時期であり、そう遠くないいつか「本番」が来て、そこで力を発揮できると思い込んでいる。しかし、それは誤りで、いつの間にか舞台に引きずり出され、下手な踊りをやっているうちに引きずり降ろされるのだ、ということに気付いてしまう。など。

 

余談ですが、クロエとの恋の話は、甘酸っぱくて、ちょっとしょっぱい。もともとクロエ母のグラマラスボディに骨抜きにされていたマックス少年。しかし、彼女を目で追ってくうちにクロエも気になってきて、胸のふくらみに手を添えるチャンスも訪れてクロエ推しになってくるわけです。思春期の男の子の恋!って感じですね。

クロエは勝気で、マックス少年を振り回します。マックス少年は恋に落ちた瞬間「自分は愛する側の人間だ」と察知します。こんな幼い子どもであっても「世の中には愛する側の人間と愛される側の人間がいて、自分はどちら側の人間かはわきまえているのだ」という言葉が切ない。親子間の不和を抱え、貧しい暮らしをしていたマックスは、大した家柄の出でもなく自分に自信を持てずにいます。「卵を産めない郭公」のプーキーしかり、「終わりの感覚」のベロニカしかり、内にこもる系男子は、なぜ破天荒女子に振り回されてボロボロにされるんでしょうか。

 

dandelion-67513.hateblo.jp

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おわり。