はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

いったん資本主義社会の歯車の一部となったら最後、一人の人間が為せることはほとんどない ジョン・スタインベック「怒りの葡萄」(下)

こんにちは。

ジョン・スタインベック怒りの葡萄

怒りの葡萄〔新訳版〕(下) (ハヤカワepi文庫)

上巻までのあらすじはこちら

dandelion-67513.hateblo.jp

カリフォルニアに到着したジョード一家は、テント村(同じように職を求めて西に向かった人々が寄り集まっている場所。少ないお金で利用でき、水道なんかも使える)を転々としながら仕事を探し続けます。やはり噂で聞いた通り仕事はなく、仮にあっても超低賃金のため暮らす目途は立ちません。

ある時テント村でいざこざが起き、プライドを傷つけられたトムは保安官を殴ってしいます。ここで捕まったら刑務所に戻されてしまう仮釈放の身のトムに代わって、ケイシーが逮捕され、別れ別れに。

この時点で、初期に12人いたメンバーはどんどん欠けています。亡くなった祖父母、途中で離脱したトムの弟ノア、トムの妹ローズの夫コニーは逃亡し、そしてケイシー。物語の最後では、主人公のトムが家族の元を去らざるを得ない状況に追い込まれます。もう一人の弟アルも、テント村で会った娘とデキ婚し離脱間近となるなど。アルは唯一トラックの運転と整備ができる人間だったので、ジョード家は行き詰まります。

ついに立ち上がる!という感じで終わっていた上巻ですから、容赦ない現実を突きつけられて読んでるこちら側も凹まされる。結論から言うと、何かを起こすことはできずに、ふわーーっと終わっていくストーリー。

 

下巻で示されるのは、社会という怪物の恐ろしさ。そしてそれに対比される、ひとりの人間の無力さ、身勝手さです。こう書くと、嫌な奴ばっかり出てくるんだなぁと思うのですが、むしろ逆。

この小説、出てくる個々人は、基本的にいい人が多いんです。自分のとこに満足な食糧がなくとも分け与えたり、祖父・祖母の埋葬に手を貸してくれたり。ドライブインで移住者にさりげなく食料をわけるウエイターと、それを見てさりげなくチップを渡すトラックドライバー、そういう人と人との絆を感じさせる描写がたくさんあって泣けてくる。真面目にカウントしても、嫌な奴って片手で数える奴しか出てこない。それもただの小悪党であり、TVドラマに出てくるような、腰巾着どもに「御意!」と言わせ、何か言われたら、俺を誰だと思ってるんだ!警視総監にTELするぞ!と脅し、やりたい放題しているわかりやすい大悪党は出てきません。

し・か・し、構成員はいい人だらけ(のはず)なのに、彼らが集まって一つの社会を構成すると、なぜかものすっごい冷酷な国が出来上がっているよねー、っていうのがこの小説のミソ。どんな国も、ミクロの視点で一人ひとりを取り上げると、だいたいが真面目に心優しく生きているんです。ただ、マクロの視点で俯瞰すると、(資本主義)社会という怪物が人々の上にのしかかり彼らを苦しめているという。

じゃあ、その怪物の正体って何なのか。

例えばある中小企業で、自分の会社担当の銀行マンがすっごーく親身になってくれるめっちゃいい人だけど、上の人に掛け合ってもらった結果結局融資は断られるというような話をイメージしてください。この場合、個々人の命よりも、生物ではない「銀行の意向」のほうが強い力を持っている状態とも言えます。もとは人間の集まりであるはずの「企業」や「組織」という存在が、利益を得るという目的をもって運動を始めると、まるで人間のように意志を持ち、その意志が人間の命を蹂躙し得る(人間という存在を超えてしまう)という意味で、「怪物」なんですね。

これに近い状況っていうのは、たぶん働いたことのあるほどんどの人に経験があると思われるんですが、実は人間ひとりの命は、資本主義が作り上げた仕組みの中では大きな価値を持たないんだね~ということに気づかされます。人の命は何よりも尊いという言葉は、経済(少なくとも資本主義社会)の中では正直信ぴょう性に乏しい。

それでは、待遇改善を求めたい時に私たちができることはあるのか?というと、団結して声を上げることが唯一の手段です。会社でいう組合がそれにあたり、ストだのメーデーだので(半ば形骸化はしていますが)団体交渉をはかるわけです。ただ、組合という仕組みがない中では、団体交渉という手段は非常に困難。それが、上に書いた「人の身勝手さ」です。ここでケイシーが再登場。釈放された彼は、労働者たちとストを始めました。

ある桃農家では、収穫量1箱につき5セントを与えていましたが、ある日1箱2.5セントに値下げしました。ケイシーたちは賃上げを求めてストをしますが、桃農家は取り合わず、ケイシーたち以外の労働希望者を1箱5セントで雇い始めます。そうすると、ストのメンバーは参加する意義を失い、空中分解します。これが「スト破り」。その後は再度賃金を1箱2.5セントに下げればいっちょ上がり。

トムは、「ストを続けないと賃金は2.5セントに下がるぞ!」というケイシーの声も聞かず、「とりあえず俺は今んとこ5セントもらえるから働くわ~」といってスト破りに加担してしまいます。同様の労働者がたくさんいたため、ケイシーのストも失敗に終わったわけですが、団結するって難しい…。成功するかわからないストに命を懸けるほどみんな余裕もないし暇もない。そしてそれ以上に先のことを考える力もありません。

後半にも団結の難しさが出てきます。貨車をつなげた家で暮らしていた時に洪水が起こるんですが、土嚢を築かなければ!とトム父に対し、「やめときますわ~」という近所の人の多さ。今日家族を食べさせられるかという問題に汲々としている人間は、団結や協力なんてやっている暇ないんです。ただ、誰かの努力に全力で乗っかりたい。

この本読んでいるときちょうど給付金の話が出ていて、「今まで政府を批判していた人は10万円を受け取る権利なんてない!!」とかいうトンデモ意見が出てきてひっくり返ったんだけど、むしろ逆だろ逆。声を上げない人こそ、給付金が必要と声を上げる面倒ごとをやってきてくれた人たちの努力にタダ乗りしているだけだから、この場合、受け取る権利がない人がいるとすればフリーライダー共なわけですよね。

と、資本主義への強烈な批判がされていた本でした。悪の親玉みたいな人を一人も描かずに資本主義社会の怪物感を出すってスゲー。しばらくするとすごい不況が来ると思うけど、他人ごとではない感満載で、今読むことに価値があるなぁと感じました。

ただ、資本主義云々は置いといて、この小説の魅力の一つは、徹頭徹尾現実的なストーリーの中に、聖書を思わせるストーリーが挟まるところだと思います。例えば弟ノア。ノアという名前からして聖書っぽいんだけど、彼は生まれつき頭が悪い感じの男子で、カリフォルニアに到着してすぐ川を見つけて「僕はもう行くよ!」とドロンします。え?となる別れのシーン。

続いて最後の最後。赤ちゃんを死産してしまったローズを連れ、お父さんとお母さんは水が迫るハウスを脱します。三人で歩き続けて小屋に入り、飢えた男と息子に出会うシーンがあるんですが、ここもちょっと非現実的。

というのも、この小説、とにかく読者に金勘定をさせるんです。おばあちゃんを埋葬するのに40ドル、ベーコンの脂身が何セントで…あそこに移動するにもガソリンが間に合うかしら…と、とにかく金の話。ガソリンを節約するために相乗りしようとかいう小話をはさんでみたりして、残金と明日のご飯の心配を読者にまで要求するんですね。肝っ玉母ちゃんが少ない食材を工夫して調理するシーンに平気で半ページ割くわけですから、自分もジョード一家の一員になった気すらする。

だからこそ読者は、いきなりふわーーーっと消えるノア(そしてそれを受け入れる家族)と、トラックでの移動が必須だった国道を歩き続けるローズらのエピソードに戸惑い、「え?ノアは今晩何食べたらいいのかしら?」、「ローズは栄養のあるもの食べなきゃ。ていうかその前に寝てたほうがいいのでは?」なんてもはや身内目線で心配をしてしまうわけです。「母ちゃん!どうすんの?」と問いたくなるわけです。

ここの2つのエピソードはおそらく、死の示唆なのかもしれないし、少なくとも現実ではないと思います。かなり浮いているエピソードでありました。

名作だからつまんなそうと敬遠していましたが、すごく面白かった!

スタインベックの「エデンの東」もよんでみたいです。

おわり。