はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

闘病をテーマにしたものでこれを超える映画にはなかなか出会えない 映画「マイベストフレンド」

こんにちは。

原題「Miss you already」。邦題は「マイベストフレンド」です。

乳がんとの闘いをテーマにした作品ですが、演技も構成も、闘病ものとしては一級品の出来。Miss you alreadyは別れ際の挨拶で「まだ一緒にいたいわ」という感じかな。個人的に原題がかなり気に入っております。

 

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さて、主人公はジェス。そして親友のミリー。彼らは小学校からの親友同士。ジェスは普通の家庭で育った普通の女の子。読書家で、どちらかというと地味。ミリーは母親が大女優。きれいなブロンドヘアー。自分大好きです。ジェスとミリーは真反対な性格。ミリーは見るからに敵が多そうで、ミリーのわがままでジェスをさんざん振り回してきたんだろうなぁというのが想像できます。

ファーストキスも同じ日に(同じ相手と!)、ミリーの初セックスにはジェスが立ち会う(!!!)など二人は仲良し。ミリーは早々にバンドマンとデキ婚し、一男一女をもうけています。旦那は会社を立ち上げ、ミリーは大企業の広報部でバリバリ働くなど、絵に描いた裕福な幸せ家庭。ジェスは炭鉱夫?と結婚し環境保全NPO?的なもので働いていて、なかなか子宝に恵まれない。ミリーはいつでもジェスの先を行っているし、客観的に見てミリーのほうが幸せ。ミリーもそれを自覚している一面があり、この二人の関係は、対等というよりは、破天荒なミリーにジェスが付き合わされている部分もある気がします。ジェスは心が広いしなんだかんだ言ってミリーが好きなので、楽しくやっていました。

そんなときミリーに乳がんが発覚します。抗がん剤による容姿の変化と、乳房切除によって落ち込むミリー。順風満帆な人生を送ってきたミリーが初めてぶつかる壁。しかも、自分が最もこだわってきた「見た目の美しさ」が失われていく。自信を失うミリーと、それに寄り添おうとするジェス。そんな中、ジェスの妊娠が発覚し…

 

大きいテーマや教訓はありません。ただ、癌との闘いを扱った作品としてとにかくリアルで素晴らしい。告知、再発のタイミング、ミリーの取り乱し方、受け入れ方、周囲の反応、すべてが自然。闘病ものにありがちの、衰弱しているはずなのに瑞々しく美しい患者や、癌だとわかったとたん優しく懐深くすべてを受け入れてくれる夫や友人。未就学児のくせに癌や死を理解しているような顔をしている子ども。そんな浮世離れした奴らは出てきませんし、「みんな...あ…りが…と…」などとわざとらしく絶命もしません。

幼いころから確執があった母親は、乳房再建や乳房切除が分かりにくいブラジャーの調達に熱心。夫は優しく接していますが、裏ではミリー公認で浮気中。息子は病気のことをどれだけわかっているんだか、母親の神経を逆なでするようなことばっかり。そんな中、ジェスはミリーを受け入れています。もともと懐が深い女性なんでしょう。ただ、ミリーの再発と同時に発覚した妊娠をなかなか伝えられない。余命を告知されて荒れていくミリー。今までならいくらでも付き合ってあげられましたが、妊娠中の体では無理もできない、したくない。

 

闘病は2時間の映画ではまとめられません。周りの無理解に苦しんだり、周りも緊張の糸が途切れ、患者を疎ましく感じる時もある。「私は患者なのよ!」と何度もキレるミリー。闘病とはきれいなものではなくて、人間のむき出しの感情がぶつかりあうものかもしれません。闘病により夫婦の絆が深まったわけでも、忘れかけていたものに気付いたわけでもない。価値観ががらっと変わったわけでもない。ただ、大切なものを失っただけ。

 

そういう闘病そのものを描いた作品として、これを超えるものはなかなかないのでは、と感じました。りにかくミリー役の女優魂が素晴らしい。どんどんやつれていく姿に、ここまでやるか!と衝撃を受けました。

 

親友っていいな。

おわり。

安酒と煙草と無駄にした日々と 村上柴田翻訳堂「卵を産めない郭公」

こんにちは。
昨日のYAに関連して、大人への第一歩を踏み出す男の子の話。新潮文庫が、村上柴田翻訳堂という新訳・復刊の取り組みをしていまして、そのうちの一作です。訳は村上春樹。ハルキスト必読の著です。

卵を産めない郭公 (新潮文庫)

舞台は60年代アメリカのカレッジ。シェリーという生真面目でおとなしい男子が、プーキーという天真爛漫な女の子に振り回されながら恋らしきものをしていくという話。プーキーがぶっ飛びすぎて、シェリーが頭から血だらけになるような大怪我を負ったり、しまいには自殺未遂まで。シェリーの母親だったら「そんな娘と付き合うなら学費出さんぞ!!!勘当だ!」とぶちギレるレベルです。
シェリーとプーキーはもちろん生涯を共にするパートナーにはなり得ません。長い長い人生で、一瞬だけわかり合えたその時を克明に記録した小説と言いましょうか。

この恋、シェリーとしては初恋にあたりますが、シェリーが後年このことを思い出したときに、付き合った人数にカウントすることはないと思います。どちらかというと蓋をしたい過去に含まれるのかもしれません。正直、読後感とか読んでる途中の気分もいいものではない。逆をいうと、それくらいこの小説が、ひとつの恋をだらっだらと汚い部分まで暴き出しているんですね。

この本、新品の綺麗な本でなくて、汚くて色褪せて、なんかよくわからない飲み物が染み込んだペーパーバックで読みたい。煙草の臭いがして、ところどころ折れたり破れたりしている。もはや好きな本が並んでいる本棚に並べておくのも微妙だし、読み返すかどうかもわからない。でも、自分の読書経験の中でなぜか心に引っ掛かっている、時々思い出す、そういう本です。そして、シェリーにとってプーキーとの恋は、そんな汚い本みたいな経験です。

プーキーはヒステリックだし破天荒だし、シェリーもイライラするんです。ただ、はじめてのセックスのときに、よく分からずまごまごしているシェリーに「早くしろよ」みたいなことを言わないで平気な顔をしていてくれる。そういう、ジャイアンが消ゴム拾ってくれるようなギャップにやられてしまうシェリー。

シェリーとプーキーは一生わかり合えない人。教会にいって文句垂れるくせに、ちゃっかりそこで配られる施しは受けてくる。そういうプーキーの図々しさがシェリーにとっては我慢なりません。シェリーの大切な友達に対するプーキーの態度も、げっ、てなる。二人が別れた朝、シェリーはなんとなく肩の荷がおりた気がするんです。

という、たいした教訓もない話なんですが、ダメな恋愛って大抵こういうパターンなんです。なんでこう、青春ってしょうもない思い出で満ちてるんだろう。懐かしく、そして、苦々しい気持ちになる作品。でもなんか、癖になるというかなかなか忘れられない。ハルキストは絶対好きだと思いますよコレ。

おわり。

すっかり忘れていた高校生の思考回路を思い出す ヤングアダルト小説「エブリデイ」

こんにちは。
ご紹介するのは、ヤングアダルト小説「エブリデイ」です。

ヤングアダルト(YA)小説っていうジャンル知ってましたか? 私は実はこれを読むまで知らなかったのですが、図書館にもYAコーナーができていて、冒険譚やファンタジーばかりの児童書でもなく、疲れ切った大人の愚痴を並べた大人向け小説でもない、あと一歩で大人という中高生向けの小説です。子ども向けといいますがなかなかあなどれない。何を持っていなさそうで実はすべてを手にしているあの懐かしい日々が思い出される、大人が読んでも興味深い。

 

エヴリデイ (Sunnyside Books)

 

主人公はA。彼は生まれつき特殊な環境に置かれています。それは、毎日誰かの体を生きること。自分の肉体はなく、魂だけ。便宜上Aと自称しています。体を借りれるのは、限られた場所にいる同い年の人だけ。なので、「彼は一昨日体を借りた人だなー」と結構狭いコミュニティの中にいます。同じ人には二度とならない。貸し主は、体を乗っ取られたはっきりした記憶はなく、なんかぼんやりした記憶が残る。

 

あるときAは、ジャスティンという男子として過ごします。ジャスティンにはリアノンという、ザ優等生的な彼女がいる。ジャスティンはリアノンのことを大して好きではないんですね。どちらかというとうざいと思っている。でもまぁ、好きな時にセックスできるし、ジャスティンにぞっこんなリアノンは言うことはなんでも聞くので付き合いは続けています。Aはジャスティンとして過ごした一日で、リアノンのことが好きになります。毎日体が変わってしまうわけですから、恋なんて感情を持たないように努めていましたが、気持ちの高ぶりは止められない。リアノンに全てを話し、自分の気持ちも伝えます。

 

一昔前なら、毎日他人の体を生きる男は、日記なんてものを持てませんし、リアノンと連絡も取れない。しかし今はグーグルがある!毎日グーグルメールで日記を書き、自分宛に送ることで、彼は自分として生きてきた記録を残しています。そしてリアノンに事情を話した後は、グーグルメールで、「今日は男だよ」とか「今日は親厳しいから連絡取れないかも」とやり取りするんですね。

リアノンに恋をする前Aは、貸し主の人生に何の影響も与えないように、そして、自分の生きてきた痕跡をできるだけ残さないように生きていました。しかしリアノンと出会ってからは違う。朝起きた瞬間から今日はどうやってリアノンに会おうかと考える。次第にリアノンもAのことが好きになります。二人が付き合い?はじめてから少し経った後、私たちの関係どうするの?とリアノンに問いかけられるA。毎日住む体を変えている男とは普通の人生を歩むことはできません。でも、ひと時の恋では終わらせたくない。何か形を残したい。そんなときAと同じ運命の男と出会い、実は貸し主の体を乗っ取れるかもしれない、という可能性を見つけます。彼らの選択はいかに?

 

私はティーンエイジャーではないですから、正直「今一歩覚悟が足りないなぁ」と思いました。特にA、覚悟が足りない。Aはリアノンが好き。愛している。かといって、自分の運命を持て余し、何をどうしたらいいのかわからないんです。リアノンを傷つけるのも怖い、自分が傷つくのも怖い。自分から猛烈アプローチした割には、いろんなことに及び腰なんです。おばちゃんは、しっかりしろとイライラしてきますw

例えば、リアノンと二人きりになるシーン。その時Aは童貞ボーイの体の中にいました。やっとセックスができる!そんなチャンスの時Aは「やっぱやめておこう。彼(貸し主)は童貞なんだから、こんな形で初めてを奪ってしまってはいけない」とか言ってやめるんです。こんなチャンス二度とないかもしれないのに、踏み込めない。リアノンなんて、毎日のように違う男とデートして授業さぼりまくって、友人からはビッチ扱いされて完全にドン引きされてるんですよ。それでも好きだからAに会っているのに。好きな女にそこまでさせて、なんでお前は、自分のルールも罪の意識も捨てられねぇんだよ、と。いつ会えなくなるかわからないんだ。地獄に道連れにするつもりで愛してやれ。それがお前が去った後のリアノンの一生の思い出になるんだよ、と。

ただ、二人の選択も含めて、これが等身大の高校生の愛なんですよね。地獄に連れて行くつもりで愛すのではなく、曇りのない未来を残してあげる、という愛。私が思い描いた結末にしてしまったら、劣化版世にも奇妙な物語で終わってしまうような。

 

大人から見て高校生は、時間も夢も可能性もあふれている幸せな存在ですが、思い返してみると金ないし、門限はあるし、家計簿を見ている母親に地元の国立大学に行きなさいねとか言われたりして抑圧されている。そもそももっと遊びたいし視野も広げたいし、私にはどんな未来があるんだろう。と、心の中では将来への期待が8割くらいを占めているんです。念頭には「まっしろな将来」がある。Aが弱気になってしまうのは、リアノンが伸びしろしかない存在だからです。リアノンの将来を気にかけている。

大人が将来を思うとすれば、もはや子どもの教育資金と老後資金の貯蓄程度のものですから、もうこれ以上ないという愛に出会ったら飛びついて悔いを残さないように愛し合うものですが、そういうわけにはいかない。だって高校生だから。

と、初読で感動。そして、どうしてこういう結末になったんだろうと熟考の結果、すっかり忘れていた高校生の思考回路を思い出して二度感動してしまいました。

 

そんなリアノン、Aがイケメンに憑依しているときと、デブ男に憑依しているときとあからさまに態度が違うんです。そういうのも含めて、高校生らしいなぁと面白かったお話でした。

 

おわり。

実は世界の100冊にも選ばれている 川端康成「山の音」

こんにちは。
今日は古典の日です。
川端康成「山の音」

山の音 (新潮文庫)

川端康成作品の中でも実はかなり評価が高い本作品。テーマは「日本古来の悲しみ」と明言されております。

自営業の信吾は、妻の保子、息子の修一、その妻の菊子と同居中。修一は不倫しており、夫婦仲はぎくしゃく。そんな中、娘の房子まで出戻ってくる。
信吾は、菊子がわざと自分に甘えていること、そして、それを保子と房子がよく思ってないことを知っています。そして、修一が親と同居することに気詰まりしていることにも気づいています。信吾は修一夫婦に別居を提案してみるが、なかなかうまく進まない。

戦後の日本。家族同居というパターンばかりではなく、核家族という選択肢も生まれつつあった時代ですが、作品中の言葉で言うと「ずるずるべったり」な関係が続いてしまう。一般的には年寄りが同居に固執しますが、家族の問題の解決を別居に求めた信吾は、当時にしてはなかなか新しい考えを持っていた年寄り。

なんで別居しないかって、お金の問題とかでもないんです。ただ、「同居が普通だから」「同居ってこんなもんでしょ?」みたいな空気が流れている家では、「別居?なんでわざわざ?」となるわけです。
ここら辺は今と価値観が全く違いますね。
とにかく、読んでいるとイライラするんです。核家族で育ち、核家族を気づいた身としては、そんなことうじうじうじうじ悩んでるくらいなら離れろや。ってなる。裏では悪口言いながら、仲良しアピールしてる女みたいな感じなんです。

川端康成の作品は、女の嫌なところを根拠コミコミで書いてくれることが個人的に好み。男から見て女の不可解なところを「女ってこういう行動するよね、ムカつきませんか?」つらつら書くんじゃなくて、女目線で女の行動を観察しているところがすごいです。男なのに。

個人的には、出戻り房子うっっっざw
家族と言えど他人同士。だけど、気になるものはしょうがない。昔はこういうことが、どの家でもあったのでしょうね。「菊子が妊娠したのではないか」「房子が昨夜泣いていた」「修一が昨日泥酔して帰ってきた」こんな筒抜けな感じ、無理無理無理無理!!!

文章、特に会話がいい。ある家の出来事を野次馬根性で見守る感じ。じっくり、読ませる作品でした。

おわり。

安部公房テイスト。お隣の部屋を覗く話 アンリ・バビュルス「地獄」

こんにちは。
絶版で入手困難なこちら。
個人的にはドラマ化してほしいくらい面白かった本です。
江戸川乱歩とか安部公房とか好きな人は絶対はまるやつ。


地獄 (岩波文庫 赤 561-1)

下宿宿でお隣の部屋を覗き見する話。
これだけで変な妄想をするにはもってこいの題材でしょう?

パリで働くことになった「ぼく」は、家が決まるまで下宿宿に泊まることにしたが、壁に小さな穴が空いていて、隣が覗けることがわかる。ぼくは、仕事に関する手続きをそっちのけで「のぞき」に夢中になる。

隣の部屋では、不倫の密会から、12,3歳の男女の初体験、出産、死など、様々なドラマが繰り広げられる。ひとつの小さな穴から覗いているにしては、おお、描写が丁寧じゃねーか、絶対他のところにも隠しカメラあるんだろ、とはなるんですが、そこはおいといて。枠小説的な一面もあり、それぞれのお隣さんの物語そのものも面白い。

そして、「のぞき」にドはまりする「ぼく」。最後にはとんでもないことに。その辺の描写は安部公房砂の女を彷彿とさせます。
お隣さんのいろんなドラマに胸打たれつつ、「ぼく」の異常な心理状態につられて自分も興奮します。
誰か!ドラマ化して!その前に再版して~!
埋もれた名作だと思います。

タイトル。なんで「地獄」かなぁ。と思いながら読んでいるのですが、ひとつに、部屋を覗く、人の人生を上から見下ろす、という「神の目」に掛けているのと、あとは単純に人生は地獄だ、ということも言っているのかと思います。

人は元来孤独であり、どれだけ近づいても他人と一体化することはできない。人は自分の持っていないものを望み、叶えられないまま一生を終えていく。一緒にいる男女も、結局別なことを考えている。幸せに生きていくのって難しい!そういうことを伝えたかったのだと。

愛とは、神とは、と、いろいろな問答が繰り広げられる。哲学的に考える本としても名著です。

おわり。

自分の犯した間違いの結果を引き受けていく勇気 早川書房「海を照らす光」

こんにちは。

早川書房の「海を照らす光」2016年に映画化されました。

 

灯台守であるトムと彼を取り巻く人々の数十年に亘る物語です。無学な私は、灯台守なんていう職業を初めて知りました。無人島に家族で住み、灯台の光を灯し続ける仕事だそう。なにそれ私やりたい!最高じゃん!と思いましたが、今は灯台は自動化されているそうです。残念でした。

 

海を照らす光 (上) (ハヤカワepi文庫)

 

 

舞台は第二次世界大戦後のオーストラリア。ヤヌス島の灯台守であるトムは、妻イザベルと二人きりで暮らしています。トムとイザベルは子どもを望んでいましたが、イザベルは3度の流産・死産を経験し失意の底に。イザベルが男の子を死産した数週間後、小さなボートが流されてきます。ボートには男の死体と、泣きわめく2ヶ月くらいの赤ちゃん。イザベルはこの子を自分の手元に置いておきたいとトムに懇願します。二人は、この事件を本土に知らせることなく、自分たちの子どもとして育てることに。ルーシーと名付けられた女の子はすくすくと育ち、二人は自分たちの犯した罪を忘れかけますが、ルーシーが3歳の頃、事件の真相を知ります。子を失った母親ハナを見て罪の意識に苦しむトム。そして事実が明るみに出て…

 

ヤヌスというのは神話に出てくる前後に頭がある生き物のことで、小説内ではヤヌスに絡めて、光と闇、罪と赦しなど相反する二つのテーマが鮮やかに対比されているようです。これについては解説が素晴らしいので割愛します。

 

私が一番印象に残ったのは、母親の覚悟、そして周囲の温度差。

本作品では、様々な人間の生々しい感情が丁寧に描かれます。これでもかと神様は試練を与える。どういう結末でもハッピーエンドにならないんだよな、と暗くなる。ルーシーの苦しみは8日目の蝉を思い出させます。誰の苦しみも痛いほど伝わってきます。が、一番共感できないのはお前だトム。「事件が明るみに出て…」と勿体ぶりましたが、トムが罪の意識に苛まれて余計なことをしてしまったことが原因です。

娘を奪われたイザベルはトムをなじり、イザベルの父母もいきなり孫娘がいなくなったこと、娘が夫からひどい裏切りを受けたことが受け入れられず困惑します。もちろん悪いのはイザベルなんです。しかし彼女は子どもを自分のものにすると決めてからは腹を括っています。自分がルーシーを幸せにすると。娘が悪いことをしたっていうのに、イザベルの母も、「自分の下した決定のままに生きていくべきだ。勇気とは、自分の犯した間違いの結果を受け入れ生きていくことだ」と主張し、最悪のタイミングで罪を暴露したトムを批判。グレースと名付け愛した娘がルーシーと名を変えて自分のこともすっかり忘れて戻ってきたハナは、娘を取り戻すために必死で半狂乱の体に。

母親は子のことしか考えていない。規則も法律も倫理も無視なんです。しかしトムは「罪が!」とか「俺は戦争の罪が!!!」とか言い始め、イザベル父は「娘の罪を軽くしたいなぁ」と上の空、ハナの妹は「お姉ちゃん頭おかしい。ルーシーはイザベルの元に返せば?」とか言い出します。

母親って孤独…と母親に共感してしまいました。結構突っ走っている感じに書かれているけれど、いや母親ってそういうもんだろと思うのです。

 

罪がどうとかわからない、赦すって何かもよくわからない。でも、トムの行動には私は納得できないんですね。よく、不倫の事実は墓場まで持っていけという人がいますが、私もそういう派。お前の罪は他人には関係ないんだから、他人様に苦しみを負わせてんじゃねぇと思うんです。楽になっているのはお前だけだぞ。一人で苦しめと。

 

大きく取り上げられてはいなかったのですが、個人的にはトムの父母の話、ハナの父親ポッツ老人の苦しみが印象的でした。読む人の立場によって感情移入できる人が変わると思われます。若いときに出会っていれば、もう少し罪と赦しについて考えられた気がしますが、母になった今は、イザベルとハナに心揺さぶられすぎてなにも入ってこないw という意味で、若いときに読めていたらなぁと思わざるを得ない作品でした。


おわり。

親子は必ず分かり合えるという幻想 映画「三月のライオン」

こんにちは。

今日紹介するのは、こちらの映画です「三月のライオン」

3月のライオン[前編]

 

原作はまだ続いているのですが、ある程度のところまで前後編にまとめてあります。後編はかなりオリジナルストーリー。

まずはこの映画、神木くんのコスプレ映画として見ても良いでしょう、というくらいファンサービスが過剰。原作ではもっさり系で黒いダッフルしか着ていなかった彼、映画の中では、オシャレな洋服だけでなく和服姿とバッチリキメています。配役はなかなかぴったりで、佐々木蔵之介の島田八段なんかは最高です。伊藤英明の後藤も良かった。

 

原作の内容をまとめると、高校生の零くんは、中学生デビューした天才棋士。彼は幼い頃事故で家族を亡くし、父の友人である幸田に引き取られました。幸田の家には同じく棋士を目指す香子、歩という姉弟がおり、才覚のあった零は彼らから疎まれます。養父は零にばかり目をかけるため、香子や歩は父とぎくしゃくします。養母も零を持て余し気味で、とにかく居心地の悪い幸田家。高校生になると同時に、彼はそんな家を飛び出し一人で暮らし始めます。人との関わりを拒絶しながら生きていく彼ですが、近所の三姉妹との出会いにより、少しずつ変わっていく零、というお話。

 

タイトルにもある通り、家族はわかり合える、わかり合わなければいけないという幻想にあふれた、ちょっと物申したい作品。こういうの、一部では毒親ポルノと呼ばれているらしく、複雑な親子関係で傷を持つ人をさらに傷つける作品でございます。

 

原作は、家族という枠にとらわれず、新しく自分の居場所を作る作品です。将棋以外には自分の居場所がなかった零。家族から距離を置き、様々な人と交わることで自分が居られる場所を必死で探していく。そういう作品。その中で、三姉妹が重要な役割を果たしていくんですね。血もつながっていない赤の他人だけれども、お互いに助け合い大切な存在となっていく。三姉妹も、ろくでもない父親がタカりにきたりと問題を抱えており、父をばっさり切り捨てることも、しかし愛することもできずに苦しんでいます。血のつながりがなくても、お互いにとってかけがえのない存在になれる、というのがテーマ。

しかし映画では、これでもかというくらい幸田家との絡みを出してきます。愛着障害ぎみで年上棋士と不倫中の香子、幸田父、原作ではほとんど登場しない歩、零は進んで彼らとの関係修復に心を砕く。そして三姉妹も父の登場に戸惑いますが、原作では「なんとか父と離れたい」前提で零に協力を仰いでいた彼女たちが、零が三姉妹と父を引き離そうと奮闘するシーンで、「零ちゃんは黙ってて。この人はクソだけど私たちのお父さんなんだよ!」と零を蚊帳の外に押しやります。

いやいやちょっとまって!逆だよ逆。結局家族との絆づくりの話になるわけ?と。

 

小さい頃に負ったいじめの傷は、長い時間が過ぎようが、加害者から謝られようが一生消えないということは広く理解されています。しかし、こと親子関係については、幼い子どもの心をずたぼろに傷つけても、いつか謝罪があれば、むしろ謝罪がなくても、家族であればいつでも過去の清算は可能である、子は進んで親の行為を許すべきであるという風潮があります。私はそれは違うと思う。親に負わされた傷は、いつまでたっても消えず、いつまでも当人を苦しめます。それでも家族がいいと思い関係を修復しようと努めるのも、翼をもがれる思いで家族から距離を置くのも、どちらも正解で、親子の仲は修復すべきという法もありません。

個人的には、親とはわかり合わないままで自分の居場所を作っていくというテーマの映画があってもいいなぁと思うのですが、それはあまり受け入れられないのでしょうか。

 

と、原作ファンにとっては残念な展開でした。

映像的にウケるからなのか、新人王決定戦では賭場にしか思えない場所でアウトローなオヤジに囲まれて将棋を指し、高校生棋士がいとも簡単にタイトルに手をかけるなど、そんなに詰め込まなくても…と思ったりしますが、そんなこを帳消しにするくらい神木くんは最高です。

二階堂は…いろんな意味で衝撃です。

 

あくまでも私の感想なので、原作ファンも原作を知らない方も、一度見てほしいなと思います。

 

おわり。