はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

本ばかり読んでいても真の幸せは訪れない…か? 新潮クレスト「ソーネチカ」

こんにちは。

前回、「ほかの本も読んでみたい!」ということで終わっていたコレ、読みました。

 

 

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新潮クレスト「ソーネチカ」中編の中でもかなり短い部類。2時間もかからず読めますが、突き付けてくるテーマは重め。

ソーネチカ (新潮クレスト・ブックス)

 

本の虫で可愛くない娘ソーネチカが、画家の男ロベルトに見初められ結婚し娘ターニャをもうける。ターニャが大きくなり、ヤーシャという娘を連れてきたが、いつしかロベルトとヤーシャの関係が怪しくなり…。二人の関係に気付いてしまったソーネチカは、不幸な現実をどう受け止めるか。という話です。

 

ソーネチカと本。そして本は人間にとってどんな存在なのか。と考えされられる本。ソーネチカが本を求めるシーンが何度か出てきますが、それは彼女の不安定な精神状態を表す重要なサイン。

ソーネチカは姉と兄の3人兄弟の末っ子として生まれます。姉は美人ですが、ソーネチカはブス。巨乳であるものの体が貧相なので、すごくアンバランス。本人もそれを気にしていて常に猫背。友人も作らず、部屋にこもって本を読んでいるのが好きなソーネチカ。一度恋をしましたが手ひどくフラれ、ますます本にのめりこむようになります。現実と本の世界が曖昧になり、本の中の出来事に大号泣したり、本がないと生きていけない。大学の史学科に進み図書館で働き、それなり幸せに暮らしていました。結婚なんてはなからあきらめていたのですが、イケオジのロベルトに見初められ2週間で結婚。

家庭に入ったソーネチカはぱったりと本を読まなくなります。良い家に住むため、少しでも良い生活をするために貯金に励み、生きていくことに集中するんですね。当初は幸せを感じていましたが、自分の理想と現実の間の溝は大きくなるばかり。本好きの思慮深い女性になってほしいと願っていた娘は、音楽に夢中になり、堂々と男を部屋に連れ込み朝帰りさせるなど。そしてついに訪れた娘の自立と愛する夫の不倫。現実に打ちのめされた彼女は十数年ぶりに本を開きます。

 

結婚後、彼女が本を開いたのは二度。夫の秘密を知ってしまったとき。そして、娘と夫が家を出て初めて一人で寝ることになった夜。

むさぼるように本を読みながらも、昔のように本の世界に入り込めないことイライラし「若いころは文学の麻酔にかかったものだが、今は自分から進んで麻酔にかかろうとしている」とソーネチカは思う。私も「本を、何か本を読もう…」と夜中ベッドから起きだしてくるとき「ああ、今自分は満足していないんだなぁ」と感じます。一時的ではあっても、麻酔にかかろうとする。私の場合は本ですが、人は現実に打ちのめされると、暴飲暴食、ゲームなど何かに逃げ込もうとします。何かに圧倒され自分を空にする。そうして気持ちをリセットして、また現実に向かっていく。

しかしソーネチカが本の世界から戻ってくることはなかった。夫と夫の不倫相手を許し、夫の死後は、俗世間から離れ、私は本があるからいいわ、と二度と現実と向き合おうとしませんでした。たぶん読者は拍子抜けします。娘が一緒に暮らそうというのを無視し、「さ、本読もう」で終わるんですよ。え、これってハッピーエンドなんですか?どういうテーマなんですか?誰か教えて!

 

いちばんすとんときた言葉は裏表紙にあります。

「大抵の人間が激怒しそうな状況でソーネチカが些細な幸せを見つけて、自分は幸せだなぁと思うことについて、作者は無垢ゆえの神々しさを見ているとする向きもあるが、そうではあるまい。こういう人が作者の頭の中で生まれてしまったからそういう人の人生を描いただけであろう。人間を祝福する上で、これ以上のものがあるか」という言葉がありました。いやもう、これ以上の解説はないというか、ソーネチカは「こういう人」で、生き方が良いか、悪いか、というレベルではないっていう。

ソーネチカに限らず、私も含め世の中の人はほんんど「こういう人」です。矛盾のかたまりであり、弱くて、間違いをたくさんおかしている。あるときは幸せで、あるときは不幸で。小説の主人公は良い、または悪いお手本、もしくは何かを表徴する存在であり、存在や行動が批評に足るべき存在ととらえられがちで、読者も読者で主人公の生きざまや考え方に何か学ぶべきところがあると無意識に思っています。しかしこれは、主人公がごくごくごくごく平凡な女で批評するに足らず。そんな小説なのかもしれません。

 

ただ、ソーネチカもこういう小さい人間になりたくてなったわけではないということは付け加えておきます。ソーネチカは容姿に恵まれず、家族に「ブス」「ブス」と言われ育ってきました。自己肯定感を高めることができなかった人間に多いのが「自分は幸せになってはいけない」「自分は不幸な状態が一番落ち着く」という認識。ソーネチカも夫を奪われたとき「ああ、こうなるべきだったんだ」と感じます。これは不幸以外の何物でもないと断言します。仮に美しく生まれなくても、自分は価値ある存在と思って生きていければ、娘に厳しく教育できたり、夫の不倫を断固拒否できたりしたわけです。そういう意味ではソーネチカの人生は不幸の種を撒かれ、それを丁寧に育て続けてきたという不幸な人生です。ただ、本の世界に逃げるという選択肢は幸、不幸、判断が分かれるでしょう。

 

本と人との関係が示唆された本はたくさんありますが、私は、この小説の「本の世界に逃げて幸せ」論についてはあまり共感できず。本というのはあくまでも現実を生きるための糧であり、立ち向き合うべき敵(現実)がない状態で本を読んでいても、残るのは空虚さではないか。恋愛小説を読むにしても、失恋、裏切り、別れ、違和感、そうう経験がなければ、何も得られないのでは、と思っています。

例えば「夏の嘘」では、「こんな年になって本を読んでもしょうがないでしょう」と老女が言うことで、読書という行為は明日を生きるためにするものだと示唆され、「書店主フィクリーの物語」では、本ばかり読んでいた頑固オヤジが死を前にして、「人とつながれ。人は人の中にしか生きられない」と、本の限界を示します。

 

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答えは人それぞれですが、本の中に逃げ込んで済ませられるほど現実は甘くないし、読者に勇気を与えるために書かれた本を読んだところで隠遁生活者は何を思うのか。と思ったり。あくまでも私にとっては、「イケオジと結婚し貧しいながらも家庭を得た女が現実に対峙しきれず本に逃げ込んだ小説」に見え、ずっしり読後感で「あぁ…」となりました。

 

自称「本の虫」にこそ読んでほしい本。

おわり、