はらぺこあおむしのぼうけん

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#新大学生に勧めたい10冊 のダントツ1位 「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」斎藤兆史、野崎歓

こんにちは。

 

今、Twitter界隈で秘かに流行しているハッシュタグ #新大学生に勧めたい10冊 ですが、私のなかでダントツの1位はこちらです。

「英語のたくらみ、フランス語のたわむれ」。東大の英文学の助教授とフランス文学の助教授の対談(2004年当時)。「語学」「翻訳」「文学」についての対談ですが、学びが深い。読みたい本が何冊も増えてしまう。

特に「語学」のところ。非母語である英語(フランス語)を習得するには、というところ、新大学生に参考になると思います。

英語のたくらみ、フランス語のたわむれ

今やポスドクは金がないということは結構知られていますが、私が文学を専攻していた頃も、文学系の教授といえば狭き門を何度もくぐった神のような存在。宝くじを当てるよりも難関なのでは?なんて真剣に思っていました。文学部なんて就職が難しいから天上界みたいなもので、教授が釈迦如来なのであれば、大学内で関連する職を得ている助教や助手はそろそろ引き上げてもらえるという意味で菩薩、そしてポスドクはいつも研究室にいて学部生を目の敵にしている明王みたいな、と、そんなところでしょうか。

学部生からすると明王が一番怖い~。上からの圧力でストレスがたまっているのか、下手なことするとすぐにやっつけられるし、研究テーマがかぶるのはご法度。朝から晩まで研究室にいるからろくにコピーも取りに行けないし、就職後数年して大学に用があって研究室に行ったら、まだいたっていう…w

先生たち、対談当時は助教授ですから、薬師如来とか阿弥陀如来とかいったところの天上人。そんな野崎先生が「僕が今駒場の学生だったら…」とか言うんですよ。「学生の頃もっと勉強しておけばよかった」という人はたくさんいると思いますが、アカデミックな世界で成功した立場にいる先生がI wish I were…みたいなこと言い始めたら聞くしかないでしょうよ。

 

エッセンスはこんな感じ

★外国語を習得することについての誤解

お二人は現在、日本の英語教育がヤバいということで警鐘を鳴らしているんですけど、こんなことを言っています。

バイリンガルを作り上げるのは至難の業(ムリ)

野崎先生の知っている中で、幼いころから2つの言語に触れさせてどちらも母国語並みに習得できた例は1つしかないそうです。しかもそれは、その人の努力と才能の賜物であり、別にスピード〇ーニングのように2000時間英語を聞き流していただけ、というようなものではありません。だからそれを「みんなもそういう風にやりましょう」と全小学生(園児~?)に金を投入してやらせるのは無駄。変な英語だけが頭に残るだけです。

・人間は母語で思考する

どうしても、我々にとって一番ものごとを繊細に考えることができる言語は日本語であり、日本語で考える能力を貧弱にしていては、ろくなアウトプットができない。まぁ、英語が喋れてもスカスカなことを言っていてはしょうがないものね…

・英語漬け教育は既に明治時代に失敗済みです

会社内、学校内では英語だけ!というのがアツいけれど、実は明治時代で失敗済み。子どもに英語漬け教育をしたところ、「洋書は何でも読めるが、日本語の手紙すら読めない少年」が完成したらしい(福沢諭吉談)こんなこともしらべずに英語漬けを推奨してどうするんだ!と。

・シャワーのように聞けば喋れるというロマン

そんなわけなかろう。英語を習得するのに近道なんてありません。

 

★昔から行われていた外国語を受容する過程

じゃあ、どうすればできるようになるのか?

野崎先生はフランス文学の作品を読み漁り仏文を志望したそうです。とにかくフランス文学を読めるようになりたくて、構文や時制を勉強してテクストを精読することに努めたらしい。そして大学院に進学し、フランス語会話の勉強はほとんどやらないままフランスの公費留学生として留学したとき、会話には困らなかったそうです。

外国語の文学作品を読み、自分で文章を書くレベルまでマスターしていれば、会話は後からいくらでもトレーニングのしようがある。これを先生は「志が高い人は日常会話に降りていけばいいから」と表現しています。フランスで生活するにあたり、「つめきり」って何だっけ?みたいなことが出てきたんだけど、土台がしっかりしてさえいれば、そういう日常会話に必要な単語はあとから埋めていけばいい。これにはめちゃくちゃ頷いてしまいました。

というのも、保育園の英語授業を見ていると、

外人:(リンゴの絵を見せながら)Apple

子ども:アポー!

外人:(キツネの絵を見せながら)Fox!

子ども:フォックス!

っていうのを繰り返しているんですよ。そして時々外人の先生がわーっと「今日はいい天気ですね。どんどん暖かくなっていきますよ」ということを早口の英語でしゃべるわけです。もちろん子どもは「??」となるわけですが、こういう行為のたくらみとしては「こうやって生の英語を聞かせていれば英語がどんどん聞き取れるようになるだろう。加えて単語力も鍛えていけば、英語が理解できるだろう」みたいなことがあるんだろうけど、心の中で「…」って思っている。

だって、This is a pen.=「これはペンです」の簡単な構文すら理解しないまま英語を聞かせたところで、何言ってるかなんてわかるわけないし、喋れるようになるわけはないんですよ。Appleがりんご、Foxはキツネ、だなんて英語を学ぶ上で重要度が最も低いのでは?と感じてしまうわけです。もちろん単語は大事だけど、少なくとも3歳の子どもに金かけて教える必要ある??1500語も3000語でも、単語は後からいくらでも増やせるわけだし(私はボキャ貧だけど)、3歳から日本語よりも優先して教えたところで何の役に立つ?そんなの動物ビスケットでも食っとけって話です。

すごく話がそれましたが…

外国語を理解するのである以上、しかも構文も時制も違う日本語母語話者である以上、精読から入るのが唯一の道。今はダイレクトメソッドの本がたくさん出ているけど、英語を多読・多作するしか習得する道はないそうです。

 

★自分にはどんな英語が必要なのか。

じゃあ、そんなこと言ってるけどさぁ、そもそも先生たちの英語力(フランス語力)ってなんぼのもんなの?会社に入ってから英語を勉強してTOEIC満点の人が書いた本を読んだけど。その人はそもそも日本語をすっ飛ばして英語で考えることを勧めてたよ?とか思いますか?実はこの先生たち(とそのまわり)、マジですごい。

私が衝撃を受けたのはこんな発言です。

さいとう:「巷にはTOEIC900点台の人が本を書いているんだけど…満点ではない。満点のレベルも大したことないんだけど、そういう人が本を書いてしまって、日本人がホォーとなる」

満点でも大したことないw

さいとう:「TOEICTOEFLの点数を評価に反映させるっていうの、やりたきゃやればいいけど、TOEICの700点や800点なんて、何にもならないですよ。僕も満点の人を知っているけど、そのままでは使い物にならないもの」

700点や800点なんて、何にもならないwww

さいとう:「(英語で会議の例を出して)日本人がそんなに簡単に英語で会議できないっていうのはいずれわかると思うんだけど、僕が一番恐れているのはこういうのがあまりに蔓延しすぎて、非常に低レベルの英語でやり取りするのが当たり前になって、この英語では勝負できないんじゃないかということを当たり前に考えられる日本語能力が失われること」

まぁそれ以上にびっくりしたのは野崎先生の

のざき:「TOEICって何点満点なんですか?」

って発言ですね。TOEICTOEFLとは別の次元の人だとw

英語教育が変わった要因の一つに、理系の教授からの圧力があったとされます。「最近の学生は、英語で論文を一つも書けない、と」実用的な英語をもっと早く身に着けて、日本語に変換するという過程を抜かして英語で思考できるような教育ができんか?と。

それについて2人は、(ざっくりいうと)理系の英語と教養としての英語は一緒に考えることはできない、と反論しています。理系の人たちにはそういう世界があって、「たどたどしい英語だな…」という論文でも、研究者同士では通じ合っている。そういう人に必要な英語スキルと、言葉になりにくいものを言葉にした哲学的な文章を理解するための英語スキルは根本的に違う。それを同一視してはいけないと。

「英語で論文を書けるように」の英語教育改革の急先鋒はある理系教授だそうですが、ちょっとdisられてるのが面白いw

その先生は妙に英語好きで、英語で議論をするそうです。それを見てみると、その英語たるや、将棋初段レベル。面白くて仕方がない、自分は世界で一番強いんじゃないかと思っているレベルの英語だと。その教授は、ひとしきり喋った後に What do you think about it?? と聞くそうなんですが。これに対して野崎先生は、

「これはある程度語学をやった人が最初に飛びつく表現で、そのレベルでの議論でしかないわけですよ。それが大学の構造改革というかそういうときに一番力を持ってしまうのは納得できない」とコメントしています。

そもそも、英語が必要な度合い(人生の中で英語を必要とする割合:エンゲル係数ならぬ英語係数)は人それぞれ。全員が英語を母語並みに話せる必要ななく(そもそも無理だし)、そんなバイリンガルを作るために巨額な予算を投じるのは間違っている(そもそも方法が間違ってるし)。

英語係数の話をすると、冠詞の一つでも間違うことはできないという外交レベルに使う外国語もあれば、研究者がコミュニケーションをとるための外国語もある。そして「他者」としての外国語もある。全部違うんですよね。

そもそも自分はなんで英語を学ぶのか?を考えずに英語を学ぼうとしても、時間の無駄になるかもしれない。だって、どう頑張ったって日本語でモノを考えるくらいのレベルで英語でモノを考えれるようにはなれないんですから。そして巷にあふれるダイレクトメソッドでは、世界で通用する英語なんて身に着かないんだから。ていうか、日本語でハイレベルに思考できない人が、レベルの低い自分の思考をそれまたレベルの低い英語で垂れ流して何になるんだろう…という気がしてきた。

 

語学の習得は、残りの人生を懸けてやったところで母語話者並みにはなれない…この本を読んでいると、語学の習得を軽く考えていたということがわかります。

例えばこういうエピソード。ドイツ語学者の関口存男氏。彼はその界隈ではドイツ語を書くのも読むのもしゃべるのもめちゃめちゃスゴイ人(らしい)。そんな人が「発音も、99%までドイツ人のそれに近いという自信はありますが、あとの1%はどうにも致し方ないところがある」と言うんですが、あの先生レベルでも母語話者が聞くとやっぱりちょっと違うんだと。その発言に2人は衝撃を受けています。

また、翻訳家の柴田元幸氏。日本語を1とすると英語を読む速度は0.3、吸収量は0.4ですね。だから自分の英語は0.12です…wって、あの柴田さんが!!!となる。しかも斎藤先生は「TOEIC900点の本とか書いてる人は、その柴田さんの0.何パーセントの英語力を持っているだろう」と畳みかけるしw

将棋初段レベルの人が「どうだ、すごいだろ?」と言う中、名人が「いやぁ私はまだ山麓で…」と言っているよ、ってことですね。

 

大学に入学すると、第二外国語の選択が控えていますし、英語も引き続き学ぶことになります。読んだ限りでは「みんな死ぬ気で英語やれよ!」というメッセージは読み取れません。逆に、外国語を習得するのがどんなに困難かが示され、

・英語で思考するようになれる

・聞き流せば英語は習得できる

・英語漬け生活をすれば英語で自分の意見を表明することができる

ということが、ただの幻想であることが理解されます。

そうすると、中途半端にTOEICの点数稼ぎのために勉強するくらいなら、自らの頭で考えることをしないと、英語どころではなくなるのでは?という気がしてきます。しかし、企業もどこでもTOEIC一辺倒ですから、そういうところも変わっていかなければないですね。

とりあえず、英語が読んでみたくて洋書を買ってみました。未邦訳だけど大丈夫かな??毎日少しずつ読んでいきます!

みんな、間違っても聞き流す系の英語勉強するなよっ!笑

 

おわり