はらぺこあおむしのぼうけん

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マヤ・アンジェロウ自伝

こんにちは。

2021年1冊目はこちら。

詩人・作家・人権活動家であるマヤ・アンジェロウの自伝「歌え、飛べない鳥たちよ」です。

歌え、翔べない鳥たちよ ―マヤ・アンジェロウ自伝―

自伝とはいうものの、小説のような美しさ。彼女の出世作だそうです。

マヤ・アンジェロウは1928年の生まれで、両親が離婚した後、アメリカ南部アーカンソーにある父方の祖母の家で育てられます。兄のベイリーと二人きり、首に行き先をぶら下げての列車旅でした。8歳の時、母とともにセントルイスで暮らすことになりますが、母の愛人に性的暴行され、裁判の証言台に立たされました。心を閉ざした彼女を持て余した母は、再度マヤとベイリーをアーカンソーに送り返します。その後、また母とともに暮らすことになりますが、兄と母の溝は埋まらず、兄は家を出て行きます。17歳の時に未婚のまま母になるところでいったんおしまい。

なんと彼女の自伝は5部作(!!)ということで、まだまだ続きます。30代の頃の苦労話とかを読んでみたかったのですが、まだ先のようです。笑

 

黒人公民権運動に身を投じた彼女の、ルーツがわかります。活動家のルーツというと、強烈な経験なんていうものを想像しがちですが、彼女の場合そういうわけではなく、彼女が超賢くて、超頑固で、超負けん気が強くて、破天荒だったからこそ、激しい道を歩んできた…ような気がする。目の前に壁があったら蹴破っていくタイプの彼女、読んでいて痛快だし、ユーモアのセンスも抜群です。

例えば、貧乏な白人に対して「あいつらは色の白さは七難隠すとでも思っている」と毒づいてみたりします。神に対しても(!!)「(人間が)暮らしの水準と様式が物質的なはしごを上に昇っていくにつれ、神はそれに見合った速度で責任のはしごを低い方に降りてき給う=人間の営みは、古代~中世から大きく変わってきているのに、神に求められていることはずっと変わらずに、質素な生活を送れることに止まる…というような不満)」なんて思ったりします。デリケートな話題過ぎて、笑ってよいのか判断に困るレベル。笑 ここまでズバズバ言うのはすごい!

 

祖母が敬虔な信徒で、By the way(ところで)と口にしただけでむち打たれるような暮らしでした。(Way(道)は神のことを指す神聖な言葉、それを家の中で口にするなんて信じられん!ということらしいけど、ちょっと何言ってるかよくわかんない。笑)

その反動もあってか、信仰には懐疑的。

自分たちの暮らしは苦しく、飢えて、さげすまれ、身ぐるみ剥がされているのに、この世のどこでも、罪人たちが主人顔でおさまっている

と、「神の元にみな平等と言いながら、この不平等とはなにか??」という強い怒りが、彼女を黒人の地位向上に駆り立てたのだと思います。

 

本書は、そんなマヤ・アンジェロウの「10代編」ということで、10代の子にも読んで欲しい内容です。自伝ではあるものの説教臭さはなく、自分の失敗や思い違いも素直に書き綴ってくれているので、大変親しみやすい。

十代に贈りたいのはこんな言葉。

 

十代の時期を生き延びる人は、たとえいてもごくわずかである。多くの者は大人の順応主義の、あいまいだが命取りの圧力に屈してしまう。優勢を誇る成熟の軍勢と不断の戦いを続けるよりは、死んでいざこざを避けるほうが優しいのだ

 

若くてものを知っていないという告発に対して、みずから有罪を認めるほうが得策で、自分より上の世代が規定した罪をうけるほうが苦労がない、と判断してきた。

まぁ、こんな言葉の価値に気づくのはきっと十代を終えてからずっと後になってからだけども、

「十代を生き延びる」

…変化を嫌い順応することを求める上の世代からの圧力に屈することを全力で拒否した彼女は。この言葉は、マヤの10代を象徴する言葉でもあり、また、大人の世界に順応して彼女のもとを去って行った兄を意識しているようにも思えます。

マヤと同じくらい賢く皮肉屋で、唯一の理解者であった兄は、セントルイスに出た後は、周囲の馬鹿な大人を見下すのをやめたかわりに、人の真似をして娼婦の愛人を作ってダイヤの指輪をはめてみたりして、彼女の知らない人になっていったのでした。

昔、彼は「知識は世界共通の通貨で、そのとき自分がいる環境に応じて価値が大きく変動する」とマヤに言っていました。自分が持っている知識が何の意味を持たない環境であがくのに疲れてしまったのかもしれない…兄との別れのシーンを「兄が身を固めている不幸なよろいの下に手を差し伸べることはできなかった」と思い返し、もう、いかなる言葉も彼には響かないんだということを理解します。

 

この本の山場はなんと言っても、卒業式のシーン。学校に中央校(セントラルはもちろん白人の学校)から白人の来賓が来るのですが、なんか持て余し気味の態度。彼は挨拶で、黒人のゴールはスポーツ選手であるということを言外に示します。白人の子どもには多様な選択肢があるけれども、白人にとっての黒人はあくまでも下働きになるべく存在であり、卒業式では何とコメントして良いかわからない、という。

続く同級生代表の挨拶で、彼女の感情は最高潮に達します。

来賓の挨拶の意味を知ってか知らずか、シェイクスピアの言葉を引用しながら自由を謳いあげる男子生徒。黒人が置かれた理不尽さに怒りを覚えているのは自分一人しかいないと孤独に感じます。同じ人種であっても、差別に屈せず共に戦おうと思えるのは一握りで、多くの人は理不尽さをそのまま受け入れることを選びます(そもそも理不尽とすら感じないかもしれない)。

 

小さい頃に親に捨てられ、8歳の頃にも再度捨てられた彼女は、「自分の居場所」というものをずっと探し求めてきたように感じます。大変賢く高い理想を持っているため、低いレベルで満足することはできず、フラストレーションをためてしまう。しかも、どれだけ賢かろうが理想が高かろうが、黒人であり女である以上、その美点はプラスに作用しないという苦しみだってある。

 

最後の数ページの妊娠から母になるまでのエピソードは、ずっと迷い続けてきた彼女の人生の、新たな幕開けを予感させます。守るべき息子という存在を得たことで、彼女の人生が拓けてきたように思うのです。さらに、なかなか見えてこなかったマヤの母の愛も垣間見える最も好きなシーン。

不安に押しつぶされそうなマヤにかけた「ちゃんとしなけりゃいけないなんて、考えなくてもいい。ちゃんとちゃんとしようと思っていれば、知らないうちにそうなっているんですよ」という最後の一言が良い!「最良の自体を希望し、最悪の事態に備えているから、その中間にどんなことが起ころうと驚かない」という信条を持つこの母親の包容力、見習いたいものです。

 

訳者の解説も必見です。2014年までご存命だった彼女をインタビューした時の言葉が書かれている。

「年を取って私はどんどんママ(祖母)に似てきた」と回答しているけど、前からだよ、って言いたくなる。笑 中盤以降から、完全に思考や行動がミニ版ママなのです。その頑固さも、荒々しさも何もかも…

 

あとは、自伝を書くにあたり

自分がしたことではなく、社会がこの私に対して何をしたか、を書きたかった

 

私という個人に起こった(パーソナル)ことであってもいいが、他人と分け合えない私的な(プライヴェート)ことは除外するようにしました。

なんていうことも言っていて、妙に納得してしまいました。

 

ものすごい小さいスケールの話になることを百も承知の上で、一人の人間の視点から小さな世界を丁寧に描き出すという手法は、今や小説の王道になっていると思います。「半径5メートルの範囲しか知りません」と、世界情勢に無関心を決め込み、その中でより快適に生きることだけに汲々とする「等身大の生の営み」を賛美する流れがありますが、そういうのは苦手。

舞台を半径5メートルに絞って等身大感出そうと試みているのはいいけど、半径100キロくらいまで広げてやっと出会えるかどうかの善良な人間ばっかり出てくるし、悪は成敗されるという、結局はありもしない世界しか描けていないからです。まぁ…読めば大変に気持ちいいんだけど、空虚さは否めない。

自伝や伝記はちょっと間違うと半径5メートル風の内容になってしまいがちですが、社会に対するインパクトを持っているという意味でも、大変力強い本。

 

20代編(次巻以降~)も読んでみたい。

おわり。