はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

無垢な頃の自分をどこかに見つけ出す短編群 トマス・カポーティ「誕生日の子どもたち」

こんにちは。

 

カポーティ「誕生日の子どもたち」です。

このブログで何度も触れていますが、私は村上春樹は苦手です。なんか好きになれない。作品というよりも、一部ファンのごり押し感が苦手。ハルキの複雑な世界観を理解できる自分マウントしてくる感がある(イメージです)。

過去、一作品だけ「面白い!」と感じた作品があるんですが、レビューを読んでみると「巷では高評価のようですが、過去作も全部読んだ私としては、もう一息って思う作品でした…。ただ、初めて読む方。そういう方でしたらこういう作品から始められるくらいが丁度よいんじゃないでしょうか??」というようなのがあり、どんだけ上から目線やねん!やめたやめた!と手放したことがあります。

そんな私が、「村上春樹の翻訳はどんなもんだろ?」と思いチャレンジしてみたのがこちら。

誕生日の子どもたち (文春文庫)

「昨日の夕方、六時のバスがミス・ボビットを轢いた。それについて何をどう語ればいいものか、僕にはよくわからない。結局のところ、彼女はまだ十歳にすぎなかったわけだが、(略)」という開始3行で、「ハルキ節!!」といろんな人に見せて回りたくなりました。笑 ただ、構えていたほどは気にならない。

そんなことよりも、訳者あとがきが面白くてイイ!小説という、彼の頭の中で構築された世界の発露の理解は難しくとも、「人に何かを説明しよう」という意思を持って書かれたものについては、全然イケる。ていうか知識量すご!!!(バカにしてすみません)

 

表題作「誕生日の子どもたち」

斜め前の家に越してきたミス・ボビットと、彼女に愛されたいと願う少年たちのストーリー。上の通り、「バスに轢かれた」という事実が最初に示される。そこから彼女が越してきた過去にさかのぼり、バスに轢かれる直前までの彼女の姿を描くという構成。

ミス・ボビットはすごく大人びていて、同級生をバカにすることもないが、理解しようともしない。そんな彼女は、同世代の少年少女(特に少女)、そしてその親(特に母親)からしたら気に障る存在だったろう。自分をしっかり持っている彼女であったが、唯一の友達(おそらく友達が一人もいない黒人少女)がそばにいても、どこか寂しげなところが印象的。

彼女を取り合って一時は仲たがいした少年二人も、何年後かに「美人薄命だよなぁ。俺たちバカだけんども、生きてることこそ素晴らしいっぺなぁ」とか言って酒飲んでそう(あくまでもイメージです。元ネタ知っている人いますか?)。誰にも理解されずに死んでいったミス・ボビット。彼女の失われた人生に思いを馳せずにはいられない、ただただもの悲しい話。

 

「感謝祭の客」

ぼく(バディ)は、遠縁の親戚の家で暮らしている。親友はオールドミスのミス・スックと犬のクイーニー。学校には、いじめっ子のオッド・ヘンダーソンという少年がおり、バディは彼を避けている。

バディの家が裕福なのに対して、ヘンダーソン家はお父さんが刑務所におり、かなり貧しい。ミス・スックは感謝祭のパーティにヘンダーソンを呼ぼうと提案する。どうせバツが悪くて来られないだろうというバディの予想に反し、ヘンダーソンは出席すると返事をよこした。

感謝祭当日、バディはヘンダーソンがこっそり、ネックレスを盗む現場に居合わせた。しかしその場で注意することはせず、全員がそろっている時に暴露してやろうと計画し、実行に移す。自分の計画通りに事は運んだものの、その思い出は苦いものとなった。

 

「あるクリスマス」

ぼく(バディ)は、ある年のクリスマス、離れて暮らす父親のもとを訪れることになった。当時のバディは、父親に対して複雑な思いもあり、滞在中は父に意地悪をする。出発の日、息子の愛を感じたい父は、「父さんに『愛している』と言ってくれ」と懇願するが、バディはそれを無視して別れた。

自分の家に帰り、ミス・スックと話をすることで落ち着きを取り戻したバディは、主イエスの声に導かれるように父にハガキを書いた。父の死後、父の利用していた貸金庫からそのハガキが見つかった。ハガキはこう締めくくられていた。「あいしています、バディ」

 

「おじいさんの思い出」

ぼく(ボビー)が、少年時代を過ごしたヴァージニア州アレゲーニー山脈のふもとの家を離れた時の話。最も心を開いていたおじいさんとの別れが非常につらかった割には、引っ越し後は1度しか手紙を書かなかったこと、そして別れて以来二度と会うことはなく、死の知らせも、おじいさんの雇い人から受ける始末だったことが淡々と語られる。そして後悔も。おじいさんの枕もとには、ボビーからの手紙がずっと飾ってあったらしい。

 

などなど。あとは、ミス・スックの後年や、別れ(死別)についても、しみじみする話。

 

一番胸に響いたストーリーは、「感謝祭の客」です。

作品の前半で、ミス・スックによる「世の中には自分が望むものを何一つ手にしていない人(ヘンダーソンの家族)もいれば、余分なものを抱えこんでいる人(自分たち)がいる」という語りあるんですが、コレが後々効いてきます。

事件の後、ミス・スックはバディにこう語りかけます。

「世の中にはたったひとつだけ、どうしても赦せない罪がある。それは、『企まれた残酷さ(傍点)』だよ。他のことはなんだって赦せるかもしれない、でもそれだけは別だ」

ふとした出来心で盗みをはたらいたヘンダーソンよりも、ヘンダーソンの面目を潰そうと計画を立て実行に移したバディのほうが悪いというのです。その言葉の通り、計画を成功させたはずのバディの心には、苦いものが広がるばかりでした。

人からされたこともなかなか忘れられないけど、無意識・意識的に関わらず人を傷つけたことも簡単には消えず、生涯自分をさいなみ続けます。特に、このストーリーだと、人が望む以上のものを持っている自分たちが、暮らし向きの悪い人に寛大な心を持てないどころか、その罪を糾弾するとは、どんだけ残酷なことだろう(しかも感謝祭の日に!)と気付いたバディは打ちのめされます。

ヘンダーソンは、感謝祭の客に「ネックレスはあった。バディの勘違いだ」という嘘をついて自分をかばおうとしたミス・スックに恩義を感じ、大人になってからも、ミス・スックの庭仕事を手伝ったりしてささやかな交流を続けます。エピローグの温かみが好き。

 

この物語を貫くテーマは、「イノセンス=無垢さ」です。

イノセンスは、ある場合には純粋で強く美しく、同時にきわめて脆く傷つきやすく、またある場合には毒を含んで残酷である」

これはあとがきからの引用ですが、人生のある時期において皆一様に通過する無垢な時代の出来事を、カポーティが一つ一つ掬って紡ぎあげた短編集、ということらしい。

大人顔負けの残酷さを発揮しながらも、攻撃した3倍くらいの罪悪感で逆に打ちのめされてしまう。そういう「子ども心」の不可思議さが余すところなく描かれていますが、全ての結末が「自分が為してしまったことへの後悔」のニュアンスですから、誰かを悪者にすることもできず、こっちまでどんよりした気持ちに。

 

また、時代的・地域的なものもありますが、キリスト教的な教えを伝える大人と、そういう話を半信半疑で聞いている子どもの対比も興味深いです。感謝祭やクリスマスなどのイベントが挟まるから尚更。そういえばバディが「あるクリスマス」で父親にした仕打ちも、ばっちり『企まれた残酷さ』だったなぁ…クリスマスなのにな!!

ただ、私自身、信心深くないタチではありますが、この本を読むと、「人を憎まず。愛し、赦す」という神の教えは、何も大げさなことではなくて、自分の心を清いまま守るための神との約束事にも思えてくるので不思議です。(その証拠にミス・スックは本当に良い人)

 

とはいえ、父を憎む心も、ヘンダーソンを憎む心も、彼らが無意識にバディにつけた傷をもとに醸成されたものなんだと考えると、子どもの心は全力で守られるべきもの…という気持ちになりました。そのために必要なのは「(親の)フルタイムの愛情」だそうです(あとがきより)が、非常に身につまされる思いがします。

 

正直盛り上がりに欠けるし、読後感は切なすぎるけれど、昔の自分をどこかに見つけるような短編群でした。カポーティの経験が色濃く反映されているようです。子どもの頃の出来事を回想し、当時の感情をまんま切り取ろうとしている、というのが伝わってくる。私小説…もといエッセイに近い。

所詮、読書とは暇つぶしか、自分の煮詰まった感情を「そだねー!」と分かり合える友を持たない人が、古今東西の膨大な作品から友人を探そうとする、長い旅のようなものだと思っているんですが、カポーティもこういう読書経験を積んだ少年だったんだろうなぁということが容易に想像される。…なん十歳も年上のオールドミスを「唯一の友だち」として心を開いている時点で察してしまう。

 

文章は客観的ながらもすごく鋭くて、情景描写も上手で…。カポーティは「冷血」しか読んだことありませんが、他の作品も読んでみたくなりました。

また、あとがきによると、「冷血」も「破壊されたイノセンスのひとつのかたちとして、翼を奪われ楽園を追放された天使たちの残酷な物語」と解説されていました。そういう観点で改めて読みたいものです。

 

おわり。