はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

自分が作り出した妄想の人物ですら、自分の人生を彩る存在だと考える 新潮クレスト「ディビザデロ通り」

こんにちは。

 

新潮クレスト「ディビザデロ通り」

結論から言うと、「人生はコラージュ。それまで出会ってきた人たちを抱えて人は生きている」というテーマの話です。連続短編集の趣で、前半はクレア、アンナ、クーペという三人の若者の半生が切れ切れに。後半は、クレアが研究していた小説家「リュシアン・セグーラ」という男の半生が短編で語られます。しかし、話にオチがなく、暗く、終わり方も中途半端で、何度も本をぶん投げたくなる。

著者は、「自分が出会ってきた人、彼らとの交わりを通して学んだことを、どんな小さいことでも全て抱えて生きている」ということを、このオチのない曖昧な話で伝えたい、というか体感させたいんだと思います。ので、「人生はコラージュ」ということに既に気付いている人は、特に読む必要がないような。。。あと、後述しますが、友達がたくさんいる人は大して共感できないと思います。

 

ディビザデロ通り (新潮クレスト・ブックス)

 

田舎の村の物語。ある男やもめの家に、アンナ、クレア、クーペという、3人の子がいました。男の妻は、アンナを出産した時に亡くなります。男はその病院で、同じように母を出産で失った女の子クレアを引き取りました。また、隣の農家で起きた殺人事件の際の生き残りである男の子クーペを育てています。

父の不器用な愛情を注いで育てられた3人の子。クーペは二人の女子よりもやや年上でしたし、男子ということもあって思春期を迎えて以降は近くの小屋で独り住まいをし始めました。独り住まいの男子と年頃の女子を放っておくとろくなことが起きないのは世の常で、クーペとアンナも体の関係を持ってしまいます。ある嵐の夜、その現場に乗り込んだ父はクーペを半殺しにしました。激高したアンナは殺意を持って、割れたガラスを父に刺してしまいます。それ以来、穏やかだった生活が一変。

クーペはもともと都会へ出たい志向が強かった男子なので、ギャンブルで生計を立ててるように。アンナは歴史学者になりました。クレアは弁護士事務所で調査員をして働いており、父のもとに顔を出すのは、クレアだけです。

アンナはあの嵐の夜のことをずっと消化できずにおり、出会う男性とも良好な関係を築けません。しかし、リュシアン・セグーラという男の人生を調べるようになり、少しずつ自分の人生とも向き合い始めます。

 

 

はじめにお伝えした通り、オチのなさと救いのなさと暗さと単調な毎日に眠くなってくる小説。私の人生のほうがもっとイキイキしてんぞ!と言いたくなるレベル。サスペンス好きの私は、クーペの家で起きた殺人事件に最も興味をそそられましたが、そこは本気でスルーされていました。

 

さて、「人生はコラージュ。それまで出会ってきた他人を何人も何人も抱えながら生きていく」、「生きるということは、他人という存在を自分に抱え込むこと」がテーマで、人に頼らず生きてきた人も、心のどこかで他人を求め、自分の中に他人を住まわせている。それが体感できる内容です。

「他人の存在を抱える」というのがミソですね。例えば、自分を今ある道に導いてくれた人だったり、辛い時期を一緒に過ごした友が自分の心の中に生きているというのは中学生でも知っているわけですが、ここで著者が言いたいのはもう少し踏み込んで、「自分が出会ってきた全員をぜーーーんぶ自分の心に住まわせている」というレベルです。

コラージュというよりは、モザイク絵に近いのかなと思います。1ピース1ピースは全然違う顔写真なのに、それを何百枚も並べて、遠くから見るとモナリザになったりするような、アレ。自分っていうものの成分をよーくみると、顔も名前も忘れてしまったような人で構成されている、という。

 

この教えを聞いてどう感じるかがポイント。

地味な子はこの言葉を聞いてこう感じるわけです。「あの子の中にも私はいるのかな?」と。友達100人できるかなを地でいっているような明るい子、中学の同級生で少し話しただけだけど、この言葉通りにいけば、彼女は私を抱えてくれているかもしれない、と。自分にとってはそんな彼女が、結構重要な部分のピースだったりするわけで…

私も考えてみました。中学の同級生で生徒会長だったあの子。実は高校も一緒だったけど、彼女が私を住まわせているなんて・・・・・・

うーん、ないな。

彼女のモザイク絵を拝める日が来たとして、目をこらして探しても私の顔はおそらくないでしょうね。たっくさんの人と関わってきた人は、キメが細かく輪郭もはっきりした素敵なモザイク絵が完成するのでしょうが、、、私が彼女の1ピースになっているというようなことは現実的な解釈ではありません。

 

 

対して私は。憧れの生徒会長のことはもちろん、小学生の頃に転校をした時、しばらく経ってから友達に、「覚えてるかな?」と手紙を書いて、「〇〇ちゃんのこと忘れるわけないじゃん!」と返事があった思い出とか、失恋した時になぜか横にいてくれた、今では連絡先すら知らない友だちとの思い出は、しっかり抱えているなぁと思います。

私はこういうプライスレスな思い出があんまり多くない人ですから、これは、目とか鼻とかめっちゃくちゃ重要なパーツですよ。あっちは私のことをとっくに忘れているだろうけど。

と、「自分が他人の存在を抱えて生きている」という面で考えるのは良いですが、「あの人私のこと抱えているかな?」ということを考え始めると、闇に落ちていくのでやめましょうね。

 

しかし、そんなあなたに朗報です。

自分を構成するパーツは、必ずしも実在の人間である必要はないとのこと。リュシアン・セグーラの話ですが、彼は自分の頭の中にある女性の人格を作りこみ、彼女の葛藤についてなんと三冊も本を出していたというのです。そして実生活のいざこざを抱えた彼は、彼女の存在に大いに助けられたといいます。

このエピソードには元気をもらいました。漫画でもドラマでも本でも、架空の人生を追体験して、泣いたり笑ったり。架空の人間の生きざまも取り込んで、自分を作っているのだと。架空の人物も自分を構成するパーツに含んでいいのなら、自分のモザイク絵の解像度も上がってきますね。8ビットを卒業できそうです。

と、こういう話でした。これ読んで、「あったりめぇだろ」と思う人には不要な小説かもしれません。

 

一つ文句言うと、父の扱いのひどさよ!

どう接してよいかわからない年頃の娘と心を開く気のない息子を男手一つで育て、娘の貞操をちゃらんぽらんな男に奪われ、挙句娘に殺されかけ、絶縁状態ですよ。彼の人生は「コラージュ」とか「モザイク絵…」とか言っている場合ではなくて、1つ1つのピース張るべき台紙ごとびりっびりにされるレベルで傷つけられていますが、それはスルーなのかな。

こういう、人生を立て直す希望すら奪われた人の存在を無視して、「人はコラージュです」と言われても、父の存在が気になり素直に頷けなかった次第であります。

 

解説によると作者は、「書く前に構想は練らない。決められたゴールに向かって書く小説はつまらない」というタイプらしいですが、超絶失礼なことを言うと、着地点くらいは決まっててもいんじゃね?なんて、思いました。

 

おわり。