はらぺこあおむしのぼうけん

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未来を望めないとわかったとき、人が求めるのは時計の針を過去の幸せな日々に戻すことなのかもしれない。ユーディト・W・タシュラー「国語教師」(集英社)

こんにちは。

 

今年6月に発売されたユーディト・W・タシュラー「国語教師」。2014年のフリードリヒ・グラウザー賞(ドイツ推理作家協会賞)の長編章を受賞した作品。江戸川乱歩賞みたいなものかな?

推理小説の分類に入ってはいますが、手掛かりを得て、推理をして…真相を明らかにする、というものではなく、男女二人の思い出語りを聞いている中で、一つの事件が引っかかってくる、という程度。推理小説を期待して読むとちょっとスパイスが足りないんですが、二人の男女の人生の物語をめぐる短編集という見方をすると面白いです。

国語教師

片田舎の町で教師をしているマティルダと、かつての恋人クサヴァーの、十数年ぶりの再会の物語。空白の十数年の断片を短い物語にして語るなかで浮き彫りになる一つの事件とその真相。ハラハラドキドキ、そして、”イライラ”しながら読んでいきましょう。

「現役作家による学生へのワークショップ」に応募した国語教師マティルダは、自校に割り当てられた作家が、かつての恋人クサヴァーだと知り複雑な気持ちに。仕事と割り切って事務的に事を進めていこうとしますが、日程調整のため、メールでやり取りしていたクサヴァーは「早く会いたいよ!」「今何しているの??」「今、君とワインを開けたい気分さ」と相変わらず。マティルダにとっては一刻も早く忘れ去りたい悲しい思い出なのに、当の本人は、昔のことを忘れているんです。

 

マティルダは、自分に自信のない女。不遇な子ども時代を過ごし、母親との確執に苦しんできました。大学に進学し、出会ったのがクサヴァーという遊び人。クサヴァーは自称作家志望で、くだらない小説を書き散らしては大学にも行かずプータローをしています。卒業後、国語教師になった彼女は、そんな彼の生活を支えてきました。

マティルダは三十路を過ぎたころから、子どもが欲しいと意識し始めます。クサヴァーと結婚して、家庭が欲しいと。ただ、クサヴァーはとにかく逃げる。「俺が稼げるようになってから!」「もう少し自覚がないと」と。マティルダは信じて待ち続けていましたが、ある日クサヴァーは何も告げずに家を出ていきました。数か月後に「新進気鋭の作家クサヴァー、資産家の娘と結婚!数か月後には第一子誕生の予定!!」のニュースを目にした彼女は、一時的に精神に異常をきたします。その後、田舎町で教師になったマティルダに訪れた、十数年ぶりの再会。二人は、過去のこと、今のことを物語にして聞かせあいます。ウソでも本当でもいい、自分の思いを物語にして伝えようと。

 

クサヴァーは楽観的で、ダメ男クソ男のゴミ。彼、実は一生子どもなんていらない派だったんです。それをダラダラダラダラ、「今は…」とごまかし、マティルダの妊娠のチャンスを奪う。また、再会を前に、気持ちを整理できずメールが滞りがちになるマティルダに、「お前今何してんの?彼氏は??いないの??wどうせダサいカーディガン着てババ臭い恰好しているんだろう!?」と煽ったりする。(これは図星で、彼女は万年生理中みたいな暗い服ばかり着ているんですが。)作家のクセに相手の気持ちを想像できない、人に対しても社会に対してもひねくれている50代男子クサヴァーは、すでに過去の作家になっています。実は唯一売れた3部作も、元ネタはマティルダが提供したものだったり。今は離婚し、一人で楽しく暮らしています。

なんのフォローにもならないけど、この手の男は人一倍優しい人。女性の涙を見たくない、悲しませたくない、と思うがゆえに下手に嘘をついてしまうんです。しかし、その優しさでカバーできないレベルで女が好きなので困りもの。好色と優しさが同居している男はたいていこんな感じです。こういうのは「女の敵」と言われがちですが、ごくごく個人的な見解を述べると、男尊女卑が服を着て歩いているような、隙あればすぐに説教してくる酸っぱい匂いのするおじさんのほうが女の敵だと思います。ヒモ男は触るな危険って書いてあるので回避できますが、酸っぱいマンとのエンカウントは避けられないので。

 

さて、この小説、視点がクサヴァー、マティルダと入れ替わるので、二人の認識の違いが浮き彫りになって興味深い。マティルダは、「二人の関係がこれからというときに一方的に行方をくらますなんてひどい!!」と主張するんですが、クサヴァーは「別れる半年前にはすでに破綻していたろう」と主張します。付き合っていたころの思い出といえば、クサヴァーが「あのキャンプの時、君はパンツ一枚で海岸で踊っていたよね。そのあと狭いテントで存分に愛し合ったよ。覚えてるかい??」と別れた瞬間記憶から消してほしいレベルの思い出を披露。対してマティルダは、「バイト代でサラダと、チーズとワインを2本買ったことがあったわ。何となく、あなたに負担してとは言えなかった。そんなころから私はあなたに言いたいこと言えなかったのよね…」と、暗い!同じ16年の交際を取り上げてみても、どういう形で思い出にしているのかは全く違う。

 

この小説のテーマは、「人生を間違ったら?」です。

クサヴァーは言います「たった一度の(”一度の”に傍点)人生なんて、人生でないも当然」「決断を間違えて、年を取ってから認めざるを得なくなったらどうしよう」と。クサヴァーは平然と「過去に戻って誤りを正す権利」を主張します。「今からやり直すには」ではなく、「あの頃に戻りたいんだけどどうしよう…?」と。正直、「昔に戻ってあの道を右に行きたい」って真顔で言われても、「無理に決まってるじゃん」と一喝したくなる読者。クサヴァーはこんなことを言い出します。

「ねぇねぇ、自分の人生を赤ちゃんからやり直すって、すごく素晴らしいとは思わないかい?生きてきた中で得た教訓や誤りの記憶だけは持ったままでさ!」

いや、おもしろい!おもしろいよ、君!

これ、ほとんどの人が20歳になるまでには一度は考えることです。これを、50歳を超えて「俺思うんだけどさ…」的に披露してしまうクサヴァー、お前、人生結構幸せだっただろ。

その後もクサヴァーはボケ倒します。彼は「生きることそのものよりも、どんな物語を後世に残すかが大切だ!それなのにみんなは子孫を残すことに躍起になっている。馬鹿らしい」と主張するなど。…お前の小説全く売れてないけどな。

クサヴァーが過去の誤りにこだわるのは、「若い時に何の知識も経験もなくバカな選択をし、人生を自らの手でめちゃくちゃにしてしまった後に、ああ間違った!って気づいたら、もうその後の人生耐えられないでしょ?生きている意味がないでしょう??(=自分はマティルダと別れたことが失敗だと気付いてしまい、その失敗を思うとどう生きていいかわからないくらい辛いんだ)」って思っているからなんですが、私から言わせると、こういう「取り戻せない過ち」っていうのも30歳くらいまでには一度ならず自覚するもので、以降はこまごまとした感情に折り合いをつけて生きていくものなのでは…?と思うわけです。

クサヴァーは、日記の古いページをびりびり破って絶望している中学生レベルのメンタルであることを、ずいぶんな尺を使ってアピール。そして、すごい深刻そうな顔をしながら、『自分は生まれてから50歳を過ぎるまで、真剣に「人生をやり直せたら」という気持ちが沸き上がってこなかったくらい、比較的幸せな人間でした』という事実を暴露しているという。こんなに真剣な顔でボケられると、どう反応していいのかわからない。突っ込み待ちなんですか。

 

と、クサヴァーの幼さが目に付いてしまう私でした。どこから切り取ってみても、クサヴァーの中二臭さは消せません。50年間生きてきて、ほとんど成長をしていないなんて、泣ける。人生の失敗がー!とか言い出す前に、自分が平坦な道を歩いてきたということに気付いたほうがいい。

本人は自覚していないだろうけれども、彼は非常に打たれ弱いです。めちゃくちゃに生きているように見せかけて、石橋を叩くのは誰かに任せ、人に用意してもらった道を歩き続ける。実は大きな失敗なんてしたこともないのに、様々な試練を乗り越えているように振る舞っているんですね。まぁ、それを差し引いても余りあるレベルでイケメンなのかもしれないけど、まったく魅力を感じない。

しかしマティルダは、クサヴァーに寄り添う人生を選びました。過去を積極的に水に流していく系の話はあんまり好きではないのですが、マティルダの一生を振り返ったときに、その大半を占めるのは、どれだけ目をそらそうとしてもクサヴァーとの思い出なんだと思います。自分の未来に「向上」「飛躍」「成功」を望めないとわかったとき、人が求めるのは、時計の針を過去の幸せな日々に戻すことなのかもしれません。

 

この本は、「クサヴァーに訪れた悲劇の真相」という観点から、そして「二人の人生を振り返る」という観点から、二度読むことをお勧めします。180度…とは言わないまでも140度くらい印象が変わりますよ。

おわり。