はらぺこあおむしのぼうけん

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面白みのない真実よりも、語り継ぎたくなる物語で彩る人生 ダニエル・ウォレス「ビッグフィッシュ」

こんにちは。

昨年読んだ「ミスター・セバスチャン~」の作者ダニエル・ウォレスの作品2つ。「ビッグフィッシュ」(と「西瓜王」)

一緒に紹介した理由は、「ビッグフィッシュ」と「西瓜王」がつながっているからです。「ビッグフィッシュ」の主人公の父エドワード・ブルームの出身地アシュランドは、「西瓜王」の舞台。貧しい村に保守的な村人、黒人差別も横行しているアラバマのアシュランドは、若者が「積極的に捨てるべき故郷」として描かれています。アシュランドを捨てたエドワードがどのように生きたか、二つの作品を見比べるといっそう理解が深まるんですね。

まずは「ビッグフィッシュ」から。

ビッグフィッシュ―父と息子のものがたり

主人公はウィリアム。父エドワードの死を前に、彼の人生の真実を知りたいと願っています。この本は、父が語った断片的なおとぎ話短編集の趣。その間に「父の死ーテイク1」といった具合に、ウィリアムが語る父の死のシミュレーションがはさまり、物語が進行していきます。

映画を見ておいたほうがわかりやすいと思います。ストーリーらしきものはなく、著者も「ずっと書きためたものをまとめた」みたいなことを言っているので、まとまりがない。テーマも取ってつけたような感じで、映画の補完として読むのが良いかと思います(本来なら順序逆だけど)。ただ、映画ほど目が覚める鮮やかさはないし、淡々と暗い感じ。結末は少し違ってて、個人的には映画のほうが100倍好きです。

 

父の人生はざっとこんな感じ。

アラバマ州アシュランドに生まれ育つ。アシュランドは何もない田舎町で、早々に家を出る。家を出るときにはかなりの反対に遭ったが、それを押しきって旅立つ。一文無しだったエドワードは、世話焼きの夫婦の雑貨店で住み込みで働き、約一年でそれなりの貯えを作った。その後カレッジに進学し、妻と出会い結婚。もともと商才があったエドワードは、その後3つほど仕事を変え、金持ちに。

ただ、仕事に満足していない(好きでもない仕事に忙殺されている?)らしく、出張のふりして二重生活をするようになる。スペクターという町で20そこらの娘と不倫していた。晩年は癌が全身に転移し、自宅で療養生活中。余命いくばくもない。もともと家にいるのが苦痛だった男、そして妻に不義理をはたらき、その上息子にはホラしか語って聞かせないため、すごく微妙な関係になっているが、それでも息子は分かり合いたがっている。

 

どうあっても映画と比較してしまうんだけど、映画のエドワード老人はお茶目だったし語って聞かせる話が色鮮やか(文字通り、映像が綺麗だったということ)で美しく、好感が持てました。対して、小説ではほぼ寝たきりの老人の臭いとか頭ベタベタとかそういう話が生々しいし、見どころであるべきおとぎ話がワンパターンなので、好き放題やって、面白くもないダジャレを言いながら死んでいくジジイ感あふれていて、共感できない。

ほんと、ワンパターンで…とりあえず盛っとけ、みたいな。巨人を描くときは「普通の成人男性の2倍の背の高さ、3倍の肩幅、10倍の腕力があった大男」からはじまり(そこまでは許容範囲なんだけど)、寝ている間にベッドから足はみ出す、とか、ご飯食べている間も成長していくのでボタンが飛んでいくという尾ひれがついて、ハイハイってなる。毎度こういうパターン。エドワードが作る物語は、あくまでも自分の経験を「盛る」という程度ですから、登場人物をバカみたいにデカくするか強くするか物騒にするか、というバリエーションしかないんですね。

飲み会で刺身盛り合わせがなかなか来ないとき、「お?これは海に釣りに行ってるな!」とかいうおじさんのジョーク並みに寒く、何度も擦られた感があってうんざり。息子のウィリアムもそれを指摘していて、「あ、それ前に聞いたよ」と先手を打って怒鳴られるという場面もあったりします。

 

エドワードがおとぎ話を語る理由は、このセリフに集約されています。

「話を忘れない限り、相手は――それを話してくれた人間は生き続ける」

自分の生きていた証を長く残すためには「語り継ぎたくなるようなストーリー」を用意する必要がある。と考えたんですね。「若い頃、30億の仕事をとったんだ!」というような面白くもない武勇伝を息子に語っても、それっきりになるだろう。しかし、「俺は山奥で巨人を戦ったぞ!」というような話は子から子へ語り継いでもらえるのではないか。そういって語り継がれていく限り、自分は生き続けることができる、という。

確かに、自分の創作したお話が後世に語り継がれれば、自分という存在がいつまでも残っていく気がします。

が、ただ、ただ一点。【※但し面白い話に限る】と言い添えたい。

ぶっちゃけ、エドワードの話はあんまり面白くないんですよね~。本人は、オチを言う前に自分が吹き出してしまうくらい面白い話だと思っているようですが(てか、そういう話し方も素人っぽくてよくない)、読者としては、新人賞の審査員のように「キャラクターの作りこみが雑で、展開がワンパターンです。また、話に広がりもありません。もう一度設定とプロットを練り直しましょう」と突き返してやりたいレベルの代物で、どっちにしろ語り継ぐ気も起きない気がするんだけど。。。

またある時、神を信じるかと父に聞いたウィリアムは、話をはぐらかしておとぎ話をされ、イライラします。父の言い分としては、「イエスかノーかなんて日によって変わるものだ。それよりも、お話のほうが価値があるのではないか」と。そうして、100回くらい聞かせた鉄板ネタをせき込みながら言い、(苦笑)ってなる息子。

 

ウィリアムとエドワードの関係は、ドラマでよく見る父と息子の関係です。息子が成長するにつれて互いのプライドがぶつかり、ぎくしゃくしてくる、という。私から見ると、ウィリアムに共感を超えて同情してしまいます。

例えばこういう言葉。

「父はカメのような人間。感情を甲羅にして身にまとい、防御は完璧でどうやっても入り込むすきはない。せめて最期くらい、無防備でやわらかな下腹を見せてくれてもいいと思うのだが」

ほんとだよ、ほんと!

ホラ話ばかりをしているのはいい、それがぜんっぜん面白くないのも100歩譲ろう、しかし、それ以外にまともに自分の話をしないのはダメじゃないか!と説教したくなる。それっぽいこと言ってはぐらかしているけど、自分のことで手いっぱいで、全然家族を大切にしていないんですよね。

 

ただ、家族以外にはものすごい愛想はいいようで。

エドワードの回想によると、彼はスペクターという小さな町をまるごと購入したと言っています。こういう素敵な町がいつまでも残ってほしいという思いで、まわりの土地や小さな商店まで全て購入したと。そして、「所有者が変わるだけでだ。いままでと変わらない生活をしていい」と悪徳業者みたいなことを言って彼らに取り入っていたそうです。もちろん悪意はなく、スペクターを息抜きの場所として愛しただけのようですが。

まぁ、これはかなり盛っているでしょうね。プール付きの家を所有するような男でも、さすがに資産家の子とかでなければ、町いっこ買うのは難しい。さしづめ、時々遊びに行って金を落とす羽振りのいい男というところでしょう。スペクターの住民はエドワードをこういう風に評価します。

「私たちは彼の一部、彼の人生そのもので、彼もまた私たちの一部にほかならない」

彼との交流は私たちにとってすごく価値あるものだし、彼も私たちとの交流によって満たされていた、ということ。

いるよね。こういう、憎めないおっちゃん。時々遊びに来て面白(くな)いホラ話聞かせて帰っていく金持ちのおっちゃんなんて、いいじゃん。いいことしかない。「いやー、話面白いっすね!やばいっす!明日腹筋やばい!」とか言っておけばいいんだから。ただ、「娘さんを僕にください」とか、「一週間お宅にお世話になっていいですか?」には全力でノーって言うけど。うっすーーーい関係ならWELCOME!

 

友人にするには特に問題のないエドワードは、恋人や家族として深く長く、良好な関係を築くには骨が折れる相手。自分の置かれた現実を認められず、夢ばかり見ている現実逃避野郎なのですから。

その証拠に、スペクターに置いてきた情婦(不倫相手)は不幸になります。

20になったばかりの娘に手を出して(今話題のアレか!)、セカンドハウスを用意し住まわせますが、幸せだったのも最初だけ、しまいに娘は心労のためやせ衰え、愛らしいポーチが自慢だったセカンドハウスも蔦だらけのお化け屋敷に。そして出窓から見えるのは、エドワードが来たかしら?と目を光らせる20代には見えない女。不倫相手すら幸せにできないとか終わってる。

しかも不倫の理由、聞きます??

「愛には限界があった。ひとりのときはたしかに孤独だが、それをしのぐ寂しさを、大勢の人間に囲まれ、休みなしにあれこれ要求されると感じることがある。息抜きが必要だった」

お!フラリーマンの言いぐさ、キター!

会社でもアレコレ言われ、家に帰っても小さい息子と妻がアレコレ言ってくる。疲れた俺!ってことでしょうね。妻だって子育てで疲れてたと思うけど…

 

話があっちこっちにいきましたが…ここらへんでまとめ

前提として、エドワードが試みた「嘘であっても、美しい物語で自分の人生を彩り、その鮮やかさそのまま語り継いでいけたとすれば、自分の人生は今よりも高い次元に昇華できる」という試みの意図は理解し、やや共感しました。「もっと他の人生があったなぁ」と思って生きている人が多いのは事実ですから。

ただ、それを実現できるかは別の話だし、エドワードについては失敗だと思います。話の面白さ云々は読者次第として、どんなに彩っても所詮はメッキだなぁと感じる話しか生まれてこなかった。人は結局、自分が経験した事柄からしか物語を作れないし、大切にするべき家族をないがしろにする人は、家族を大切にする話は作れない。

それが顕著にわかるのは、上記の、不倫の理由のところです。読者としては、本音ダダ洩れですよー!妻にそれ聞かせるんですか?ってなるわけ。そういうところこそ粉飾決算でしょう。「家族には会いたかったけど、倒すべき悪の巣窟がスペクターにあって、毎度毎度呼び出されていた。実は家族を守るために世界を守ってたんだ」とか言えばいい。どんな面白いおとぎ話を語ろうが、「正直家族の存在がうっとおしかった」って本音を言っちゃうストーリーテラーは、ストーリーテラーとしても、父親としても失格では。

 

と、「セバスチャン~」や映画のクオリティを期待していたのでちょっと期待外れで消化不良。

実は、訳者あとがきに「可笑しくて悲しくて、切なくて愉快。そうした要素が溶け合って理屈では説明できない何かが、たしかに、読み終えたあとに大きくふわりと広がっていく感じがする」って書いてあったんですよ!

あーこれ、面白くない本の感想ってだいたいこういう風に書くよな、って。

「説明できない」とか「ふわりと」のあたり特に…やっぱりあんまり面白くなかったんかな…なんて勝手に仲間意識w(ごめんなさい)

若輩者がこういうことをコメントするのは失礼ですが、著者の言いたいことが熟しきっていない感じがあったんですよね。対して、次の作品、「西瓜王」は著者の想いが熟していて、含蓄に富んだ人生哲学に満ち満ちています。言葉選びのセンスがいいんだよ~ほんと。

 

とりあえずここらへんで、

おわり

 

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