はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

「もうそこらへんでヤメにしたら?」と言ってくれるかけがえのない存在の欠如。 カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」

こんにちは。

カズオ・イシグロわたしたちが孤児だったころ

後半戦、いっきまーす。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

 

dandelion-67513.hateblo.jp

 

後半戦へ行く前に、前回どんな終わり方をしていたかっていうと。

カズオ・イシグロ作品の特徴として、主人公の回想の中に思い違いや嘘が混じる、というものがあります。そしてその嘘をよーく見ていくと、重大な事実が紛れている、というような構成。だから、過去作品と同様のアプローチで本作品を読んでみようとしたのですが、主人公の行動がヤバすぎてお手上げ寸前。だから、逆に、バンクスが語る真実だけを洗い出してみよう、というアプローチに変更したところで終わっていました。

 

これはさすがにウソじゃねぇだろ、って思われるポイント。

★孤児だったこと

ひとつめは、彼が孤児だったことです。ていうかタイトルにもあるし、コレは触れないと。そしてもう一人(以上)孤児がいます。だってタイトルは”WHEN WE WERE ORPHANS”。WEって、バンクスと誰?というと、これは、前半にも少し出てきたサラ・ヘミングスを指します。

サラとバンクスの出会いはこうです。

ケンブリッジ大の友人オズボーンを通じて、ぺーぺー探偵ながら社交界に顔を出し始めたバンクス。その頃から、金のある男を手玉に取っているサラ・ヘミングスは有名でした。しかしサラからしてみれば金もなさそうなバンクスは眼中にありません。パーティで顔を合わせるけれども話したこともないという関係のまま数年が経過します。あるとき、大事件を解決して有頂天になっていたバンクスは、そろそろサラに挨拶してもよかろう、と思って声を掛けます。しかしサラの返事はそっけない。バンクスはバカにされた気がして怒り心頭に。

順調に探偵として名を上げていったバンクス。サラのことはすっかり忘れていましたが、今度はサラのほうから声をかけてきます。「今度のサー・セシル(偉い老代議士)のパーティ、あなた行くんだったら、私をお相手にして連れてってくれない??ね?ね??」と。すげーむかついたバンクスはお断りをしますが、パーティ当日、なんとサラは入り口で待っています。強引についてくるサラを撒いてパーティ会場に逃げ込み、ほっとしたのも束の間、サラは入り口で暴れていました。その後ある紳士のとりなしでサラは会場にもぐりこむことに成功します。うわ、めちゃくちゃ気まずい…ってなったバンクスは、一人煙草をふかすサラに謝罪。仲直りした二人は、以後、腐れ縁のような感じになります。

こういう最低な出会いをした二人がわかりあったきっかけは、二人が共に孤児であったこと。一緒におしゃべりをしていた女性が「わたしのお母さんは最低でぇ~」とずっと母親の愚痴を垂れているのに耐えられず号泣してしまったサラ。そんなサラをバンクスは放っておけません。しかし、手を貸そうものなら「ほっといて!私は大丈夫だから!!!同情すんな!!!」とはねつけられる。そういう関係のまま、ついには結ばれず終わる二人でありました。

 

★孤児の生き方

ここで、二人の孤児の性格を見ていくことにします。

バンクスはちょっと陰気な感じですね。いつもイライラしています。

例えば、

・古い同級生に会い、「お前ちょっと変わってたよな」と言われたとき。それは人違いだ!!!とわざわざ別な同級生の名前を引っ張り出してきて否定します。

・パーティーについていかせて!と懇願するサラを見て、「俺がぺーぺーの頃は、俺のことを馬鹿にしたクセに」とイラ。意地悪をする。

・自分をイギリスまで送ってくれた大佐と十数年ぶりに再会したものの、大佐はみすぼらしい感じになっていた。共通の話題として、渡英する際の自分の船上での様子が話題になった瞬間、今更こんなこと話して何になる、この老いぼれが…。と不愉快に。

こういうところから導き出されるのは、自分は自らの努力によって成功したという自信を持ち、「俺をバカにするな。利用するな。そんなこと許さねぇ。俺の過去を知るみすぼらしい男なんて消えてしまえ」なんてトゲトゲしている男。成功しているはずなんだけど、寛容になれない。

サラは、いい男をつかまえてのし上がりたい、という気持ちを隠さない女です。最後は、お目当ての老いぼれ代議士と結婚し上海に渡りますが、そんな夫はDV野郎。何年も耐えた後、ひとりマカオに逃げることに。サラはこんなことを言います「何かを探し求めながら、何年も無駄にした。価値あると認められた時にだけもらえるトロフィーのようなものを」そして「あったかい家庭が欲しいわ」と。バンクスに言わせると、あったかい家庭云々発言は本心ではないようですが、前半部分は、サラをずっと苦しめてきた焦燥感です。

ひとりマカオに渡ったのちは、フランス人と結婚したサラ。「幸せよ!」という手紙をバンクスに送っていましたが、そんなことをわざわざ書いてよこすなんて、さしずめ幸せではなかったということであろう、とバンクスは推測しています。

二人とも、ハングリー精神というか、「なにくそ!」「まだまだ!」という気持ちが強い。満たされなさ、と言い換えることもできます。もとの性格もあるとは思いますが、この満たされなさは、二人が孤児であったということと無関係ではないと思います。

そしてラストの言葉をまとめるとこんな感じ。

「まだ成し遂げていない。まだ駄目だと言われ続ける人生。こんな気持ちにならずに生きていける人はたくさんいる。しかし私たちは、そうではない。私たちは、親の面影を求め続ける孤児なのだ」と。

この言葉は、自己肯定感の欠如とも違って。「もういいよ。十分頑張ったね」こんな言葉に飢えていたのかなぁなんて想像します。だから、頑張ることを止められない。

大人になってもなお、自分で「もうここらへんで良しとしよう」と決めることができないのは、親から「もう大丈夫だよ」と声をかけてもらえなかったから?だから「もっと」「もっと先に!」と走り続けてしまう。ということなのかな?

ただ、親がいるからといって、必ずしもこんな言葉をかけてくれるような親ばかりではないと言い添えておきますが。。。

 

★孤児を引き取って育てていること

バンクスは、ジェニファーという孤児を引き取って育てています。

バンクスは消極的に見える人間。あまり自分の希望が見えません。例えばランチに行ったら、AセットとBセットどっちがいいだろうって迷って、私と同じのを選ぶタイプ。でももう片方のほうが美味しく見えて、「やっぱりあっちにすればよかったわ。だって同じの頼んだほうが同時に出てくると思ったから一緒のにしたんだけど」とかあてこすってくる陰湿なタイプです。(イメージです)

ただ、ジェニファーを引き取ろうとするとき、バンクスは、両親の捜索以外で自らの意思を強く見せます。この熱量に読者はびっくりします。何をしても無感動なジェニファーにバンクスは、「全世界が目の前で崩れ落ちるような体験をしたけれども、再び構築することができる。自分がそばにいる」と声をかけます。コレって、バンクスが言ってほしかった言葉なんだろうね。

「上海に両親を探しに行く」と言った時の使用人の反応は冷たいものでした。しかしジェニファーはおとなしく受け入れます。「両親は生きているのかしら」という疑惑のまなざしではありましたが、 自分が信じるならやったほうがいい、と送り出します。

唐突な感じで登場したジェニファーでしたが、この小説におけるジェニファーの役割は、バンクスと現実の世界を結び付けておくための唯一の綱に思えます。ジェニファーの存在以外は全て、真偽を確かめようのない思い出として扱ったとしても差し支えない。それくらい彼女との会話だけが際立っているんですね。

 

物語の最後でジェニファーは、同居を提案します。一緒に田舎で暮らそうと。彼女の言葉を聞いたバンクスは、「ロンドンは刺激を受けられて楽しいところだ。ロンドンを離れる気はさらさらない。でも、いつかは、ここを離れてジェニファーと暮らすのもわるくないな」と考えます。ここにきて初めて、「ここらへんでもう終わりにするか」と、自分の落ち着く場所を見つけられたバンクスなのでありました。

 

というお話。解説には、日本人として英国で過ごしたカズオ・イシグロの気持ちも反映されている、という話もありました。これは、「自分はどういう存在で、どこに行くべきなのか」というアイデンティティの物語なのかもしれません。

 

次はカズオ・イシグロはお休み~。ちょっと疲れてきた!!ラストの超!超大作「充たされざる者」に向けて充電。

すごくどうでもいい話なんですが、今、Amazonが勧めてきた本が本当に自分に合っているかを知りたくて、勧められたら本を片っ端から読んでみようと思ってます。あれってどういうアルゴリズムでたたき出してるんでしょうね。わくわく。

 

おわり。

 

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

 

 

ほとんどが幻想? 今までと同じアプローチでは読み難い作品。カズオ・イシグロ「わたしたちが孤児だったころ」前半戦

こんにちは。

前回、前々回に勢いづいて、カズオ・イシグロわたしたちが孤児だったころ」。抒情的な作品が続いたということもあって、結構イケるじゃんと思っていたのも束の間。今回は少し毛色が違います。やっぱり、カズオ・イシグロは難しい。一筋縄ではいきません。

わたしたちが孤児だったころ (ハヤカワepi文庫)

主人公はクリストファー・バンクス。イギリス在住の名探偵(自称)。え~!イギリスで探偵ってベタ過ぎるし、拡大鏡とか探偵七つ道具を持ち歩いてるとか…ホームズとか少年探偵団の読みすぎなんじゃないの!?なんて。のっけから「え?」となるんですが、それについてはまた後ほど。もちろん今回もバンクスの回想が情報源として全てです、ということは念頭に置いといてくださいね。

 

バンクスは父と母は英国人です。父の会社の都合で、幼い頃に上海に渡り、そこで暮らしていました。隣の家にはアキラという日本人が住んでいて、探偵ごっこをして遊んだというのが良き思い出。しかし、父と母がほぼ同時期に失踪し、バンクスは孤児になってしまいました。その後バンクスは伯母の家で暮らすことになり、渡英。父と母の遺産などもあったようで、イギリスでの暮らしは悪くありませんでした。1923年にケンブリッジ大を卒業し、探偵を目指します。若くして探偵として名を上げたバンクスは、父と母を探すために1937年に上海を訪れます。父と母の失踪の真相はいかに?

というお話。かねがね、記憶を精査していくと思わぬ真実が発覚するというアプローチは、サスペンスとマッチしないわけがない!!と思っていた私。自分が偉い人間だと勘違いしてしまった老人という小さなレベルの話よりも、事件の真相をじわじわ思い出していくようなののほうがゾクゾクするのでは?なんて思っていたのです。ついにきた~!!という喜びもそこそこに、サスペンスとしては期待外れな展開。

今までの作品は、多くの手掛かりから、真実はこういうことか?と推理するのですが、今回は推理の余地なし。2時間サスペンスさながら、最後に悪役が出てきて、全ての真実を告白してしまいます。なんで2時間サスペンスの犯人って、生い立ちとか動機とか、聞かれてもいないことまで体系立てて説明するんだろうね。今回も、そんなこと聞いてねぇよ、ってところまでご開陳してくださり、ここも2時間サスペンス風味。種明かしの時まで知らされていない情報も多く、推理する気満々だった私は肩透かしを食らった気分になりました。

 

さて、ストーリーは大きく3パートに分かれていて、1958年の自分が過去を回想しているという設定です。

1930’ 卒業~探偵として身を立てる。イギリス社交界での話。サラ・ヘミングスとの出会い

1937年 上海へ。両親の捜索。

1958年 イギリスでの余生(といってもまだ還暦前だけど)エピローグ風。

戦争の描写があるので、時代背景を理解しておいたほうが良いです。おなじみの山川の日本史図録を引っ張ってきて確認しながら読みました。

まず、バンクスが大学を卒業した1923年に関東大震災。その後日本は不景気になっていき、じわじわと積極外交へ転換。1928年には中国内で衝突がありました。1929年世界恐慌。1931年に満州事変。1933年に日本が国際連盟を脱退。そしてバンクスが上海を訪れた1937年、ちょうど上海事変が起こります。(※上海事変とは、日本海軍陸軍が上海を占領しようとした事件。byブリタニカ)

 

と、話があっちこっちにいきましたが、ここからが本番。信頼できない語り手はカズオ・イシグロの代名詞でありますが、他作品と比べても、今回の信頼できなさは一級品。読者が違和感を覚えるのはこんなところでしょう。そして、ここら辺がミソです。

★探偵っていう仕事

探偵道具の話をするあたり、眉唾ものでは?なんて疑います。名探偵ということで、パーティでちやほやされまくっていますが、本当に優秀な私立探偵って活躍が表に出ないものなのでは。しかも時々、「世の悪を成敗するために探偵になった」とか言っているから、嘘くせぇ。。。「浮世の画家」の小野パターンか?

 

★父と母の失踪の真実

父は、モーガンブルック&バイアット社(以下M社)の上海駐在員です。当時、中国とアヘンは切っても切り離せない関係にありました。アヘン戦争はコレよりもずっと前の話だけれども、1900年代初頭に至っても中国国内にはアヘン中毒者は多数いた模様。この小説によると、アヘンの密輸は政府の黙認という形で横行し、上層部の人間が利益を得ていたようです。M社もアヘンとは無関係ではない会社です。

対して母は、反アヘン運動の活動中。どんどん熱が入ってきて支部長的な感じになります。間接的にアヘンで利益を得ている会社といえども、夫が働いてくれているおかげでお手伝いさん付きの邸宅に住めているのに??そんなこと顧みず狂信的になっていく母でありました。ここまでくると手が付けられない。隣人のアキラも怖がっています。当然、家庭不和となるわけで。ただ、バンクスの面倒をよく見てくれる、フィリップおじさんという男がおり、彼のおかげでバランスが保たれていました。彼、血のつながりがあるわけではなく、駐在したての若手社員を、先輩社員がしばらく家に置くというM社の風習で、一時期家にいた男。フィリップは超重要なので覚えておいてくださいね。

父は、妻に押し切られる形で会社に意見したようです。その後、父が失踪。ほどなくして母も失踪しました。

失踪そのものよりも、とにかく違和感があるのは、バンクスが上海に行った理由です。普通、何の手掛かりもなく失踪して10数年となれば、生きて再会することは諦めているもの。しかし、なぜか生きていることを真面目に信じているバンクス。その道のプロの探偵なのにだよ??しかも、現地協力員みたいな人と、パーティ(両親を救い出したのち両親をお披露目するお祝いの会)なんかも計画し始めて、どういうこと?ってなる。

ここまで得られた情報から読者は、失踪はおおよそ口封じとみて間違いないだろうと考えるわけですが、ココで、探偵になった動機「悪を成敗する!」という話が出てくる。イエロー・スネークと呼ばれる、政府も手を出せない悪の親玉がいるらしい(バンクス談)、そして、現地協力員のマクドナルドは、その悪の組織から俺を見張りに来たスパイだ(バンクス談)。こんなことを考えたバンクスは、マクドナルドを通じて失踪事件の首謀者である(バンクス談)イエロー・スネークと面会し、両親を解放させようと考えます。どんどん、ホラ感高まってきますね。イエロー・スネークの手に落ちているのならば、尚更、両親はやられちゃってるだろうに…

ただ、当時の中国は、政府も警察もろくに機能せずマフィア的なものが跋扈していたということなので、何でもありの世界ですから、万に一くらいは両親生存ルートもありかも(マフィアの家でお茶くみとかしてるかも!?)、ということにして読み進めて参ります。

 

★アキラとの再会

すでにヤバい空気ですが、極めつけがコレ。

バンクスはアキラとの再会を夢見ていました。中国にいたことのある人に「アキラ、っていう日本人知ってます??」って話しかけるくらい。

上海を再び訪れたバンクスは、町の中でアキラを見たような気がします。スーツ姿で、接待中?と思しき様子なので、その時は声をかけずに去りました。そして次にアキラと会ったとき、アキラは、瀕死の状態の日本兵でした。

ん???

どゆこと???というのは一旦置いといて、アキラと再会した日のバンクスの話をします。バンクスは、両親の捜索を切り上げ、イギリス時代からの知り合いであるサラ・ヘミングスと駆け落ちをするつもりでいました。しかし旅立ちの朝、ついに両親の幽閉先が判明します(ホントか?)。サラを放り出し、日本兵が包囲している貧民街に行くと、そこには瀕死のアキラがいました(ホントか?)。アキラと昔の思い出を振り返りながら、両親の幽閉先まで迫るバンクス。

アキラとは探偵ごっこをよくやった仲で、両親を見つけ出す設定で遊んでいたりしました。その幼き夢をやっと叶えるという描写ですが、ウソつけー!ってなる。こんな展開あるかい!!という衝撃が走る。

 

以上三点。語り手がほら吹きであるのは、過去作品を読んで耐性ができているわけで、「どうせその話ホラだろ」くらいの目で見るくらいはできるようになったのですが、今回はほとんどホラでは?と、バンクスの病気を疑うレベルでした。だって最後なんて、「日本人を見かければ誰でもアキラ」状態ですよ?作者は、どういうことを伝えたかったのでしょうか…ちなみに解説を読んでもよくわかりませんw

 

今までの作品は、「事実と異なるところ」が、物語を読み解く大きなカギになってきたのですが、ここまで嘘っぽいとよくわからん!ということで、真実だけを洗い出していこうと思います。と、今回は1記事にまとめたかったのに、また長くなってしまったので後半戦へ。

ていうか、WHEN WE WERE ORPHANS.のWEってバンクスと誰?っていう話もしなきゃないし。

 

つづく。

 

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

 

嫌いな人間の嫌いなところを挙げてみると、全部自分にあてはまったりする。カズオ・イシグロ「浮世の画家」後半戦

こんにちは。

後半戦、いっきまーす。

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

これまでのあらすじはこちら。

 

話は見合いの約半年後。1949年冬。

縁談がまとまった紀子は、斎藤Jr.(太郎)と結婚し、新生活を始めます。節子を伴って紀子の新居へ遊びに行く道中、節子がこんなことを言います。「紀子から見合いの話を聞いてびっくりしたけど、なんであんなことしたの?(見合いの場で、過去の罪を認めるような発言をしたのか)」そして、「斎藤さん(父)は見合いが持ち上がるまで、お父さんがどんな仕事をしている人なのかよく知らなかったらしいのよ?」と。

お???

 

まず一つ目の質問に対して。「お前が気を付けろっていったからだろうが!(父の過去の扱いは要注意だと指摘したのはお前の方だ!)」と小野は怒ります。そうですよね。ココ、読者はすごく混乱するんですよ。だって、「相手方の調査に備えて」と言ってたのは節子のほうなんですから。ただ、この小説全てが小野目線で書かれた物語であるという前提に立ち戻ると、節子が本当にそんなこと言ったかどうかなんて、判断がつかないんですね。そして節子もはっきりと何がマズイか指摘していないわけですから、どうやら小野の思い違いらしい。少なくとも節子が気にしていたのは、父の過去の仕事についてではないというのは確かなようで。

続いて、二つ目の質問。「そんなことない!美術に関わる者同士、互いのことを知っていたさ!」と、こちらも激怒。小野って怒ってばっかりだな…

あ、斎藤家の話をしていませんでした。斎藤(父)は斎藤博士と呼ばれていて、芸術評論家ですごい家柄(小野談)。1年前に破談になった三宅家は、小野家のほうが格が上だから、バツが悪くなって破談にされたが(小野談)、斎藤家は仕事の内容も家の格も申し分ない。”あの”斎藤博士のご子息との見合い話とは!と小野は喜んでいました。

確かに見合いよりずっと前に、市電の中で会話をするシーンがあったので、二人が顔見知りであることは確かなんです。それを小野は、有名な画家の自分と、美術に関わる斎藤博士はもちろん互いをよく知っている(小野流に言うと”名声を互いに承知している”)、と理解していたようですが、実際は、ただのご近所さんだった説が浮上します。屋敷に引っ越してきたときによろしくと挨拶した間柄。

 

話がこんがらがってきましたのでここで一旦、節子の話を「正」として視点人物を斎藤博士に移してみると、斎藤父ビジョンでは、小野爺はヤベェことになっているんです。

斎藤ビジョン:釣り書きを見てまぁ良しとした近所の家と見合いをしてみたら、父親が「私のせいで戦争が起きた!!!」としきりに謝罪している。画家ということは聞いていたけど、名前とか知らねぇし。でもなんかすげぇ謝ってる!戦争ってどういうこと?

となるわけです。恐怖!!!まぁ、大人ですからその辺はうまく流して、当人同士も良い雰囲気だし、と言って結婚に至ったんでしょう。見合いのシーンを見た時点で、コレ終わった…と思っていた私ですから、結婚したと聞いて軽く衝撃を受けました。そして、良家のご子息がこんな結婚していいの?なんて思うわけです。

ただ、ここにまた、新たな小野の勘違い疑惑が浮上します。斎藤家、そんなに家柄すごいわけでもないのでは?疑惑。というのも、見合いで指定された「春日パークホテル」、実在するかは知らないのですが、おそらく中の中くらいのホテルです。ホテルの名前を聞いたとき小野は「斎藤家とあろうものがこんなホテルなの?」とがっくりするシーンがありました。奥さんが気に入っているお店があるから、と仲人になだめられ了承するのですが、ここが少し気になる。自分のところの嫁になるかもしれない女性を、なぜ微妙なホテルでもてなすのか?と。

そしてもうひとつ、太郎が務めているKYCとかいう会社も「10年以内には日本中に知れ渡るような会社になりたい」と言っているくらいで無名の会社?なんですね。当時はコネ入社が普通の社会ですから、そんなすごい家柄なら、息子を旧財閥系のとこにもぐりこませるくらい簡単にできるわけで、ここもちょっと引っかかる。その証拠に、節子の夫は日本電気で働き、帝国荘(帝国ホテル?)で見合いしています。もしかしたら斎藤家、ありがたがるほど良い家でもなかった可能性があります。

そして小野の話。ここまででお気づきかもしれませんが、すごい画家ではなかった説が濃厚です。少なくとも、美術評論家である斎藤の目には留まらなかった程度というのは確実。

父が見合いでしきりに謝罪をしていたという話を聞いて泡を食った節子、素一は、父に何かあったのではないかと勘繰ります。折悪く、軍歌を作っていた著名な音楽家が国民への謝罪のために自殺した事件があり、父も自殺してしまうのではと心配していたのです。それを聞き、「私も影響力を持っていた人間として謝罪したいが、自殺することはないよ」と一笑に付した小野に節子は、「お父さんも確かに、画家としてお仲間の間で影響力を持っていたけれども、お父様のお仕事は、戦争には関係ないでしょう。過ちを犯したなんて、そんなこと考えないで」と言って気遣います。

また、小野は、斎藤博士が自分のことを知らなかったと主張する節子に誤りを認めさせるため、「君のお父上とは、十何年以上も互いの名声を承知していたのに、親しくなったのはこの一年であるということは残念なことだねぇ?」とわざと太郎に声をかけます。「ええ…」と言葉を濁し、節子らと目配せする太郎や、こちらを見ようともしない節子の態度を「自分が誤っていたというプライドのために、こちらを見れないのだろう」と解釈し、小野は満足したのでした。

と、こんなオチがついていたのでした。

 

だましの手口wは「日の名残り」と同様です。就職のために推薦状を書いてあげただけで多分な感謝をされたり、大勢の人が自分の話をじっと聞いていたことを思い出して、何度も自分の高い地位をアピられるわけですから、すごい人だったんだなぁと思う読者たち。

また、それに一役買っているのが、小野が住んでいる家。物語は、家を購入した経緯から語られるのですが、これがなかなか面白いんです。妻にせっつかれて新居を探していた小野は、戦前の実力者である杉村氏の家が売りに出されると聞いて、形だけ問い合わせをしていました。そうしたらある時自宅に杉村の娘たちがやってきて、「人徳を”せり”にかける」と言い出します。大切な邸宅は、お金ではなく、父がこだわった家にふさわしい人間に譲りたい、そしてできるならば、芸術に理解を示していた父の遺志を尊重したいと、びっくりするくらい低い金額を提示するんですね。結果、旧杉村邸を手に入れることになった小野家。冒頭にも「こんな家にすんでいるならさぞ金持ちだと思われるだろうが、金持ちではないし、金持ちだったこともない」ってしっかり書かれていました。

ただ物語には、何度も、「人生には、ふと、自分がかなり高いところに上っていたと気付く瞬間がある」というような言葉が出てきます。がむしゃらにやってきているように思っていても、しっかり積み上がっている、という意味合いなのですが、ココは、家のことも含まれているだろうなと思います。立派な家に住んでいるうちに、自分もこの家と同じくすごく偉い人間だと思い込んでいったのでは?なんてにらんでいます。

 

最後に、、、もう一つのオチを。

小野は「がむしゃらに生き、成果を上げた。仮にそれが後世の価値観に照らしてみて否定されたって、それはそれで人生に意味はあるだろう。だって自分は大事を成し遂げた人間なんだから」という自己正当化を繰り返します。それは前回「無能な働き者」として批判した通り、私としては「まっこと、幸せな耄碌ジジイだな!!」とバッサリ切り捨てたいところなんですが、とりあえず一旦置いておいて、小野がこういう価値観を持っているということを覚えておいてください。

そして小野は、自分のような生き方をできなかった人間を馬鹿にし、こき下ろしています。例えば「浮世の画家」こと、師匠の森山。日本が戦争に向かっていく中、相も変わらず芸妓なんかの絵を描き続けて庶民の娯楽を守ろうとした男。仕事のやり方を変えないどころか、今の世はいかん!と批判したせいで、仕事もなくなり挿絵などで生計を立てるようになりました。小野は、元師匠と立場が逆転したことで、面と向かってバカにするためにアトリエを訪れたりもします。そしてもう一人、「カメさん」と呼ばれていた、何をやるにもトロくて、人当たりが良い男。「カメさんはな~、着実な歩みと生き残る能力だけはすごいんだけどなぁwww」と馬鹿にしている。

じゃあ小野の人生ってどんな感じだったんだっけ?ご存じの通り、小野の言い分には何の信ぴょう性もないので、一番弟子であった「黒田」に語らせてみることにしましょう。

黒田:私は小野の一番弟子でした。しかし、愛国主義に傾倒していく姿を見て、彼に反目します。怒った彼は、腹いせに私のことを特高警察に密告しました。彼は体制寄りでしたから、顔がきいたんですね。そのせいで私は特高に目を付けられ、ひどい目にあいました。絵も全て燃やされました。先日「急用」とか言って家を訪ねてきたようですが、もちろん追い出しましたよ。ちなみに私は斎藤さんと知り合いですが何か?

小野って・・・・・・

「戦争の機運高まる中で真っ先に愛国主義を掲げ、戦争中は『贅沢は敵だ』とか書いてお金を稼いでいた」男だったんですね。ついでに、腹いせに弟子を密告するとか最低だぞ!

いや、大事を成せなかったどころか、時代に流れに流されて、小銭稼いでせせこましく生きてきたのって、まさにお前のことだろうが!!!!!

っていう、自分の人生を客観的に見ると、実は最も馬鹿にしていた生き方をしていたということまで明らかになるというオチ。見事!

ちなみに題名の「浮世の画家」。解説を読むと、戦争に向かっていくという社会の変化を受け入れられず耽美主義を貫いた森山と、進むべき方向を見誤り精神主義に傾倒した小野、共に「世界に疑問を持つことをやめてしまった」という点で、同じ「浮世の画家だ」と書かれています。

遠い山なみの光」の雰囲気で、「日の名残り」と同じようなテーマを設定した、そんな小説。ただ、自己の正当化は「日の名残り」の老執事とは比べ物にならず、イライラはしますが、趣深い。いやー、小野は幸せだよ、いろんな意味で。

 

次は「充たされざるもの」を。文庫本で5cmくらいあってすでに衝撃を受けています。

おわり。

 

関連記事はこちら。

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

 

自分が失ったものをひとつひとつ数え上げながら、それでも自己正当化をやめない老人への冷徹な視線。カズオ・イシグロ「浮世の画家」前半戦

こんにちは。

 

遠い山なみの光」に続いて一気に5作目。今回も川端康成テイストで面白い。1日で読み終えてしまいました。いろいろと浅い私のような人間は、やっぱりこれくらいシンプルなのがいいなぁ~と思うわけです。

浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

本作品も終戦後の日本のお話で、「遠い山なみの光」と比較することもあると思うので、過去記事もどうぞ。

dandelion-67513.hateblo.jp

 

主人公は、小野という老人。ひょんなことから、ある資産家のこだわりの家を購入することが叶い、そんな素晴らしい邸宅に隠棲していることが彼の喜びであり誇りです。物語を読むにつれて、戦時中、彼が戦意高揚のための絵を描くことで財を成した画家であるということが判明します。小野には節子と紀子の2人の娘がおり、節子は嫁に行ったので、今は26歳の紀子と2人暮らし。妻と息子は戦争で失いました。

カズオ・イシグロ作品は、おなじみ「曖昧な語り手」により話が進行します。今回も本領発揮で、どんでん返しも「日の名残り」並みに鮮やかです。小野の記憶力や認知能力はかなり微妙。以下に書かれる情報の全ては小野から仕入れたものであるということを頭の片隅に置いておいてください。

 

物語は、1948年の秋から始まります。

節子は久々の帰省中。小野家目下の悩みは紀子の縁談がまとまらないこと。1年近く前、三宅という男との縁談が突然お断りされたこともあり、ピリピリしています。新たな縁談も持ち上がっているものの、紀子は能天気なのか気丈に振る舞っているだけなのか、もう決まったようなつもりでいて、小野も節子も気が気ではありません。

小野と二人きりになった節子は、こんなことを言い出します。「前の縁談が破談になった本当の理由はわからないのか?相手方の調査に備えたほうが良いのではないか」と。内気な節子は、昔からはっきりものを言えないタイプなのですが、おそらく戦意高揚系の絵を描いていた自分の過去を指すのだろうと、小野は考えます。敗戦により価値観が一変し、旧体制の人間が処罰されたり白い目で見られている今の世の中では、面倒な過去はうまく隠したほうがいいという、節子の提案でした。正直快いものではありませんでしたが、興信所の人間が調査を始める前に、古い知り合いを訪ねて回ることにした小野。回想も交えられ、小野の人生を共に振り返っていくという構成です。

 

小野は、偏屈ジジイ。戦争の犠牲は尊いとか、息子は国のために立派に死んでいったとか平気で言っちゃう。民主主義なんて受け入れられん、とか、日本人の魂は戦争の時に最も高まったとかも言っちゃう、顔見知りになりたくない男ナンバーワン。ただ、若い頃は古い価値観に歯向かい、日本はこのままではイカンと新しい取り組みをしていた時期もあったんです。若いうちは皆、旧来の大人との対立を試みてもがくものなのかもしれません。しかし、その頃の信条や成功体験を引きずり、若い者の存在も受け入れられなくなって、自らのアップデートをやめた時、鏡を見るとそこには、偏屈なジジイがこちらを向いているわけです…酷!

 

さて、年が明けて春になりました。

斎藤家の見合いも近づき、そわそわする小野。娘や元弟子や他人には、自分は正しかったと主張してはばからない偏屈ジジイっぷりは相変わらずでしたが、斎藤家との縁談においては、過去は過去として、自分の誤りを正視することのできる「やばくない」年寄りであろうとします。

そして見合い当日。紀子も小野も貝になってしまったので、会話がなかなか弾みません。当たり障りのない?民主化運動で市民が過熱しているという話題になった時は「今の若者はたるんでいる!権利だ何だとアメリカの猿真似だ!俺らの頃はなぁ…」と一席ぶちそうになるのをぐっとこらえて、「けが人が増えないといいですね」と繰り返します。ついに、戦争の時は…と水を向けられた小野は、「私が過去にやったことは、当時は正しいと信じてやったことです。しかしそれがとんでもない結果を生んでしまった。本当に申し訳ないと思っている」と謝罪します。「それは自分に辛く当たりすぎでしょう」と慌ててとりなす斎藤父子でしたが、小野はあくまでも、「申し訳ない」「とんでもないことをした」と一点張り。仲人のとりなしで白けたムードは収まりますが、小野の反応に紀子は度肝を抜かれます。しかしその後は、思いのほか楽しい会になり、久々に記憶があいまいになるくらい酒を飲んだ小野は良い気分で帰宅します。紀子と斎藤Jr.も良い雰囲気に。さて、お見合いの結果はいかに?

というストーリー。お見合いの部分が一番盛り上がり、その後は謎ときになります。大どんでん返しに期待!

 

ネタバレを防ぐため、一旦ココあたりでSTOPして、テーマの話を。

解説に、「人間の独善性に対する強い批判と、年中自己肯定感をしなければ生きていけない人間に対する深い同情」という言葉があり、まさにその通りの小説です。

小野は前述したとおり独善的で、老害そのものです。しかし、自分はやれるだけのことをやった、という意識が常にあり、それはそれで人が生きる上で大切な「柱」のようなものであると思うんです。批判と同情という矛盾するものを盛り込むことで、人生の不条理(というか一番不条理を感じているのは、よくわからん絵で戦意を高揚させられたまま死んでいった若者だと思うのだけれども、それは作中の素一(節子の夫)が言ってくれているので割愛)が料理されずに提供されるところが素晴らしい。

多くの小説は、「批判」か「同情」かどちらかに振ると思うんです。根は頑固なジジイに、またもや娘の縁談がきまらないという罰を与える「批判」か、一時的にでも自分の過ちを悔いて見せたことで、娘の縁談を決め、新たな光を見せてくれる「同情」か。しかし、どちらでもない。完全に悪い人間も、完全に良い人間もいないように、人間はどこかで独善的に振る舞いながらも、それによって失ったものを悔いている、そういうものですよ。と示してくれるんです。

 

ただ、小野の謝罪の仕方には、解せないものがあります。

自分が当時やったことは、正しいと信じてやったこと。「だから」それで間違った結果になっても許してください。ってどういう論法だよ?ドイツ人のゼークトの組織論に、「組織の中で最も問題なのは無能な働き者である」という言葉があります。組織の中で無能な働き者がマズいのは、行動力があるから。間違った方向に、熱意をもって、みんなを導いてしまう。小野もその典型です。自分なりに国を憂い、よくわからないものを崇拝し、戦時中のスローガンを掲げた絵をせっせと描いてみたりするのです。

しかし、こと日本では、無能な働き者が、無能な働き者であるが故に裁かれるケースはありません。日本では、「熱意の有無」や「精神的気高さ」や「忠実さ」が「無能か有能か」に勝ってしまうからです。どんな結果を産もうが、「そのときは正しいと思っていた」「悪気はなかった」でチャラになる。

セクハラオヤジの言い訳みたいな感じですね。体をベタベタ触っておきながら「セクハラのつもりはなかった!友好の証だったのだ!しかし、そちらがセクハラと感じたのであれば謝ります」って釈明するような。「他人の体にみだりに触れた」という結果よりも、「そんな意図はなかった」という動機を前面に出す。そうすると、何も言えなくなるわけで…。動機はどうあれ、自分が起こしたことに対する「結果」に責任を取る気はないんですよね。

小野も同じ。本当の意味で自分の行ったことに対して謝罪の気持ちがないから、そんな謝罪をするんです。「自分がバカだったから変な活動に熱を上げて民衆を惑わせるようなことをした。それによって戦争の継続に一役買ってしまったのです。自分の愚かな行為に惑わされた方々にお詫びします」が本当の謝罪。最も問題だったのは、「自分がバカだった」ことです。しかしそれは死んでも認めないという態度まま謝罪の形だけ整えるって、卑しいわ!!!と思ってしまう私でした。

ただ、こんな偉ぶっている小野も「しょぼくれたジジイ」であることが判明します。

さて、長くなってきたので、謎ときはディナーの後で(=後半戦で)。

 

つづく。

結局人は、他人と喋っているように見せて、他人のような何かと喋ってるだけなのだろう。 カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」

こんにちは。

久々のカズオ・イシグロ作品、4作目です。心のどこかでどんでん返しを期待していたのですが、今回は淡々と。

原題は「A pale view of hills」で、もともと「女たちの遠い夏」というタイトルだったとのこと。改題され、直訳の「遠い山なみ~」になったそうですが、この小説の題材はズバリ、「女たちの遠い夏(の思い出)」です。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

主人公は悦子という、英国在住の日本人。英国の田舎町に住んでいる悦子のもとに、ロンドン在住の下の娘ニキが数日間の里帰りをしたときの話。ニキが里帰りしている現在と、忘れられない長崎時代を何度も行き来するという構成です。

悦子は長崎生まれで、20代の頃に終戦を迎えます。その後数年のうちに一番目の夫二郎と結婚し、長女の景子を出産します。イギリスに渡るまでの詳細は最後まで不明ですが、二番目の夫はおそらく英国人で、二人の間に生まれたのがニキでした。

引っ込み思案だった景子は、ティーンエイジャーの頃から自室に引きこもりがちになり、やがて逃げるように一人暮らしを始めます。そして自殺。対してニキは明るくて自立心が強く、ロンドンに出て友人に囲まれ楽しく暮らしています。2020年現在でいうと、おそらく60代前半の女性。結婚しない、子どもを産むってどうなの?と、旧来の価値観にいちいち歯向かっていくタイプ。田舎町に引っ込んでいる母も、地元に残るという選択をした幼馴染たちも、孤独のまま死んでいった姉も…過去の自分にまつわる全てのものを憎んでいます。わかる!上京したての頃ってそんなもんだよね。

さて、そんなニキの久々の帰省。母娘といえども全く噛み合わない会話…ニキと向かい合うと緊張する…悦子は長崎時代の思い出に引き寄せられていきます。

 

原爆で家族を失った悦子は、緒方という男の世話で緒方家に居候することに。そこで息子の二郎と出会い、結婚。焼け跡に競うように建てられた団地に住んでいた新婚時代、焼け残ったあばら家で暮らす母娘の佐知子と万里子に出会います。佐知子はアメリ進駐軍のフランクに熱を上げ、一緒にアメリカに渡るという約束を何度も反故にされながらも、自分の人生はアメリカにあると夢を見続けている哀れな女。そのせいで育児放棄されている娘の万里子は、学校にも行かせてもらえず一人で空想にふけるようになります。

悦子は、ノーと言えず誰にでもいい顔をする女ですから、佐知子みたいなメンヘラ女の唯一のお友達みたいになってしまい、面倒ごとを抱え込みます。妊娠中なのに、家に夜遊び帰りの佐知子が飛び込んできて、「万里子がいなくなった!!一緒に探して!!!」と駆り出されるなんて日常茶飯事。バイトを紹介して!と言われ知人のうどん屋を紹介したら、「私アメリカに行くからさ、辞めるわって言っておいて」と丸投げされる。ただ、何十年も経って思い出されるのは、佐知子たちと遠出をしたある夏の日。そして、自分は佐知子の望んだ道を歩み、景子を犠牲にしてしまったのでは、という思いでした。

物語は、ニキに「お母さんの波乱万丈の人生を詩にしたいっていう友達がいるんだけど、長崎のイメージがわくような絵葉書みたいなのない?」と言われて古いカレンダーを見つけ、ニキと散歩をしながら語らうというようなシーンで終わります。

 

2~3時間くらいで割と読みやすい。川端康成作品のように、女性の主人公の、人生がままらなないい感じがうまく表現されていて面白いです。カズオ・イシグロ作品ですから3週間くらいかかると覚悟していましたが、スイスイ読める。

この話の面白みは、

1.ちぐはぐな会話

2.女の生きづらさ

3.忘れられない思い出

 

ひとつめ。最初のほうから感じていた違和感なのですが、会話がぎこちない。例えば、藤原という未亡人と悦子の会話。

藤原「悦子さん、あなたの人生はこれからなのよ。なにをそんなに苦にしているの?」

悦子「苦に?私は何も苦にしていませんけど」

藤原「子どもさえ生まれれば絶対に幸せになるわ」

なんか噛み合っていない…コレ、訳の問題なのかしら?なんて疑っていたのですが、解説の助けを得てやっと合点がいく。自分が言いたいことを相手にぶつけたくて、その糸口を見つけようとしているからちぐはぐなんです。

例えて言うなら、頭の中にアピールエピソードを詰め込んできた就活生。どんな変わり種の質問をされても、最終的には自分が用意したエピソードに収斂させるつもりですから、相手と会話のキャッチボールをするつもりなんてないんですね。

その特徴が顕著なのは佐和子です。会話の途中、何も言っていないのに、「私は恥じていないのよ」と進駐軍の男に未来を託している自分を正当化したり、逃げられた時には「娘のためを思っての行動よ。あなたも母親になればわかるわ」と。また、フランクのことを何も咎めない悦子に対し、「私を可哀想に思っているのね」と早合点し、なんでフランクのことを聞かないのよ!!とキレる佐和子。じゃあそれならばと「どんな見た目なの?」と苦し紛れに質問した悦子に、「なんであえてそんな質問するんだよ!!」とさらにキレる。

佐和子は、「そんなアメリカ人に入れあげて、本当は大丈夫なの?」と咎めてほしいんです。そしてそれに対して「あなたこそ、こんな国にいてどうするの?娘の教育のためにも、アメリカにいく必要があるのよ。馬鹿じゃないの?」とマウントをとりたい。

また、未亡人藤原も同じ。もとは良い暮らしをしていたのに原爆で何もかも失くし、うどん屋を営んでいます。同じように家族を亡くした悦子から「悲しいわ。あなたみたいに前向きに生きたいわ」とかいう言葉を引き出したいがために、「疲れてるわね?」「辛いわよね」と決めてかかるんですね。そして「子どもがいれば~」と自分なりの結論を押し付けるんです。

他にも、どんな会話をしても年長者への恩や自分たちの苦労話に持っていく、価値観で凝り固まった義父の緒方も強敵で、誰とどこで話をしていても会話がちぐはぐ。読んでいるほうも疲れるんです。

ただ、考えてみると、渡る世間のえなり君のように「そうだよ母さん~」と、相手の質問の糸を的確に把握し、反対意見と根拠を過不足なく詰め込んで長広舌を振るうことのできる人間なんてそういないわけで、結局人は他人と喋っているように見せて、「自分が好き勝手に理解した他人のような何か」と喋っているだけなのかもしれません。

 

ふたつめ。

「日本で女はダメ。日本にいたんじゃ、女に幸せなんてないじゃない?」という佐和子セリフや、「つまらない夫と子どもに縛られてつまらない一生を送るなんてばかばかしい」というニキのセリフ。悦子は、ニキを見るたびに「普通の女の幸せ」という枠からはみ出たいと願った佐和子を思い出し、そういうトガった生き方に内心反発しています。しかし、二郎を捨て英国に渡った自分も、彼女らと同じ穴のムジナであると心のどこかで胸を痛めています。

作品中では、義理の親と同居しないと言ったらみんなに驚かれたり、夫に言いたいことを言えなかったり、義父のわがままに付き合ったり、そういう女性の人生が描かれ、しんどそう…

私はサザエさんの波平がどーーーにも好きになれないんです。「子育てに参加することなく、子どもを怒鳴りつけることだけ一丁前な年寄り」なとことか、仕事ぶりも、今話題の妖精おじさん感漂っているし、ちょっと受け付けない…笑 悦子らが生きた日本の世界も、家父長制社会で、サザエさんとそう変わらないんだと思います。先日も、「女は妊娠・出産してやめるから迷惑だ」という理由で、医学部の入試の点数が公然と操作されているというニュースがありましたが、これって翻って、男性医師にとってもマイナスだと思うんですよね。男だったら過重労働してもいいの?っていう。家父長制から今なお続く生きづらさが過去のものになることを祈るばかりです…

 

みっつめ。

辛い時に思い出す人っていますか?泣くほど辛いわけでもないけど、しっくりこない人生を抱えて歩いているようなときに思い出す人です。当時は張り合っていたり、相手が自分より幸せになるなんて許さん!とか思ったりしたんだろうけど、今なら純粋な気持ちで幸せを祈れたりする、そんな相手。

私は教育実習のときに出会った友達のことを時々思い出します。次の春に一緒に上京してきて、東京の町を散策したりしました。当時は寂しくてしょうがなかったから、彼女先に東京に慣れてしまったらどうしようとか邪な気持ちもあったと白状しますが、数年後、彼女がお母さんの介護で地元に帰り、それっきりに。眠れない日に、ふと、彼女のことを思い出すことがあります。私とて「幸あれ!!」と物申せるほどの人間ではありませんが、彼女の毎日が、恵比寿だの六本木だのに出かけて「すげぇ!!!」と言っていた頃のようにワクワクした日々だといいなぁと思ったり。

悦子にとって佐和子はそんな相手です。佐和子と共に出かけたある夏の日の思い出。遠き山なみはその日に見たものです。なんか好きになりきれない相手だけど、日頃のモヤモヤを全て忘れ去って、昔からの親友のようにふるまえたあの日。人生には時々、こうやって、他人と一瞬だけ深くつながり合う瞬間があるから面白い。

 

というお話。いやー!面白かった!!内面描写を綿密にするでもなく、事件を起こすわけでもなく(むしろ悦子の自叙伝を書いたら相当な面白さになると思うんだけど、あえてしない)。それなのに、どうしてここまで魅力的な人間を作り出してしまうんだろう。多くの作品は、生まれ育ち、自分に大きな影響を与えた事件や人間を中心に書かれていて、読み終わる頃には主人公の人生を何でも知っている感じですが、この小説は、悦子と佐和子のある夏の日だけに焦点を当て、無駄な情報を削ぎ落しているのがすごい。悦子と二郎の離婚のゴタゴタとかめっちゃ知りたいのに。笑

解説は池澤夏樹氏。豪華ですね!池澤氏によると、作家には、作中で自分を消す者とそれができない者がいると書いてありました。三島由紀夫は、自分が割り込んでコメントを加えてしまう(笑)。司馬遼太郎はコメントどころか、登場人物の会話を遮って延々と大演説を振るう(爆笑)。そしてカズオ・イシグロは、見事に自分を消し、カメラワークを指示する監督に徹するそうです。ほうほうほう、わかる~!

 

同じく解説によると、「遠き山なみの光」「日の名残り」「浮世の画家」の3作は、リアリズムに転向したかのようなテイスト…とありました。ということは、読みやすいということ?ということで、次は「浮世の画家」を読んでみたいと思います!

 

おわり。

 

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

 

続編ということもあって期待値が上がった?半端な試練の波状攻撃 デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ハウス」

こんにちは。

デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ハウス」。前回の「~ガーデン」の続編です。「~ガーデン」と続編の「~ハウス」は同時に購入していたのですが、ガーデン読了後に、続きを読みたい!という気持ちが全く起こらず、しばらく放置。「うっかり続編に手を伸ばしてしまったなぁ。。。」と若干後悔していましたが、今回、意を決して続編を読んでみました!

が、うーん、やっぱりイマイチ!!

ロボット・イン・ザ・ハウス (小学館文庫)

前回の話はこちら。

dandelion-67513.hateblo.jp

dandelion-67513.hateblo.jp

 

前回は、ベンとエイミーの間にボニーという女の子が生まれ、とりあえず離婚するのやーめたってなったところで終わっていました。いまだにヨリを戻さず(ていうか離婚はしていないんだけど)、気軽な友人同士としてワイワイ共同生活を営むチェンバーズ一家。ボニーも1歳になりました。

そんなある日、また庭先にロボットが。次はつやつやした球体で、ジャスミンと名乗る女の子。「自分はボリンジャーの命令であなたたちを探し出しました。ココの位置情報をボリンジャーに送り続けます」と言ったジャスミンは一家の庭に居座ります。やっぱりボリンジャーとの対峙は避けられないか、と気が気ではないベンら。警察に相談したいところですが、彼らとてタングの窃盗という脛に傷持つ身、行動には移せません。

さて、ボリンジャーとの再会までにはたっぷり1年近くありますから、その間にチェンバーズ一家に訪れた試練とその顛末を記載します。

・エイミー解雇

→収入が一時的に途絶えるけど大丈夫?と愛を確かめるシーンがありましたが、家計を切り詰める様子はなく、ただただ贅沢三昧していたので、謎。その後、エイミーがロボット権専門の弁護士を目指すという流れになる。

・ロジャーのゲスト出演

→非の打ちどころのないクールガイだったロジャーがなぜか、ボサボサ頭にヒゲボーボー、アル中気味でチェンバーズ一家を訪ねてくる。ここでも二人の愛を確認する流れに。

・タングのエネルギー源は核エネルギーだった(焦)

→ボリンジャーの元同僚のDr.カトウが家に訪ねてきて緊急手術を行う。燃料棒?らしきものをしばらくキッチンテーブルに置いておくという不謹慎極まりない展開

・タング、家財保険に入れない

・タング、修理できない、定期点検も受けられない

・タング、どこへ連れて行っても盗品扱いされる

→この三つは、個人識別のチップがタングに埋め込まれていないせいで起こったトラブル。チップを埋め込み正式な所有者として登録しようとすると、販売証明(保証書みたいなもの)の提示を求められる。パクってきたものですからもちろんそんなものなく、手作りです、って言ったら、「え?許可もないのにアンドロイドを製造するのは法律で禁止されているのをご存じないので??」ともっとヤバい問題に発展しそうになり、にっちもさっちもいかない状態。ただこれらは、ボリンジャーを倒したら全て解決されたのでどうでもいい。

・タングとボニー迷子になる

→タングが妹分であるボニーの世話をしたがるように。おそらく人間でいうと3歳くらいになったタングは、「自分でやる!!!!」「自分でー!」「やらせろー!」としつこい。タングの自己肯定感を損なわないようにしながら、どのようにタングとボニーを世話するか、というベンとエイミーの試行錯誤には共感します。

 

と、さすがに2作目ということでまた新たな試練が必要だっていうのはわかるけど、どれもこれも一発屋。イマイチ響かない。

特にロジャーのとこ。ハンサムマッチョで身ぎれいな金持ちエリートのロジャー。モテるからこそ常に冷めた目で女を見て、恋におぼれるような真似はしない男です。前回作でそこまでキャラを作りこみ、最後は冷酷に2人を放り出すという憎まれ役まで買って出たのに、なんで今更(破局後1年以上経って、しかも初訪問)1回だけ顔を出すの??しかも、今更「やり直せないか」と柄にもないことを言うロジャーに、「あんたなんか遊びだったのよ」と突っぱねるエイミー。それを陰で見ていたベンはガッツポーズ。こんな茶番いらねぇ…

前回作から、ロジャーまわりのエピソードだけが一貫性なくふわふわしているんですね。ベンにとっての越えられない壁として登場してみたり、愛情のない冷酷な男になってみたり、なぜかエイミーがいないと生きていけない男になってみたり。男と女の間のことなんだから、理不尽な終わりがあったっていいじゃない。エイミーが捨てられたからといって、彼女の価値が毀損されるわけではないのに、わざわざ”大切な主人公の妻”エイミーに勝利を与えるために再登場させられた気がして、すごく微妙。

 

話がそれましたが、ストーリーに戻ると。

問題のジャスミンは、彼女を一家に迎えることで愛を覚え、家族として振る舞うようになります。前回と同じ流れですね。その後ボリンジャーと対決し、体当たりで万事解決っていうのも前回と同じ流れ。ベンとエイミーの関係がどうなるかは、予想通りです。

正直、前作の焼き直し感がぬぐえず、うーーーーーんっていう。そしてベンの優柔不断さがパワーアップしている気がして、すっげーーーーイライラしました。

 

ベンのイライラポイント

★姉に頼るクセに一人前ぶる

ベンには、エイミーをラスボス化したような弁護士の姉ブライオニーがいます。セレブ趣味はエイミー以上でめんどくさい女ではありますが、近所に住んでいる上に子どもも大きいということで、育児の戦力としてフル活用中。そんなブライオニーは、顔を見ればいつも「二人はこれからどうするの?ヨリを戻すのか、真剣に話をしろ」と言います。彼女からしてみれば、離婚する!って騒いだ挙句に元サヤにも戻らず、「友人のままで心地よい関係」とかフザけたことをぬかしている弟夫婦。しかもボニーも1歳半…ということは3年近くも宙ぶらりんで、子守りのために頻繁に呼び出されていれば、お前らの関係が夫婦なのか仮面夫婦なのかシェアハウスなのかはっきりさせろや!と聞きたくもなろうと思うわけです。

しかしそんなこと口にしようものなら、「また僕たちの話か!そりゃ、うまくやっているよ。いちいち口をはさむなよ!デリケートな問題なんだ!」とあからさまに嫌な顔をするベン。何様だよ、とイラっ。

 

★エイミーを崇拝

二人がヨリを戻すか問題、デリケートなわけではなく、ビビってその話を避けているだけなんですよね。エイミーは何度も「抱いていいわよ!」オーラを出しているわけで、エイミーとしては、ちゃっちゃとセックスして忘れてほしいというところでしょう。それなのに、エイミーの体に触れることが恐れ多い!!みたいなこと感じてて大変気持ち悪い

ご飯を食べに行くときにおしゃれをした姿を見て、「ドレスがかわいい!体のラインが!」といちいちムラムラするベン。冬にスキー旅行に行ったとき、「あれもしたい!これもしたい!家政婦を雇うのも譲れないわ!」と贅沢を言うエイミーに、「ああ、これこそが僕が愛したエイミーなんだ!」とうっとりするベン。(生活を切り詰めるって話どこいった?)他にも、エイミーがメールを見て顔をしかめていたら、「あ!フラれる!!!」と、慌ててエイミーに指示されていた庭の門を修理するなど。40間近の男ですよ?さっさとヨリ戻せば?とイライラ。

対して、エイミーからベンへの愛情はよくわかんなくて、例えば、エイミーがジャスミンを粗大ごみに出してって言った時。ジャスミンは一応ロボットだから、ゴミに出そうとすると確実にモメるだろうと思ったベンは、交渉事は弁護士であるエイミーにしてほしいとお願いします。しかし、「だからこそよ。あなたの成長のチャンスでしょう」とベンにやらせようとするんですね。「あなたが、私が認める一人前の男になれるかどうか見ていてあげるわよ」というスタンスは、私は悪いことしていないわ、という主張に思えます。え?そうだったっけ?

前回、「自己中心的で見栄っ張り、おまけに夫のことを下に見ているエイミーという問題は依然残ったまま」というようなことを書きましたが、ベンは綺麗でセクシーなエイミーの足元にひれ伏したい欲の塊だから、エイミーさえ自分の腕の中に戻ってくれば、大部分のところを譲歩できる、ということで、エイミーという問題なんてもともと存在していなかったことが判明しました。割れ鍋に綴じ蓋、というほどではないけど、だいたいの夫婦が、外から見たら「なんで一緒にいるのかしら?」って思われるようないびつさがあるのかもなぁ、と納得。

 

 

とまぁ、期待しすぎた分もあると思いますが、イマイチでした。

もともと、英国版ドラえもんという触れ込みで読み始めた作品。英国版のび太は、もちろん優しいんだけど、小学生なら許された優柔不断さはそのままに、年齢相応のいやらしさを兼ね備えた男になってて、すごくアレでした。エイミーはしずかちゃんの嫌なところを30年間ぶっ通しで煮詰めたような感じで、それはキャラ通り。

この物語のテーマは、前回と同様、「悪いことはそんなに起こらない」です。人は大人になるとあれもこれもと心配するけれど、家族を大切にして素直に生きればある程度うまくいくよ、というメッセージ。「そんなことアルマジロ」と思ってしまう私にとっては、教訓が甘~い割には登場人物が全然好きになれない、そして仕草や言葉がかわいいはずのタングの一挙手一投足が、わがまま盛りのわが子を想像してしまい、イライラするという三重苦。笑

 

実は最新作、「ロボット・イン・ザ・スクール」も発売中。40代になったベンがどれくらい優柔不断になっているかも知りたいし、エイミーのセレブ妻っぷりも覗き見てみたい気持ちもあるけど。とりあえずはやめときます。笑

ロボット・イン・ザ・スクール (小学館文庫)

ロボット・イン・ザ・スクール (小学館文庫)

 

 

おわり。

ノーと言える女はいい女。勝ち女になるための最強の掟。デフォー「モル・フランダーズ」後半戦

こんにちは。

つづき、いっきまーす。

モル・フランダーズ 上 (岩波文庫 赤 208-3)

物語のあらすじはこちらから。

dandelion-67513.hateblo.jp

 

 

③情に流されない

「一時の情に流されてはいけない、有利な条件を持ち出すことをいつも考えるべし」それが一度目の結婚(兄と弟のゴタゴタ)で得た教訓でした。高揚した気持ちに任せて兄に体を許す前に、兄が結婚を決意せざるを得ないような交換条件を出していれば、自分が最も愛した男と結婚し幸せに暮らせたのに、と後悔したモルはその後、冷徹な策士へと転向します。策に溺れているケースも多々ありましたが、着々と危険を回避していきます。

しかし、モルがロンドンでスリをやっていたときの話でした。心優しい紳士と出会い、互いの名前も知らぬまま一夜を共に過ごし、それっきりになるはずが、何度か逢瀬を重ねることに。銀行員の夫との死別後、十年ぶりくらいに訪れた恋の喜び。後ろめたさを感じながらも惹かれていったモルでしたが、訪問は間遠になり、ついに既読スルーという形で終わりを告げます。やはり、一時の情に身を任せることはよくない、空虚さに満たされながら、モルは決意を新たにしたのでした。

ここ、最も好きなシーンです。普通の作品なら3ページくらいかけて描写するところ、「というわけで、こうした人生の短いひとこまも終わりを告げましたが、このことによって私の貯えは大して増えもせず、むしろ後悔の種が増えただけでした」の一行でおわり。余韻が残る!

 

④ノーと言ってみせる

金持ちのふりして持参金目当ての男を手玉に取っていたモル。相手を骨抜きにしたのちに「ダメよ、結婚なんかできないわ。どんな噂が流れているか知らないけど、噂は嘘。私はお金がないのよ」とお断りします。内心「キター!!!!」って感じなのでしょうが、そんなことおくびにも出さず「無理よ、結婚なんて」と言ってみせる。

他にも、賭場で儲けた時も、掛け金を出してくれた男に、いくらかお金を持っていけと言われ「そんなことできませんわ」と一旦断ります。押し問答の末しょうがなく半分持って帰るのですが(というかゲーム中金をさんざんくすねていたんだけど)、去り際が鮮やか。ノーと言ってみせるなんて、いつかはイエスと言わせてくれるはずだという自信あるからこそできること。美人の特権でしょうが、見習いたいところです。

 

⑤いつも身ぎれいでいる

モルは不潔なのは嫌い。いつも良い服を着ています。一回乞食の恰好をして寸借詐欺もどきをしていたらひどい目に遭い、こんなクソみたいな服着てると運が逃げていくわ!!!とすぐに脱ぎ捨てます。またある時は、高級な喪服を仕立てます。何かいいこと(金になること)はないかしらと町をぶらつくためだけなのに、わざわざ仕立てるとか、粋。

以前、女性向けの記事で、冬はあちこちから服装ブスな女が湧いて出るというのを見ました。「タイツの足首がデロデロ」とか「毛玉だらけの服」とか、「ヒートテックが見えている」とか。モテたいならそこから変えていこう、と。いやほんと、現代にモルがいたら、絶対ヒートテックとか着ないと思うわ。お金がなくてもメルカリとかつかってやりくりしてそう。

 

と、こんな感じの5訓。どうだろう、綺麗な服から実践していこうかな。

他にも人生の教訓があります。

★賭け事は絶対しない

モルの悪事のパートナーである女将は、子どもを売買する商売で足をすくわれかけ、質屋に転向した生粋のワルです。ある時気分転換に行った賭場で大勝してきたモルは「楽しかった!」とウキウキ気分で女将に成果を報告します。そんな女将は鬼の形相で「賭け事はやるな!!!!!!」と一喝。

おもしろい、おもしろすぎる!!!

だってこの女将、近所で火事があったから泥棒してこい、とか、仲間を紹介するから三人組で押し込み強盗をしたらどうか?と平気で紹介するんですよ。スリや強盗は良くて、賭け事はダメなんかい!!!って思いますが、こんな悪事のプロが賭け事はダメだっていうんだから、絶対やっちゃいけないんでしょうね。やめましょう。

 

★悪徳は困窮という戸口から入ってくる

他には、「貧困はすべての落とし穴の中で最も悪質」とか「苦しい時は誘惑の時、抵抗する力がなくなる」とかいう言葉が。このことについてモルは、「貧困に耐えろ」とも、だからといって「悪の道に身を落とすのは仕方ない」とも言っていません。貧困の可能性は誰にでもあり、ひとたび困窮に陥ってしまえば、そこから普通の手段で這い上がるのは不可能である、と言い切っているんですね。

もちろんこれは何のセーフティーネットもない17世紀の話ですが、日本も相対的貧困率は先進国と呼べないレベルと聞きますし、他人事とは思えません。何度も言うけど、明日のパン代ですら困る状況になったら、打つ手はないのです。

 

★(特に美しい方へ)うぬぼれない

「若い夫人がいったん自分は美しいと思い込むと、自分を好きだといってくれる男の真実さを決して疑わないものです。なぜなら自分には男の心をとらえるほどの魅力があると思い込むと、その魅力の効果に期待してしまうからです」と書いてありました。そして、男性から熱烈に言い寄られたら、「やりたいだけかも…???」という疑念は常に頭の片隅に置くべしとも。

美しい(と思い込んでいる)と、「私は高嶺の花。私を大切にしない男なんかいない」と勘違いし、危機察知能力が鈍るから危険ということでしょうかね。ただ、美しくない人が熱烈に言い寄られても、DV男とかダメンズに引っかかってしまう例があるので、とりあえず美人だろうがおブスだろうが、うぬぼれない。そして、「こんないい話あるかしら?」と疑ってかかる。これ本当に大切。あと変な写真を撮らせないとか。

これはもちろん男性にも言えることで、モルみたいな女に引っかからないためにも、金目当てなのかどうなのか、慎重になりましょう。

 

おまけのおまけ

★問題の解決が先の場合はよそよそしい態度を取れ

何の話か分かりますか? これは、不倫の話ですよw 「妻とは別れるから…」と言っている段階ではOKを出さない、問題が解決されてから受け入れても遅くない。(ていうか、受け入れちゃダメ)というありがたいお言葉です。

 

とまぁ、教訓を見出そうとすればいくらでも出てくるありがたい書。淡々と事実が語られすぎて「おもしれぇ!」ってなる瞬間はありませんが、深い、深すぎる!時々読み返したいと思います。

 

おわり。