はらぺこあおむしのぼうけん

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人に好かれたい、人に認められたいという根源的な欲望からは絶対に逃げられない 佐藤多佳子「しゃべれども しゃべれども」

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願いします。

 

2020年1冊目。佐藤多佳子「しゃべれども しゃべれども」。落語家が主人公の話です。以前、「昭和元禄落語心中」っていうアニメを見て、面白い!って思っていたので、丁度良かったです。

平成9年の作品なんですが、ワープロ(!!)とかいう言葉が出てきて、時代を感じました。なんていうか、電気も通ってなくて、もちろん電話もLINEもなくて幌付き馬車を呼んだりしている時代の古典作品には古さを感じないけど、20年前とか、おぼろげな記憶のある時代の作品ってすげー古臭く感じてしまう。昔の作品を引っ張り出して読んでいるのはこっちなのに、勝手なものです。

しゃべれどもしゃべれども (新潮文庫)

主人公は今昔亭三つ葉という落語家。前座と真打の間の二つ目と呼ばれる立ち位置で、25を過ぎたくらい。吃音に悩むイトコの良から「話し方を教えて!!だって達ちゃん(本名)落語家でしょ!!」と懇願され落語を教えることに。直情型美女の十河、意地っ張り小学生村林、あがり症で頑固な野球解説者湯河原も加わり、互いに喧嘩しながらも交流を深めていきます。

時は平成一桁台。庶民の娯楽はテレビに移り、落語自体が廃れてきました。一町に一つはあった寄席もなくなり、落語家も減っていく。三つ葉は二つ目に上がって5年。師匠に「型から抜けられない」と指摘されて以来、練習すればするほど下手になりスランプ真っただ中。また、江戸時代から話し継がれている古典落語へのこだわりが強すぎ、最近の客にウケず悩んでいます。江戸の話をしようとすると、江戸独特の言葉の講釈を垂れなければならず、そうすると場も白け、客にウケない。対して、自分の師匠と古典VS新作で袂を分かった落語家は、テレビにラジオに引っ張りだこ。金もない、将来も見えない、好きな女にもフラれる。三つ葉の私生活も散々です。

と、ここまで書いて、ストーリーは皆さんが想像したものから大きく外れることはないでしょう。三つ葉と、しゃべりに問題を抱える4人との交流の中で皆、モヤモヤした感情に折り合いをつけ、前を向くようになります。読後感は爽やかで恋愛要素も含みますが、ありがちでさらっときれいにまとまりすぎていて、それこそ、「お後がよろしいようで」とにやりとされた気分であります。

 

今回は、大切な大切な「自己肯定感」のお話。

こういう表現があります。

「自信っていったい何だろう。何より肝心なのは、自分で自分を”良し”と納得することかもしれない。”良し”の度が過ぎるとナルシシズムに陥り、”良し”が足りないとコンプレックスにさいなまれる。だが、それが適度に配合された人間がいるわけがなく、たいていはうぬぼれたり、いじけたり、ぎくしゃくとみっともなく日々を生きている」

解説にも引用されているくらい、物語の肝となる部分です。この言葉に刺される人はたくさんいるのではないでしょうか。

ここで、遅まきながら、物語に出てくる「しゃべりに問題を抱えている4人」を紹介します。

まず、イトコの良。吃音のせいでいじめられていましたが、中学校でテニス部に入り活躍したことでそんな日々から脱し、大学卒業後はテニスコーチになりたいと思うくらい充実していました。しかし、テニス教室内のトラブルをうまくかわせなかったことで、もともとの心配性がひょっこり顔を出し、吃音がひどくなりました。

次に、直情型美女の十河。劇団に所属し、才能ある脚本家wの彼氏のもとで主役を張っていましたが、演技がダイコンと笑われ、「お前と一緒にいてもつまらん」と劇団員の前で馬鹿にされたことで決別。以来、人と関わるのが怖くなりました。

意地っ張り小学生の村林は、大阪から東京に転校してきたばかり。クラスのガキ大将に目を付けられ、何かにつけて馬鹿にされています。ガキ大将はスポーツ万能で成績もよく抜け目ないタイプ。負けん気が強い村本は挑発的な態度をとり続け、何かで大勝し鼻を明かせてやりたいと思っていますが、うまくいかず、クラスメイトもよそよそしい。

最後、野球解説者の湯河原。いろんな球団で代打として成績を残してきました。引退後は野球解説に呼ばれますが、しゃべりのテンポが悪くそろそろ干されそう…

”良し”とされるものは不変ではありません。4人はそれぞれ、以前の環境では何らかの定規で”良し”の領域にありましたが、環境が変わり、今まで持っていた”良し”の定規が取り上げられてしまったのです。仕方がないので、また改めて新しい定規を見つけ、自分で自分を”良し”と認めてみようとしました。しかし、世間一般のいろんな定規を自分をに合わせてみたところで、どんな定規においても自分は”良し”の領域にないのでは?と思い込み、自信を失ってしまったのです。人は、足しても引いても自分以外のものにはなれません。自分が持っているものを大切に磨き、他者のものと比べて進化させようとしています。しかしふと思い当たる。自分が大切にしてきたものは、他人にとってはガラクタなんじゃないか、と。そして心がぽっきり折れてしまう。

子育てしていると、「子どもの自己肯定感を高める~」って言葉をよく目にしますが、心地よく生きていく上で最も大切で、得難いものが自己肯定感。ほんと、どこかに売っていないものか…

 

また、話下手の根っこには、自己肯定感の欠如に加えて、人に好かれたいという怯えがあります。口は災いの元を地でいく三つ葉には、うまく話せない4人の気持ちが理解できていませんでした。しかし、好きな女性を前にしてモゴモゴしてしまった時、目の前の相手に認められたい、好かれたいという気持ちがあると、人は言うべきことを言えなかったり、言ってはいけないことをつい言ってしまう生き物なのだと気付いたのです。

じゃあ、嫌われることもいとわず思ったことを言えよと言ってしまえば簡単だけど、それができないから悩んでいるわけで…。世の中には「人に嫌われても構わないと思う」や、「バカは相手にしない」というような言説であふれていますが、個人的にはちょっと違和感。もともと人に好かれたいと思っていたが、大事な場面では嫌われる覚悟を持って行動する必要があると気付いた「嫌われる勇気」と、人を傷つけることも構わず散々無配慮な方言をしてきた人間が、開き直るよりどころとしての「嫌われる勇気」は全然違うものだし、さらに悪いことに、後者のほうが声がでかいからすごーく微妙な気持ちになるんですね。

印象的なシーンがあります。ガキ大将に落語を披露して、びっくりさせてやりたいといった村林に、良以外の大人は好意的でした。しかし良は「ガキ大将を挑発するな。こういうタイプは、何かの折に負けて見せて花を持たせてやれば、それで良しとして攻撃対象から外してくれるんだ。わざわざ勝つ必要はない。短期間ならまだしも、毎日毎日イジメられるのは本当に辛いことなんだ」と言って反対します。すごく現実的な意見。私はこちらに頷いてしまいました。人との争いを避けることも、立派な生きる知恵なんですよね。

人は一人では生きられない以上、好かれたい(少なくとも、摩擦を避けて心地よく過ごしたい)というのは根源的な欲求であり、本能であり、避けては通れないものであって、もちろん誰にも好かれる必要なないけれど、「嫌われる~」とか「バカとは~」を、人を傷つけることを正当化したり人間関係を少しでも良くしようともがくことを否定する論拠とするのも違うなぁと感じるんですね。ぶっちゃけ、「バカなんかとは付き合わねぇよ」と言えちゃう人は、自己肯定感がめちゃくちゃ高いか、最早ヤケクソなのではw というか、「バカとは付き合わないための本」みたいなのを手にできる人は、その「バカ」に自分が当てはまっている可能性は毛ほども意識していなくて、すげぇなって思うんです(棒読み)

 

話がそれましたが、結論から言ってしまうと、「自己肯定感の欠如」、そして、「人に好かれたいという怯え」この根本的な問題が、物語の中で解決を見ることはありません。一時的に”良し”よ思えるような出来事が起きることで、少しだけ自信を回復した彼らではありましたが、正直、一年も経たないうちに似たような問題を抱えてのたうち回るのではないかと感じました。もちろん、彼らの人生に幸あれとは思っているけど…。悩み続けることこそ人生というような、まぁ、無責任な終わり方なのよね(褒めています。逆にわーっと片付けられてしまったら残念)。

 

落語家を主人公に据えるだけあって、語り口が軽妙で面白い。例えば、「ついたあだ名は坊ちゃんだった。もちろん良家の子息ではない~」とか、夏目漱石ぽい。

正月だし?景気よく江戸前落語の話をぜひ。

 

おわり。

 

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