はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

なぜ人間は、未踏の地に惹かれるのか ジェフリー・アーチャー「遙かなる未踏峰」

こんにちは。

 

ジェフリー・アーチャー「遙かなる未踏峰

主人公は、「そこに山があるから」で有名なジョージ・マロリー。彼の人生に”着想を得て書かれた”作品とのこと。確かに、話が出来過ぎている上に、きれいにまとめられている感半端ないため、おそらく実際に起きた出来事以外はほぼフィクションだと決めてかかって読むのがちょうど良いとは思う。笑

 

遥かなる未踏峰〈上〉 (新潮文庫)

 

ジョージ・マロリーはイギリスの司祭の子として生まれました。幼い頃から運動神経がずば抜けており、好奇心も旺盛で大変生意気。そんな息子の危なっかしさに、いつもハラハラさせられている母と、なんだかんだ言って理解がある父。つつましく幸せに暮らしていました。

プレパラトリー・スクールに入ったマロリーは、のちに親友となるガイ・ブーロックと出会い、登山の喜びに目覚めます。その後ケンブリッジに進学した彼は教師の職を得、美しい妻とも出会いますが、その後従軍。除隊後は教師の職に戻り、アマチュアながらも彼の生活の中心には登山がありました。モン・ブランなどの山々を、男の心をとらえて離さない女神と例え、高くそびえ立つ山を制覇することに魅力を感じています。

ちょうどその頃、世界の国々は未踏の地の初制覇に躍起になっていました。例えば南極や、エベレスト。エベレストの登攀隊長に選ばれたマロリーは、山頂に妻の写真を置いてくると約束し、エベレストを目指したのでした。

 

ご存じの方もいるかもしれませんが、マロリーがエベレストの山頂に到達したかどうかは未だわかっていません。妻の写真の行方はわからず、共に山頂アタックしたアーヴィンのカメラも見つかっていない。何年か前のナショジオでも特集が組まれており、ドキドキしながら読んだのを覚えています。

 

最初に「きれいにまとまりすぎ」と言ったとおり、友情の物語も◯、夫婦の愛の物語も◯、山岳小説としても◯、と、可もなく不可もなく…全体的に無難な仕上がりとなっています。心震わせるようなシーンもなく、「まあそこに落ち着くのが一番いい感じになるよね」という展開ばかりではあるのですが、政治的な駆け引きの描写には力が入っています。

 

エベレスト登頂は、国家の威信を賭けた事業。

1921年、1922年、1924年と計3回の遠征が行われました。

マロリーが大変優れた登山家であるということは誰もが認めていることですが、彼が何のトラブルもなく重要な役職を与えられたのには、「生粋のイギリス人で、ケンブリッジ卒」であることも大きく作用したと思われます。イギリスを代表してエベレストに登る以上、マロリーのような経歴がふさわしいと、そういうわけです。

マロリーが登山家として自分並の実力と認めているのは、フィンチという男。オーストラリア人の化学者です。私生活には大変問題あり、酸素を積極的に使用するというお行儀の悪さ(当時は聖域たるエベレストに酸素は無粋だというような精神論がまかり通っていました)。素行も悪く、オーストラリア人ということもあり、お偉い方は快く思っていません。マロリーの懇願かなわず、フィンチは第3回遠征隊には選ばれませんでした。

 

登山というおよそ学歴・出自・人柄・ポリシーなど関係ない実力勝負の世界で、「理想」という鋳型に現実を無理矢理当てはめようとする権力者達。その代償を払うのはクライマー達です。世界で初めてエベレストの山頂に立つべきは、イギリス人に限り、こんな学歴を持ち不倫なんかとは無縁で…と、最も大切にすべきクライマーとしての実力をないがしろにした結果が、第三回遠征隊の悲劇を招いたのかも知れません。

 

本質とはかけ離れた議論の連続にイライラ。そりゃ自分たちはブランデー片手に結果だけ待ってりゃいいんだもんな、となる。マロリーは一矢報いようとしますが、狸オヤジのほうが一枚上手で、フィンチの同行は叶いませんでした。

 

この本は、つまらないはずの遠征隊の人選に多くのページが割かれています。人選時の駆け引きはなかなか面白い。遠征隊の隊長にブルース将軍っていうのがいて、エベレストに風呂釜持ち込んだりするし偉そうでむかつくしフィンチと反目し合っていたんだけど、第三回遠征隊の人選の際は、周囲の予想に反してフィンチの登用を主張します。フィンチが大嫌いなのと遠征の成功は別。確かにブルース将軍は嫌なヤツだけど、危機管理という点で見ると至極真っ当なことを言っていて、昔の手柄自慢ばかりだからといってバカにできない。

腐り果ててるなって思うのはヒンクスという男。前例重視!風見鶏!権力におもねる嫌なヤツ!!という。

 

こういう政治的なすったもんだの果てに組織された第三回遠征隊。

マロリーとしても「これが本当に最後」という思いだったそうです。「ごめん!!俺の夢だから行かせて!!」と言って出て行った前回の遠征とは異なり、第三回は複雑な要因が重なって受け入れざるを得ませんでした。気乗りしない遠征、しかもフィンチもおらず、不安要素だらけの遠征がどんな結果を招いたか…、切なくなりました。

 

ジョン・クラカワーの「空へ」なんかを読み、映画「エベレスト」も何度も見て、行ったこともないのにエベレストを登った気になった私としては、「まあ、デスゾーンだものね」「サウスコルか…」「ああ…ヒラリー・ステップね(当時はヒラリー・ステップという名前はついていない)」なんて勝手に歴戦の登山家気取りで読み進めました。

過去に本や映画なんかで得た知識がつながるとなんか嬉しいですよね!

 

「そこに山が」発言を念頭に置いて、逆算して作ったようなエピソードの数々で”置きに行った感”は否めませんが、読むと良い気分になれる、軽めの読書向きの小説。おそらく本物のエピソードを知ってしまうと「……結構普通だな」となる気がするので、読み終わった後に詳細をWikipediaで調べるのは止めましょう。笑

 

おわり。

自分の「心」の在処は他人を介さないとわからないのかもしれない カズオ・イシグロ最新作「クララとお日さま」

こんにちは。

 

カズオ・イシグロ「クララとお日さま」

ノーベル賞受賞後初の長編です!!

長らく楽しみにしていたこともあって、一日で読み切ってしまいました。

早く次の長編が読みたい。笑

クララとお日さま

主人公はAF(人工フレンド=Artificial Friend?)のクララ。AFは、身の回りの世話をするロボットなどとは少し違って、あくまでも子どものお友達になるために作られたようです。市場に投入されて間もないのか、AFは結構なお金持ちではないと手が届かない代物。また、不具合なども報告されているようで、次のバージョンに向けて市場からの評価を吸い上げて日々改良されているような段階。

クララはジョジーという女の子の家で暮らすことになりました。ジョジーは病弱な女の子で、ほとんど家の外に出ることができません。ジョジーの母がAFを購入したのは、「外に出ることができない娘にお友達を」という以外に、もっと重要な目的がありました。

AFは太陽光から自らのエネルギーを作っているのですが、「ジョジーにもお日様の力添えがあれば」と考えたクララは、ある計画を立てます。それが「クララとお日さま」というタイトルの由来。

 

世界観としてはSFチックで、ディストピア小説にも思える。

後々明らかにされるのですが、「向上処置」という遺伝子操作がジョジーに加えられており、そのせいで体調が悪いことがわかります。また、ジョジーの姉も向上処置のせいで亡くなっています。反対に、隣の家に住むリックという男の子は向上処置を受けなかったせいで能力が低く、進路が限られてしまっています。

町にはAFらのせいで職を追われた失業者があふれており、向上処置の有無で格差が固定化されていく怖い世界。ただ、それ以上に怖いのは、登場人物がこういった社会の問題について考えるのを放棄し受け入れてしまっていることです。根本的な問題には目もくれず、せかせかと生き、笑い、普通に過ごしている人の群れには、なんかぞっとするものがあります。

 

舞台はディストピアですが、この本のテーマは、「人間の心」という大変普遍的な問題です。クララは、いずれ死んでしまうジョジーの替わりとなれるのか?という問いに対し、ジョジーの母・父が真剣に向き合います。

「人間の心のはたらきは計り知れない」というのは前時代の空想であり、全て数値化や解析が可能である、と考えられている時代のお話。認知能力が特に優れたAFであるクララさえいれば、ジョジーの行動も思考も「完コピ」可能、という母のほうが優勢で、人間の心の中にはたくさんのドアがあって、全部開けたつもりでもまだ開けてないドアがあったらどうする?と主張する父はちょっと古め。母の二度目の挑戦(実はジョジーの姉の時にはAFの技術が追いついておらず失敗した)をめぐって対立する母と父でしたが、父の発言の中からその答えはおのずと出てしまっているんです。

 

母の性格からすると、本当にクララがジョジーを巧みに演じたとしても、最後の最後に拒絶して失敗としてしまうはず。そういう自分だって、心は完全に理解されたということを認めたくない意地で反対しているだけなのだろう。

 

と、「人間の心」がどういうものかどうかは、その人間に相対する他人の目を介してのみ判断されるものかもしれない。母も父も、つまるところ、「心なんてないのではないか」というところに着地してしまっている、やや皮肉な答え。

 

自分の命は誰のもの?自分の心は誰のもの?という問いは、「私を離さないで」と通じるテーマではありますが、「人間を喜ばせる」というプログラムをされたクララが抱くそれは、「私を離さないで」以上に胸に迫るものがありました。ジョジーを助けたいというクララの思いは実るのか…?珍しく救いのある展開で、大変幸せな気持ちになります。

 

カズオ・イシグロ特有の伏線回収や読者を煙に巻くやり口は健在ですが、あっさりめの内容。

世間ウケ意識したのか?と思うくらい、調理される具材も、味付けもあっさり塩味。AFが主人公ということで?信頼できない語り手も不在で、そこは少し残念でした。

ただ、最後の数ページの感動は圧巻!トリハダものです。

 

充たされざる者忘れられた巨人、私たちが孤児だった頃…などと非リアリズム作品に翻弄されていた私からしてみたら朗報ですが、もう少し”らしい”作品が読みたい気も。とりあえず、次の作品を首を長ーくして待つことにします。笑

 

おわり。

 

 

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生きづらい女の切ない物語に、おばあの優しさが光を灯す 新潮クレスト「サブリナとコリーナ」

こんにちは。

 

カリ・ファハルド=アインスタイン「サブリナとコリーナ

久々の新潮クレストブックスです。

ミステリにどっぷり浸かっていた数ヶ月の間に、また良い作品がいろいろ出てきたみたいで嬉しい。

サブリナとコリーナ (新潮クレスト・ブックス)

ヒスパニック系コミュニティに生きる女達を描いた短編集。

おそらく一般的な短編の中でも短めで、あっという間に読み終わってしまいます。余白の美ならぬ余韻の美。ざらついた舌触りの作品ばかり。個人的には、心情を解説し、これでもかとたたみかけてくれる長編のほうが読みやすいと思っていて、短編は無意識に避けてしまうのですが、「サブリナとコリーナ」は、一時的な気持ちの揺らぎをつぶさに描くことで読者に違和感を与える、長く心に留まる作品ばかりの秀作揃い。

全米図書賞最終候補作。

 

家出を繰り返す母を持つ娘の哀しい日常を描いた「シュガー・ベイビーズ」、若くして亡くなったいとこの死に化粧を施す話「サブリナとコリーナ」、奔放な妹の危なげな生き方に嫉妬してしまう不器用な姉を描いた「姉妹」、母ひとり子ひとり、ときどき遊びに来る異母兄弟のむなしい日々「治療法」、兄の家に居候する私と、母に捨てられた甥トミの優しい関係「トミ」、男に人生を託して失敗する母を恥じる娘の、行き場のない苦しみを描いた「西へなどとても」など、とにもかくにも切ない物語11編。

 

著者の育ったヒスパニック系コミュニティというのは、複雑な背景をもっています。白人の暮らす清潔な区画とは分かれていて、貧しい暮らしをしている人が多い。コミュニティの出自もバラバラで、仕事の都合で引っ越しばかり。その日暮らしで、落ち着かず、惨めな暮らし。

貧しいコミュニティによくあるように、男は暴力を振るう、女は若くして妊娠する、自活する術を持たない女は男にすがらざるを得ず、結婚に活路を見いだすが、結婚後も苦労が続く。

この物語の主人公は全て女。非力な存在であり、有色人種であり、貧しい…生まれながらにそんな条件を備えている女、すでに生きづらさMAXなのに、この物語の主人公にはもう一つ、「変わり者」という共通した特徴があります。

親が変、貧しい、不潔、学校休みがち…というどうしようもないものに加え、真面目すぎる、頑固、無愛想、カタい、可愛げない…という哀しさ。いつも孤独で理解されず、家族にも疎まれることさえある。

「ヘン!」って言われるのは誰でも嫌だけど、閉鎖的な学校生活でそういうキャラになってしまうのは大変しんどいもの。クラスメートを図書館で見かけた女の子がこんなことを思います。

彼らは新しくペンキを塗った素敵なアパートに住んでいて、彼らの車はどれもちゃんと走り、そして彼らが人前で話しかけてくることは滅多にない、ひとつの場所にふたつの世界があるのだ。でも、彼らがいるのが長くなれば長くなるほど、自分の世界が彼らの世界につぶされていくのではないかとアナは心配になる。

うん、なんかすごくわかる…わかってしまってはいけなんだろうけど、イケている女の子達が幅をきかせる学校で、自分の席にいるのに何故か間借りしているような感覚になる、そういう感じ。すでに生き辛い要素を抱えているのに、周りにもなじめない、早熟な女の子たち。早熟なのには自分のもとの性質に加え、親の代役を求められたから、という切ない事情もあるでしょう。

著者も長らく「自分の居場所がない」と感じていたそうです。同じような女の子がいたら、この本の中に居場所を感じてほしいと思っているとのこと。

この本はリトマス紙的な存在かもしれない。「なんかよくわかんねぇ」と感じる人は幸せ者。逆に、すっごい、これ私のことだ…!ってなってしまったが最後、「ようこそ!あなたも”生きづらい派”ね!」と歓迎を受けてしまうという。嬉しいような嬉しくないような。

 

ただ、この物語には、「パワフルなおばあ」という救いがあるのが魅力。厳しいけれどいつも正しい道を示してくれるおばあの存在が、この物語を単なる悲惨な物語とせず、光を見せてくれています。

「治療法」では、何をしても消えなかったシラミを退散してくれ、「西へなどとても」では、危なっかしい母を抱えて苦しむ主人公の唯一の心のよりどころとなっています。

(おそらく)子どもの時から虐げられ、早くして結婚し、夫にも虐げられ…何度ももがき苦しみ、それでもパワフルに今を生きているおばあが、唯一の救い。

 

物語には、主人公に限らず、親の不在に苦しめられる子どもがたくさん描かれます。ただ、そんな母も100%ダメ親なのではなく、少なからず子どもに良き教えを授けており、そんな垣間見える小さな愛情にいちいち胸打たれる。(子どもはそういう小さな優しさにすがって生きていくからもっと辛いんだけどね…)

ダメ親とその被害者として大人になることを強いられた子、という構図はもちろんあってはならないもの。ただ、それを心の弱さだとか自己責任だと切り捨ててしまうのは雑すぎる。ダメ母だって捨てるつもりで子どもを産んだわけじゃなく、良い母になろうとして、何度も自分を奮起させ、でもダメになって…を繰り返したんだろうなぁということくらいは思いを巡らせてあげたい。

 

この本を読みながら「マンゴー通り、ときどきさよなら」を思い出していたんだけど、やっぱ影響を受けていたとのことです。この本も良作なのでオススメ。

 

 

さて、デビュー作で素晴らしい作品を描いた著者ですが、次は長編に取りかかっているとのこと。

次回作も期待してしまいます!!

 

おわり。

人生には、背を向けて立ち去るべき時がいくつかある。その時を見誤るとどうなるか「解錠師」スティーヴ・ハミルトン

こんにちは。

 

エドガー賞受賞作。

「解錠師」スティーヴ・ハミルトン

解錠師 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

ある事件がきっかけで話すことができなくなった少年マイクルが、刑務所で半生を振り返る。金庫破りになるまで、ある少女との出会い、そして今まで無効にしてきた数々の鍵たち。

ミステリーというよりはボーイミーツガール系の小説です。

 

ストーリーの進め方は大変教科書的で、大きなトラウマになるような事故に遭ったこと、それにより両親を失ったこと、アメリアという女性に会い(おそらく)恋をしたことが序盤で示されます。彼のトラウマとは何なのか、アメリアとの恋はどうなるのか。金庫破りをしている今のエピソードに、金庫破りになるまでの過去のエピソードが追いついていき、全ての謎が明らかになるという構成。マイクルに襲いかかった悲劇…、これが気になって、次々ページをめくってしまいます。

 

この仕事がなかったら餓死していただろうと回想するマイクル。両親を失い、貧しく、自分の殻に閉じこもり喋ろうとしない男に、輝かしい人生が用意されるとは思えません。その上金庫破りの素質ありとなれば、よっぽど注意しない限り悪い人間に利用されるのは必定です。

ただ、育ての親(叔父)や唯一の親友など、彼を良い道に導いてくれる存在は側にいるんだけど、その有り難さには結局最後まで気づくことはなく、相次いで選択をミスってしまいます。若さ故なのかな?それともバカなのかな?なんて思ってしまうほどほど、無鉄砲でやけっぱち。

 

おそらく多くの読者がマイクルを応援したくなることでしょう。

ぶっきらぼうで人をイライラさせずにはおかない態度を、ハラハラしながら見守ることに。それ以上に、彼の”仕事ぶり”に手に汗握ります。ゴーストという悪の親玉との対峙も面白い。

 

ただ、読み終えた感想は一言、

わーすごい、びっくりするほどつまらない

という感じ。これがエドガー賞なのが一番のミステリー。読んだ時間が無駄に思える作品です。笑

切なくて息苦しくなるような真相もなければ、犯罪者の少年と金持ちの美しい少女の恋物語と聞けば悲恋の予感がするけれども、驚くほど幸せな結末。10代後半で抱いた恋心、三十路過ぎまで、しかも刑務所の壁に隔てられてもなお持ち続ける姿を見せつけるという少女漫画な展開に涙が出てくる。

 

グチついでに裏表紙の作品紹介へも文句を。

「ひょんなことから解錠師に弟子入りした」と書かれているけど、中身読まずに書いただろ、ってなる。「ひょんなことから」じゃなく、「のっぴきらなねぇ事情から」ですよ。「ひょんなことから金庫破りに!?」っていうノリは同人誌みたいでマイクル可哀想です。

 

最近ちょっとハズレが続いていて寂しい。次こそは…!!

 

おわり。

ゴシックミステリにおあつらえ向きな舞台装置を十分に生かせなかった残念賞「ホテル・ネヴァーシンク」

こんにちは。

 

アダム・オフォロン・プライス「ホテル・ネヴァーシンク」

アメリカ探偵クラブ賞 最優秀ペーパーバック賞受賞作。

ホテル・ネヴァーシンク (ハヤカワ・ミステリ)

昨年12月に発売されたばかりのこちら。年始に「2021年に読む本リスト」を作ったときの大本命。古いホテル×失踪事件×家族の秘密…という設定。舞台はととのった…!!という感じで超期待して読み始めたのですが、総合評価としては★2くらい。ざんねん。

 

最初はめっちゃ面白いんです。

ある金持ちの男がたくさん家族を作るだろうと見こんでデカい屋敷を建てるが、妻になる予定の人は嫁入りを前にみんな死んでいくという不運に見舞われる。それでも狂ったように増築を続けた彼は、屋敷を完成を見ることなく自殺してしまう。後に残ったのは90室以上ものゲストハウスを備えた奇妙な屋敷だった。

このプロローグだけでもゾクゾクしてしまう。ホーンテッドマンションなんかを思い浮かべてしまいます。そんないわく付きの屋敷を購入してホテル経営をしたシルコスキー家がこの物語の主役。

創業者のアッシャー(父)→二代目ジーニー(娘)→三代目レン(ジーニーの次男)とその家族(ときに従業員)が、ホテルにまつわる思い出を語るという構成です。彼らの語りにより、1950年~2012年と60年にわたるホテルの物語と、特にホテル没落のきっかけとなった子どもの失踪事件をつまびらかにするという着想はすごく良いけれど、時系列なのが微妙です。エピソードをランダムに提示したほうが謎の賞味期限を延ばすことができて面白かったと思う。

さらにそれぞれの語りにも関連性が薄く、あの人とあの人の言い分を突き合わせると…!というような推理ができないのも大変不満。最後まで読んで、犯人(というか黒幕)の告白を読まないと真相はわからない(ヒントすら示されない)という雑さにも嫌気が差す。

一番イラッとさせられるのは、エピローグまで引っ張って示される真相が超絶チープであること。

犯人は神出鬼没な男であることが随所で示されます。ホテルの関係者のところにヌッとあらわれては消えていく謎の男は、同一人物なのかどうなのか、というのがまず第一の悩みどころ。その頻度の高さが不自然のため、何十年もの間そんなにフラフラしてたら誰かしらが捕まえてもいいものなのに、それでも捕まらないというのは幽霊なのか…?と真剣に考えてみたりもします。途中で一度尻尾を出すんだけど、何故か華麗にスルーされるという…犯行の動機のよくわかんねぇし。

 

ミステリ好きでなくても、「ああ、こいつか…」というのは察しがつくし、犯人を「幽霊じゃなくて人間」&「同一人物」でソートすると、そいつ以外の登場人物に犯行は難しいという、ミステリの風上にも置けない作品。

舞台がすごく良いんだから、ヒントを小出しにして読者を煙に巻いて、伏線の回収ももっとしっかりしてほしい。とりあえず、伊坂幸太郎に弟子入りしてこい!なんて思ったり。笑

 

短編としてそれぞれの人生は面白く読めました。三代目はなんとやらとは言うけれど、三代目のレンの人生は哀れとしか言い様がない。

本書のテーマは「自分の本当の人生を生きること」の意味です。

「本当の自分の人生はよそにある」と思っている彼らの目の前に居座っているのが「ホテル・ネヴァーシンク」。人は目にした者で育つというけれど、暗く、いびつで、不穏で威圧的なこの建造物が彼らの心に影を落としていたのは間違いありません。目の前から消えてほしいと願いながらも、このホテルが消えることで世界と強制的に向き合わざるを得なくなるため、結論を後回しにしたいという隠れた恐怖も透けて見えます。

ホテルはまるで彼らの鏡。ホテルに向ける執着や嫌悪感は、まさに自分のコンプレックスと合致しているのです。ホテルの荒廃から目を逸らしながらもホテルをなかなか離れられないのは、きっとそういうところからきているのでしょう。

 

「本当の自分の人生を生きていない」という思いを抱えて生きる彼らが、ホテルのそばで生きている間にはその悩みとの折り合いをつけられず、最終的には離別を選択するのは考えさせられるものがあります。前と変わらない人生を送る人もいれば、逃げることで幸せになれた人もいる。

 

さて、そんな心に抱えた黒いものを浮き上がらせる「ホテル・ネヴァーシンク」には、モデルとなったホテルがあるそうです。その名はグーロージンガーズ・キャッツキル・リゾート・ホテル。もう閉館しているそうですが、すごく気になる…!イメージが崩れたらどうしよう、そんなことを恐れながらも、きっと好奇心に負けて5分後には検索しているんだろうと思います。笑

 

おわり。

赦すことで得られる癒しの記憶を積み重ねること 「アーミッシュの赦し:なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」

こんにちは。

久々のノンフィクション。

アーミッシュの赦し:なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか」です。

ノンフィクションながら、胸に染みわたる作品。じっくり時間をかけて読みたい反面、ページをめくる手が止まらず、2~3時間で読み終わってしまいました。一度きりしかない人生をどう生きるのが良いか考えさせられます。下手な自己啓発本なんかより明日を生きるための糧になる!

アーミッシュの赦し――なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)

事件は2006年10月2日、ペンシルベニア州ストラスバーグ ニッケル・マインズという地区にあるアーミッシュの学校で起きました。近くに住む非アーミッシュアーミッシュはしばしば彼らをイングリッシュと呼ぶ)男性が、銃を持って学校に押し入り、女の子を人質にとって銃を乱射し、5人の犠牲者と5人の重傷者を出したもの。犯人はその場で自殺しました。

アーミッシュプロテスタントの一派で、テクノロジーを否定し、昔ながらの慣習に従って生きていることで有名です。そんな彼らは一派の中でも「オールド・オーダーズ」と呼ばれています。俗世間に背を向け信仰の中で暮らす彼らの集落で起きた事件に、アメリカ全土は大きなショックを受けました。独特の文化の中で平和に暮らしていた彼らまで暴力の犠牲になるなんて…と、アーミッシュを、アメリカの良心のように思っていた人も多く、9.11の傷も癒えないうちに、アメリカの大切なものをまた一つ奪われたような気になったのでしょう。

 

この事件は世界でも大きく取り上げられました。ただ、事件そのもの以上に印象的だったのは、アーミッシュ達が犯人(の遺族)を率先して赦したことです。事件から数時間のうちに、アーミッシュは犯人の男の妻や家族の家を訪問し、「赦す」ということを伝えたのでした。憎むべき犯人への「赦し」、そして赦しに至るまでの迅速さ(数時間!)は、世界で賛否両論を巻き起こしました。

彼らを過度に神聖視して泣いちゃう人多数、「9.11」の事後処理をアーミッシュに委ねていたら…なんてことを言い出す人までいる。逆に、「こんな事件を赦す社会に誰が住みたいか」と、元々冷笑されていたアーミッシュの言動に懐疑的なまなざしを向ける人も一部いました。いずれにせよ、しばらくの間、アーミッシュが置き去りのまま「赦し」のエピソードが一人歩きしてしまいます。

本を最後まで読み終えた後に批判や賞賛を読んでみると、「好き勝手にアーミッシュの赦しを理解している」ということがわかります。涙ながらに「人間の善」を強調する人もいれば、イラク戦争の批判の糸口として利用されたりもする。

本書は、アーミッシュへの丁寧な取材を元に、多くの疑問・違和感を解決する構成です。

 

物語を貫くのは一番大きな疑問。

どうして数時間で赦したか(そもそも数時間で赦せるのか)という点。

懐疑派が絶対に突っ込んでくるのもまずココです。

「感情の欠落」「運命論的態度」「迅速さ」への批判…。悲しみを乗り越えるには時間が必要です。自分の愛する人を失ったら尚更。数時間で「赦します」という宣言をするのは、やや機械的ではないか?形だけなのか、それとも神の思し召しとして諦めているのか、それってどうなの??と。アーミッシュは何かあってもすぐに赦せるような思考回路なのかなんていう報道もありました。

 

その答えはシンプルに、「赦されるためには赦さなければいけない」という教義に則っているからです。考えた結果ではなく、主がそのように求めているから、です。だからその迅速さも頷ける。彼らは、キリスト・ファーストの生活を300年も続けてきました。キリスト教の教義をもとに、300年以上も口伝で継承されてきた細かな行動規範は、加害者を「赦す」ことしかない。言ってしまえば、それ以外の選択肢は持ち合わせていないのです。

ただ、「赦されたいから」という利己的・形式的なものでは決してない。取材の中で判明したのは、赦すと決めた加害者家族と、長年にわたり密な関係を築いているアーミッシュの姿。彼らからは「何度でも赦し直す」という言葉が聞かれました。怒りがわいてくることは時々ある、苦しいが、そのたびに赦し直しをするのだ、と。

本文中ではこういうのを「レパートリー」と呼んでいます。卑近な例でいうと、カラオケのレパートリーと同じ。自分の番が回ってきたときに「とりあえず」と、ぱっと出てくるもの。

個人主義の世の中では、信念と行動のレパートリーがバラエティに富んでいるのに対し、アーミッシュにおいては、信念と行動のレパートリーはコミュニティによって決められています。

 

「信念と行動のレパートリーがコミュニティによって決められている」

これらのことについて、本書では何度も注意喚起させられます(個人主義の私たちは忘れがち)。この前提に立つと、個人主義という自分の狭い視野からの批判やアホみたいな賞賛が「ちょっとピントずれている」と感じてしまうのです。

 

例えば、「シャニング(忌避:アーミッシュのコミュニティ内の村八分のようなもの)」への批判。「射撃犯にはやさしくて身内には厳しいのね!」なんてやり玉に挙げられていましたが、これもズレている。

アーミッシュはコミュニティの存続を最優先に考えます。コミュニティ存続を脅かす個人の身勝手な行動は厳しくたしなめるのは(アーミッシュ的には)当然のことなのですが、「殺人犯を赦すほど優しい人たちなのに、村八分するなんておかしい!」と批判されてしまいます。

アーミッシュの赦しを、人間の中に(私たちの中にも)存在する善良な部分・聖なる部分であると信じたい、まだこの世界に美しい世界があると信じたい思いによって、アーミッシュの赦しが屈折した解釈をされていたことは否めません。

 

無知・無理解から起きる謎の批判や謎の賞賛について、それは違うと訂正していく趣なのですが、冷静に、理論的に説明をしてくれるので、読み終わった後に一気に世界が開ける感じがします。

 

そして、この本はさらに、その赦しには一般性があるのか、という点に踏み込みます。

私たちにはこのような赦しは可能なのか…?

 

著者は前提として、「いいことをすると自分がマヌケだと感じてしまう社会である」と言います。それはおそらく、アーミッシュの世界と逆の価値観。その中で、いかにして赦しを実践するのか?赦しは可能なのか?

これには明確な答えは出ません。

また、「赦す人は赦さない人よりも幸福で健康な生活を送れる」「憎しみにとらわれるのは、加害者が自分の人生をコントロールしていると同じ」…など、深イイ言葉は出てくるのですが、私的には正直「弱い」と思ってしまう。

 

赦しの一般性について示唆に富んでいると感じたのはこんなエピソードです。

アーミッシュが銃撃事件の犯人を赦したことについて、『子どもにどう説明したらいいかわからない』」と言った母親がいたという。

アーミッシュの子どもは、大人たちの赦しを完全には理解していない、つまり、アーミッシュの世界でも、赦しは成長の過程で学んでいく後天的なものということです。

無垢な状態で生まれ落ちてからずっとキリスト教の教えのシャワーを浴びてきたアーミッシュは、憎しみや怒りを知らずに赦すことのできる特別な人間になれる、なんていうことはない。赦しは学び得るものなのです。理不尽な出来事には誰もが怒り・憎しみを覚えるけれど、その後の気持ちの持ち方は、人それぞれどうとでもしていける。

そんな彼らは、「赦しは癒やし」と言います。赦しを継続させるためには、「赦したことではなく、赦したことで得られた癒やしを覚えておく」が重要なのです。

 

私が注目したのは、アーミッシュのコミュニティの生き残り戦略のしたたかさ。

時代に取り残された人たちだと、アーミッシュを格下に見て冷笑する人は多いですが、どこのコミュニティにおいても、存続・繁栄が第一目標だとすると、20年毎に構成員が倍増しているアーミッシュのコミュニティは、少子高齢化に苦しむ国なんかと比べると、優れているとも言える。高齢者・障がい者も国任せにせず、金銭的な面でもコミュニティ内で面倒を見ています。

男と女の役割が決まっている世界なので、DVも頻発していたようでしたが、最近はそういう案件をコミュニティ任せにせず、公的機関を介入させることもあるそう。近代的なものを否定して後ろ向きに見せながらも、良き世界になるように実は歩みを進めているところ、したたかだな(良い意味で)と感じます。

また、本の中では「赦すと言うことにおいて300年分先行している」とも書かれていますが、彼らのグリーフケアの手厚さは素晴らしい。身の回りの家事をコミュニティの人間が肩代わりし、葬式等の儀式もコミュニティが請け負う。その後数ヶ月に渡って、延べ数百人が家を訪れ、手を握って彼らの悲しみに寄り添います。苦しみは決して個人のものではない、という状況が、赦しへと一歩一歩歩みを進めていくのでしょう。

 

アーミッシュはとにかく独自の文化です。

もちろん彼らに懐疑的な目を向ける国民が多いのも事実ですし、単にコミュニティが拡大しているだけで繁栄をはかることはできませんが、300年もの間継続しているコミュニティにはそれなりの理由がある。ただ単に「神の思し召し…」と言っているだけでは繁栄しないわけですから、時代に逆行していると見せかけてすごい力を秘めているんだなぁと感じます。そんな彼らの強さを「人間の満足と幸福を叶える三要素(1)コミュニティ、(2)帰属意識、(3)アイデンティティを満たしているから」と評す著者。

確かに、孤独とはほど遠いこの世界。見習うべきところもあるのかもしれません。

 

もし今こういうことがあったなら、まとめサイトにニュースサイトに…格好の餌食でしょう。情報の受け手は見たいものだけ見て、1年もしないうちにすっかり忘れる。情報を垂れ流しして事実の検証は後回し、というのは視聴率やアクセス数稼ぎの常套手段ですが、情報源を見極める目は持ちたいなと思いました。

 

おわり。

ジョン・ハート「川は静かに流れ」

こんにちは。

 

「ラスト・チャイルド」の作者ジョン・ハート、こちらも高評価な「川は静かに流れ」です。玄関のポーチから川が見渡せる、という語りから始まるこの小説、舞台が良い。大きな川を擁する町って、それだけで絵になります。

 

川は静かに流れ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

Netflixで人気作品の「Vergin River」というドラマがあるんですが、こちらも川沿いの町が舞台で、ときおり挟まる情景がステキ!日本のちっこい河川、Arakawa River沿いなんかでは到底起きそうにないロマンスがてんこ盛りです。

Virgin Riverは、田舎町に逃げ込んできた女メリンダと、彼女に好意を抱いてしまうバー経営者ジャックのすったもんだがテーマなのですが、夫の一周忌も待たずにジャックにとりあえず抱かれてしまうメリンダと、元カノを妊娠させておきながら、元カノの目の前でメリンダといちゃついてしまうみっともないおじさんジャックの人間臭さが見物。

身勝手放題の二人ですが、いざ風向きが悪くなると、メリンダもジャックも「夫が死んだとき…」とか「イラクが…」と「過去のトラウマ!!!」を取り出して被害者面。人の目も気にせず我を通し、責められると被害者面をするという、田舎の頑固オヤジ化していく都会育ちのメリンダがツボ。

自分の欲望に素直でイイですね~。都合が悪くなるとトラウマという錦の御旗を振りかざす!!自分本位でファンタスティック!!!

と、私の中の村西監督が顔を出す。笑

話がそれましたが、「Virgin River」主人公がとっても美人なので是非見てみてください!!

 

 

さてさて、

主人公アダムは、生まれ育った町に6年ぶりに戻ってきました。6年前、殺人容器をかけられたアダム。無罪となったものの周囲の彼を見る目は変わることなく、父親には勘当されたも同然の身。「ここは自分が全てを失った場所」と言いながらも戻ってきたのにはかつての友人ジョーからの懇願があったからです。

6年ぶりに戻ってみた町は、原発推進派と反対派に分かれて真っ二つ。広大な土地を所有しながらもそれを売ろうとしないアダム父のせいで、原発計画は頓挫しそうになっており、一触即発の雰囲気。モーテルにいたのに外に連れ出され半殺しにされるなど(そして警官の元カノにその姿を見られるなど)散々な目に遭います。ジョーはガールフレンドを殴ったとかで雲隠れしており、話すこともできません。

そんな折、アダムが妹のように大切にしていた女性グレイスが何者かに暴行されるという事件が起きます。その後もアダムの周りで謎の事件が続き…ついには実家の敷地内で死体が見つかります。アダムが帰ってきたその日から立て続けにこんなことが起きるなんて…警察の彼を見る目も冷たい…

(やめとけばいいのに)アダムは独自で捜査に乗り出します。関係者に無遠慮に近づいていく彼は、自分の家族に巣くう闇や父親の大きな嘘に気づき、ついに、6年前の事件との関連まで突き止めて…

 

崩壊の序章である6年前の事件とはこういうもの。

アダムの義理の妹・弟(双子)のパーティの日で青年が殺害されます。アダム逮捕の決め手となったのは、継母(義理の妹と弟の母親)の証言でした。

・アダムと同じ年頃娘と息子を連れて再婚した継母。

・彼女が一人だけアダムに不利な証言をしている。

うーん・・・こういうの「やくまん」って言うんじゃなかったっけ?

と、事件そのもの、ついでに本当の黒幕についての謎は簡単に解けてしまう気がするんだけど、この物語の本当のテーマは「家族の再生」なので早まらないで読み続けることにします。

ジョン・ハート「崩壊した家族は豊かな文学の土壌だ」(趣味悪)というようなこと言っているけど、今回もそういう趣。ちなみに本作品も「ありふれた祈り」も「ラスト・チャイルド」もエドガー賞で…エドガー賞は家族の再生系多くない?なんて思ったりするんですが、それはアメリカで人気のテーマなのかしら?

 

アダムの母は小さいときに自殺をしました。死の理由もわからず、アダムは母の喪失に苦しんできました。そんなときにやってきた継母。6年前の事件の際、唯一彼に不利な証言をしたのが彼女なのですが、アダムの父は妻のほうを信じ、アダムを追放します。

母の死に父の不信…実質的に家族を失った彼は、二度と帰らないと心に決めて故郷を後にしたのでした。

6年ぶりに戻ってきたあとも、父と義理の家族との関係はぎこちなく、溝も埋まらない。さらに、新たな事件をきっかけに今まで隠してきた秘密も露見し、彼の一家を揺さぶります。

そんな「至る所にびびが入っている家族」が、先延ばしにしてきた選択を突きつけられ、一気に破滅に向かいます。破滅の先に残るものはあるのか…。

 

という、すでにバラバラになっていた家族を、もっとバラバラに解体して主人公とその周りの人物をさらに痛めつけるというストーリーなのですが、ただ「家族の問題は面倒ですね、機能不全家庭っていうのは大変ですね(あー自分は幸せな家に生まれて良かった!)」と決めつけるのは拙速で、事の本質はすごくシンプルです。

アダムが怒っている理由というのはただひとつ、「思いやり(信頼)を態度で示してくれなかった」からなのです。あのとき父が自分を優先していてくれれば、信じていることを態度で示してくれれば…とずっと父を恨んでいる。

父には父で言い分があるのはわかる。当時の父にとって後妻は最注意人物。不信感を露わにすることで「だって私は他人ですもんね」とスネられたら二度目の家族も崩壊してしまう。後妻を家族として認めていることを示すためには、それなりのものを差しださなければならなかった。しかし、それはアダムに対しても同じで。血のつながった家族だから後回し、言わなくてもわかってくれる、そんな怠慢こそが家族の崩壊を招いてしまったのです。

 

家族の物語というのは取り扱い注意で、家族だから言葉なしにわかりあえて当然、家族の過ちは何が何でも許すべき、「だって家族だもの、それができない人はゴミ」という無神経な罠がちりばめられていることが往々にしてあります。そういう、家族を受け入れられない人を笑顔で排除するストーリーは、家族のことで疲れ果てた人を傷つけることにもなりかねません。

個人的な妄想ですが、家族の再生を好んで取り上げ、安っぽい結末でふわっとまとめにかかる作家はおそらく、家族に恵まれてHAPPYな子ども時代を過ごし、家族の確執なんて言うのはおとぎ話の中でしか知らなくて、とりあえず取り上げてみたくてたまらないのでは…そして自分が与えた試練にたじろぐ登場人物をサディスティックな目線で眺め、散々やつれさせた挙げ句に「それでもいいじゃないの、家族だもの(みつを)」と当たり障りないところでまとめてエクスタシーに達しているのではないか、と真剣に思っている(あくまでも想像です)

 

前置きが長くなりましたが、態度でも誠意(金銭的な意味で)でも示さない家族にひどく傷つけられたことがあったとして、「本当はあなたのことを思っていた」や「ああは言っても信じていた」と弁解されたときの回答はただ一つ、

「知らね」

でいい。だって示してもらっていない愛情は受け取れないもの。傷ついているのであれば、許さなくてもいい。血のつながりがあるかどうかというだけで、家族も所詮は他人。思いは形で示さないと伝わりません。

 

最後、アダムはもう一度父にチャンスを与えます。父はそのチャンスをどうするかが山場。

本当に悪い奴には天誅!!!とか思ってしまう私としては、倍返しもなし、見せしめにすることもなかった点は個人的に今ひとつだけど、それも一つの回答。父の判断にアダムがどう応えるかまでは描かれていませんが、いろいろ想像してしまいます。

 

さて、このストーリー「家族の物語」として読むと後味が悪いのですが、「男の友情」という側面から見ると大変爽やか。アダム父と使用人の友情や、アダムと彼を6年ぶりに呼び寄せたジョーとの友情。命をかけて相手を救ったり、批判を覚悟で相手をかばったり。

相手が友人(他人)となると、彼らは必死で愛情や信頼はしっかり示すんです。丁寧に示してきた信頼と愛情で、一生ものの絆を得たアダム父子。

すごく逆説的なやり方ではありますが、友達に示したのと同じように、家族にも愛や信頼を態度で示さないといけない、ということが伝わってくる物語。

 

次は「キングの死」(ジョン・ハート)を読んでみたいと思います。

 

おわり。