はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

赦すことで得られる癒しの記憶を積み重ねること 「アーミッシュの赦し:なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」

こんにちは。

久々のノンフィクション。

アーミッシュの赦し:なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」です。

ノンフィクションながら、胸に染みわたる作品。じっくり時間をかけて読みたい反面、ページをめくる手が止まらず、2~3時間で読み終わってしまいました。一度きりしかない人生をどう生きるのが良いか考えさせられます。下手な自己啓発本なんかより明日を生きるための糧になる!

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

事件は2006年10月2日、ペンシルベニア州ストラスバーグ ニッケル・マインズという地区にあるアーミッシュの学校で起きました。近くに住む非アーミッシュアーミッシュはしばしば彼らをイングリッシュと呼ぶ)男性が、銃を持って学校に押し入り、女の子を人質にとって銃を乱射し、5人の犠牲者と5人の重傷者を出したもの。犯人はその場で自殺しました。

アーミッシュプロテスタントの一派で、テクノロジーを否定し、昔ながらの慣習に従って生きていることで有名です。そんな彼らは一派の中でも「オールド・オーダーズ」と呼ばれています。俗世間に背を向け信仰の中で暮らす彼らの集落で起きた事件に、アメリカ全土は大きなショックを受けました。独特の文化の中で平和に暮らしていた彼らまで暴力の犠牲になるなんて…と、アーミッシュを、アメリカの良心のように思っていた人も多く、9.11の傷も癒えないうちに、アメリカの大切なものをまた一つ奪われたような気になったのでしょう。

 

この事件は世界でも大きく取り上げられました。ただ、事件そのもの以上に印象的だったのは、アーミッシュ達が犯人(の遺族)を率先して赦したことです。事件から数時間のうちに、アーミッシュは犯人の男の妻や家族の家を訪問し、「赦す」ということを伝えたのでした。憎むべき犯人への「赦し」、そして赦しに至るまでの迅速さ(数時間!)は、世界で賛否両論を巻き起こしました。

彼らを過度に神聖視して泣いちゃう人多数、「9.11」の事後処理をアーミッシュに委ねていたら…なんてことを言い出す人までいる。逆に、「こんな事件を赦す社会に誰が住みたいか」と、元々冷笑されていたアーミッシュの言動に懐疑的なまなざしを向ける人も一部いました。いずれにせよ、しばらくの間、アーミッシュが置き去りのまま「赦し」のエピソードが一人歩きしてしまいます。

本を最後まで読み終えた後に批判や賞賛を読んでみると、「好き勝手にアーミッシュの赦しを理解している」ということがわかります。涙ながらに「人間の善」を強調する人もいれば、イラク戦争の批判の糸口として利用されたりもする。

本書は、アーミッシュへの丁寧な取材を元に、多くの疑問・違和感を解決する構成です。

 

物語を貫くのは一番大きな疑問。

どうして数時間で赦したか(そもそも数時間で赦せるのか)という点。

懐疑派が絶対に突っ込んでくるのもまずココです。

「感情の欠落」「運命論的態度」「迅速さ」への批判…。悲しみを乗り越えるには時間が必要です。自分の愛する人を失ったら尚更。数時間で「赦します」という宣言をするのは、やや機械的ではないか?形だけなのか、それとも神の思し召しとして諦めているのか、それってどうなの??と。アーミッシュは何かあってもすぐに赦せるような思考回路なのかなんていう報道もありました。

 

その答えはシンプルに、「赦されるためには赦さなければいけない」という教義に則っているからです。考えた結果ではなく、主がそのように求めているから、です。だからその迅速さも頷ける。彼らは、キリスト・ファーストの生活を300年も続けてきました。キリスト教の教義をもとに、300年以上も口伝で継承されてきた細かな行動規範は、加害者を「赦す」ことしかない。言ってしまえば、それ以外の選択肢は持ち合わせていないのです。

ただ、「赦されたいから」という利己的・形式的なものでは決してない。取材の中で判明したのは、赦すと決めた加害者家族と、長年にわたり密な関係を築いているアーミッシュの姿。彼らからは「何度でも赦し直す」という言葉が聞かれました。怒りがわいてくることは時々ある、苦しいが、そのたびに赦し直しをするのだ、と。

本文中ではこういうのを「レパートリー」と呼んでいます。卑近な例でいうと、カラオケのレパートリーと同じ。自分の番が回ってきたときに「とりあえず」と、ぱっと出てくるもの。

個人主義の世の中では、信念と行動のレパートリーがバラエティに富んでいるのに対し、アーミッシュにおいては、信念と行動のレパートリーはコミュニティによって決められています。

 

「信念と行動のレパートリーがコミュニティによって決められている」

これらのことについて、本書では何度も注意喚起させられます(個人主義の私たちは忘れがち)。この前提に立つと、個人主義という自分の狭い視野からの批判やアホみたいな賞賛が「ちょっとピントずれている」と感じてしまうのです。

 

例えば、「シャニング(忌避:アーミッシュのコミュニティ内の村八分のようなもの)」への批判。「射撃犯にはやさしくて身内には厳しいのね!」なんてやり玉に挙げられていましたが、これもズレている。

アーミッシュはコミュニティの存続を最優先に考えます。コミュニティ存続を脅かす個人の身勝手な行動は厳しくたしなめるのは(アーミッシュ的には)当然のことなのですが、「殺人犯を赦すほど優しい人たちなのに、村八分するなんておかしい!」と批判されてしまいます。

アーミッシュの赦しを、人間の中に(私たちの中にも)存在する善良な部分・聖なる部分であると信じたい、まだこの世界に美しい世界があると信じたい思いによって、アーミッシュの赦しが屈折した解釈をされていたことは否めません。

 

無知・無理解から起きる謎の批判や謎の賞賛について、それは違うと訂正していく趣なのですが、冷静に、理論的に説明をしてくれるので、読み終わった後に一気に世界が開ける感じがします。

 

そして、この本はさらに、その赦しには一般性があるのか、という点に踏み込みます。

私たちにはこのような赦しは可能なのか…?

 

著者は前提として、「いいことをすると自分がマヌケだと感じてしまう社会である」と言います。それはおそらく、アーミッシュの世界と逆の価値観。その中で、いかにして赦しを実践するのか?赦しは可能なのか?

これには明確な答えは出ません。

また、「赦す人は赦さない人よりも幸福で健康な生活を送れる」「憎しみにとらわれるのは、加害者が自分の人生をコントロールしていると同じ」…など、深イイ言葉は出てくるのですが、私的には正直「弱い」と思ってしまう。

 

赦しの一般性について示唆に富んでいると感じたのはこんなエピソードです。

アーミッシュが銃撃事件の犯人を赦したことについて、『子どもにどう説明したらいいかわからない』」と言った母親がいたという。

アーミッシュの子どもは、大人たちの赦しを完全には理解していない、つまり、アーミッシュの世界でも、赦しは成長の過程で学んでいく後天的なものということです。

無垢な状態で生まれ落ちてからずっとキリスト教の教えのシャワーを浴びてきたアーミッシュは、憎しみや怒りを知らずに赦すことのできる特別な人間になれる、なんていうことはない。赦しは学び得るものなのです。理不尽な出来事には誰もが怒り・憎しみを覚えるけれど、その後の気持ちの持ち方は、人それぞれどうとでもしていける。

そんな彼らは、「赦しは癒やし」と言います。赦しを継続させるためには、「赦したことではなく、赦したことで得られた癒やしを覚えておく」が重要なのです。

 

私が注目したのは、アーミッシュのコミュニティの生き残り戦略のしたたかさ。

時代に取り残された人たちだと、アーミッシュを格下に見て冷笑する人は多いですが、どこのコミュニティにおいても、存続・繁栄が第一目標だとすると、20年毎に構成員が倍増しているアーミッシュのコミュニティは、少子高齢化に苦しむ国なんかと比べると、優れているとも言える。高齢者・障がい者も国任せにせず、金銭的な面でもコミュニティ内で面倒を見ています。

男と女の役割が決まっている世界なので、DVも頻発していたようでしたが、最近はそういう案件をコミュニティ任せにせず、公的機関を介入させることもあるそう。近代的なものを否定して後ろ向きに見せながらも、良き世界になるように実は歩みを進めているところ、したたかだな(良い意味で)と感じます。

また、本の中では「赦すと言うことにおいて300年分先行している」とも書かれていますが、彼らのグリーフケアの手厚さは素晴らしい。身の回りの家事をコミュニティの人間が肩代わりし、葬式等の儀式もコミュニティが請け負う。その後数ヶ月に渡って、延べ数百人が家を訪れ、手を握って彼らの悲しみに寄り添います。苦しみは決して個人のものではない、という状況が、赦しへと一歩一歩歩みを進めていくのでしょう。

 

アーミッシュはとにかく独自の文化です。

もちろん彼らに懐疑的な目を向ける国民が多いのも事実ですし、単にコミュニティが拡大しているだけで繁栄をはかることはできませんが、300年もの間継続しているコミュニティにはそれなりの理由がある。ただ単に「神の思し召し…」と言っているだけでは繁栄しないわけですから、時代に逆行していると見せかけてすごい力を秘めているんだなぁと感じます。そんな彼らの強さを「人間の満足と幸福を叶える三要素(1)コミュニティ、(2)帰属意識、(3)アイデンティティを満たしているから」と評す著者。

確かに、孤独とはほど遠いこの世界。見習うべきところもあるのかもしれません。

 

もし今こういうことがあったなら、まとめサイトにニュースサイトに…格好の餌食でしょう。情報の受け手は見たいものだけ見て、1年もしないうちにすっかり忘れる。情報を垂れ流しして事実の検証は後回し、というのは視聴率やアクセス数稼ぎの常套手段ですが、情報源を見極める目は持ちたいなと思いました。

 

おわり。