はらぺこあおむしのぼうけん

読書、映画、ときどき漫画のレビュー。最新刊から古典まで。

母の過去を強引に知ろうとした結果出会った切なすぎる真実 「秘密」ケイト・モートン

こんにちは。

先日大絶賛したばかりの「湖畔荘」作者の、ひとつ前の作品です。

「秘密」ケイト・モートン

 

秘密〈下〉 (創元推理文庫)

秘密〈上〉 (創元推理文庫)

 

ある夏の日ツリーハウスの上から母が男を殺すのを目撃したローレル。その事件は強盗未遂事件として片づけられ、母は正当防衛を認められたが、ローレルは被害者の男が「やあ、ドロシー」と母の名を呼ぶのを覚えていた。母とその男は何でつながっていたのか、今まで知ろうとしなかった結婚する前の母の秘密を探ろうとする話。

 

親の過去ってあんまり知りたくないんだよねぇ…っていう人が多いと思うけど、人の親の過去なら知りたいです!それも特大に重いやつ!!っていうデリカシーのない私は、作品紹介を読むだけで興味津々。認知症も進み過去と今とがわからなくなってきた母ドロシー・スミザムが、「二度目の人生をくれてありがとう」なんて口走るものだから、「え!?なになになになに!?」ってめっちゃ気になってくる。

主人公は事件を目撃したローレル。彼女は娘として、母の過去に接するのに戸惑いとか覚えるのかと思いきや、前作(時系列的には最新作)の「湖畔荘」のアリスを彷彿とさせる肝っ玉の太さを誇るローレル。死にかけの母の耳元で「ねぇママ聞いてる??…ねぇ!?」と大きい声で過去を問い質すなど、アリスばりのせっかちわがままババァです。

 

鳴り物入りで(我が家に)やってきた「秘密」でしたが、のっけからdisらせてもらうと、まず、似たような設定・展開が頻出してデジャヴなところがちょっとだけ微妙でした。親切で話好き、事件に関わる重大なヒントを与えてくれる司書だったり、カギを握る人やその家族が存命でわざわざ訪ねて行って想像できないくらい良い関係を築くところ。

また、主人公も「湖畔荘」の主人公、アガサクリスティ風超売れっ子ミステリ作家に比肩するすごい人で、なりたい顔ランキング2位の女優という石田ゆり子的な…?

ローレルの妹の一人ローズは田舎のオバサンなんだけど、他の2人の妹は超やり手だし、末弟のジェラルドはスゴイ大学のスゴイ研究者で、こういうの好きなんだろうなぁっていうのはわかるけど、趣味全開!!!って感じで、弁護士とか誰もが認める美人とか影のある男子とか全寮制の学校とか、そういう過剰な小道具を愛用する恩田陸に見えてくる。ローレル姉妹もその母も皆御多分に漏れずすごい美人、そんなにすごい人間を登場させる必要はどこにあるんだろうなんて思ったりするけれど、まぁ内容が面白いので許します。笑

 

謎解きする現代の話、真相がちょっとずつ語れる過去の話。交互に読んでいるうちに「そういうことか!!」とひとり早合点し、最後の最後で誤りを正される快・感…!!笑 前回は捨て伏線なる荒業に舌を巻いたけど、今回も引き続き練りに練られてんな、って感じ。「あの役どころに超イケメンを採用する必要ってなくない…?」なんて余計な事考えず、不思議な世界に没入して騙されましょう!!

 

「湖畔荘」と同じ、時代設定は戦時中と現代。「湖畔荘」は戦争神経症がカギでしたが、今回はナルシシズムがカギを握ります。単純なミステリに見せてある一つの普遍的なテーマを中心に据えて深掘りするところも、この作家の魅力の一つかと思います。

ナルシシズムはアニメなどのせいで、いつも鏡を見ているようなものを想像させますが、実はそういうんじゃなくて、過剰な承認欲求、空想の世界を作り上げる、自分を大きく見せるなどのことを指します。生まれた家の身分の低さ(今と違って当時はどうにもできないまま子に引き継いでいくようなものだった)、戦争の不条理など、もともとそのけはあったんだろうし、そのものに罪はないけれど、いろいろ不運やすれ違いが重なった末、事件が起きてしまいました。

最後まで読んでみてドロシーの隠し続けてきた「秘密」の大きさに改めて気づかされ、どれほど心の休まらない日々だったろうと胸を痛めてしまう。親の秘密を知るのには躊躇してしまいますが、告白したい秘密を抱えたまま生きるのもそれまた辛いこと。ドロシーは秘密をやっと告白して安らかに逝けたのでしょうか。

「湖畔荘」と同じく秘密や疑念が心を蝕んでいき、人間関係をいびつにしてしまう恐ろしさにぞっとしました。

「湖畔荘」ほどハラハラドキドキはしないんだけど、プロット・構成・登場人物・裏テーマなどなどの作りこみはスゴイ。こちらもオススメ!と胸を張って言える作品。

最新作からさかのぼっていく感じなってしまったけど、次は「忘れられた花園」を読んでみたいと思います。

 

おわり。

 

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生活保護の制度的な課題に深く切り込んだ社会派サスペンス 公開中の映画原作本「護られなかった者たちへ」中山七里

こんにちは。

 

佐藤健主演で公開されている映画の原作本。

「護られなかった者たちへ」中山七里

護られなかった者たちへ

 

生活保護の制度的な問題に深く切り込んだ作品。舞台は3.11から復興中の仙台ということで、あのときの仙台の浮足立った感じがよく出ていると思います。

仙台市内で、手足を縛られ餓死させられた死体が見つかるという連続殺人事件が発生。体を縛り上げ、人の来ない建物に放置するという残忍な犯行方法には強い恨みを感じるものの、関係者の誰に聞き取りをしても、被害者はそろって善良な人間で強い恨みを買うようなことは思いつかないと言います。

怨恨、金目当て、ゆきずり…殺人事件は大きくこの3つに大別されるけれど、そのいずれにも当てはまらないという奇妙な殺人事件。捜査は難航しますがが、2人の被害者には、塩釜の社会福祉事務所で一緒に働いていたという共通点が発覚します。

職員の仕事に同行するうちに、社会福祉事務所の職員が携わるケースワーカーとしての仕事には、受給者や申請者から逆恨みを受ける可能性が大いにあると感じた刑事苫篠と蓮田は、過去の申請を洗い出すことにします。

 

捜査の過程で苫篠たちは、生活保護制度の抱える問題に気づきます。

例えばあるシングルマザーは、パートの賃金が保護費を上回っているから、保護を止められたくなければ賃金を減らせとケースワーカーに指摘されます。自立を促す制度なのに働くなっていうのもおかしな話だけど、パートして子どもを塾通いさせるのはNGなんだという。

「子どもを塾に通わせるのが贅沢なんですか」という彼女の言葉に胸が締め付けられます。学がなければ貧しくなる。貧しい者は貧しい同士で子どもを作り、その子どももまともな教育を受けられずに貧しくなる…自分の代でその連鎖を断ち切りたいという彼女の願いに、いちど社会のレールから外れた人へのチャンスの少なさを感じます。

さらに、申請時には資産がないことを示すという悪魔の証明をさせられるということとか、行方をくらました親族を自分で探して扶養できないことを証明させるとかいう鬼対応が横行していることも発覚します。申請窓口で、何十歳も年下の若者に「おじいちゃんさぁ、働いてよ?選ばなければ仕事あるでしょ??」と説教される苦しみ…

申請が通らなかった人が予想以上に多く途方に暮れる苫篠たちに、「職員とトラブルになる人はいますが、申請に来る時点で皆、殺人できるほどの元気はなくなっていると思いますよ」と声をかける職員の言葉、胸が痛い…

 

この不景気の折、さらに3.11の後遺症も相まって保護を必要としている人は増えているのに、生活保護に割ける税金は減らせというお達しが出ている。とにかく生活保護申請を通さないという”水際作戦”なるものをしているらしいということが発覚します。

以前芸人のお母さんが保護費を受給していたということがあってバッシングされたように、生活保護に対する世間の目は厳しくなっていて、超好景気になって子どももバンバン生まれないとどうにもならんという財政難。水際作戦の遂行を求められ、申請の矢面に立っているのは社会福祉事務所の職員です。意に沿わなくても一定数の申請をはねつけなければならない彼らにも言い分はあるのでしょう。

殴られたほうは殴られたことを忘れない。殴ったほうは痛みもすぐ忘れ、拳を振るううちにその痛みも感じなくなる…

被害者ももとは善良な人間だったのでしょうが、水際作戦作戦に携わることで善良な人間すらも変えられていくという”倦み”を感じた苫篠たちでした。

 

受給者に対する非難の声は、3.11の復興期の市民の声とも重なります。義援金の使い道に対して「ずるい」「おかしい」「不公平」などという声が、市街部の比較的被害が少なかった地域から、沿岸部の被害甚大な地区、または福島からの移住者に対して上がっていた記憶があります。

どこまでが”仕方ない”のか。皆我慢しているから?もっとひどい人がいるから?家でも家族でも、何かを失った人間は皆苦しんでいるのに、あの時も苦しみや窮状に序列をつける人たちがいたような気がする…そんな中で、声の小さき者は余計に口を閉ざし、声の大きいものは悪びれもせず権利を行使する

 

護られなかった人たちの苦しみを描いた作品ですが、とにかく全編を通じてやるせなさでいっぱいになります。病気や事故などをきっかけに公的扶助が必要になる可能性はどこにでもあるわけですが、同じ国の中でこんなレベルの貧困が見過ごされているの怖い…というのが正直な感想。

 

あとは…(以下ネタバレ含みます)

中山七里はどんでん返しの帝王と呼ばれてはいるけど、今回はどうかな…

怪しいやつ一人を登場させて怪しい動きをさせ、最後にとってつけたように真相を明かすっていうのはどんでん返しとは言わないような気がする。ここまで犯人らしき人ごり押ししている以上、こいつが犯人ではないのだろうなぁ思いながら、でも他に誰も怪しいやつ出てこないし…としょうがないから先入観なしのまっさらな気持ちで読み進めようと努力するも、真犯人明かされて、こいつ誰だったっけ?っていうレベルの存在感。笑

あと被害者の2人目が市議なんだけど、市議を殺せた理由、3人目のターゲットを誘拐できた理由も大変曖昧。一人目はわかるけど、二人目以降はそう易々と誘拐できるものかね?

 

以上、ネタバレおわり。

 

とはいうものの、面白くて一気読み(本当に一晩で読み終えてしまった…)必至です。映画は少し内容変わっているようなので、それも楽しみ。早めに見に行こうと思っている次第。

さいご、「部屋を見るとそいつの煩悩がわかる」って言葉が出てくきてぐさりとしました。部屋を見渡してみると煩悩だらけなので大掃除します。笑

映画『護られなかった者たちへ』公式サイト (shochiku.co.jp)

 

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湖畔にある廃墟×未解決事件×家族の秘密に惹かれないヤツなんかいない!「湖畔荘」ケイト・モートン

こんにちは。

 

湖畔にある廃墟×未解決事件×家族の秘密なんていう大好物をフルコースで堪能(しかも上下巻の超大作)できるなんてホクホクしてしまいました。東京創元社から文庫がでたばかりのこちら、寝不足にご用心。

「湖畔荘」ケイト・モートン

湖畔荘 上 (創元推理文庫)

湖畔荘 下 (創元推理文庫)

ミステリが読みたい!第2位、

週刊文春ミステリーベスト10 第3位、

このミステリーがすごい!第4位

 

と、実はミステリ系の賞を総なめにしているすごいヤツ。前評判に違わずすごいヤツなので、おぉ…って声が出ること間違いなし。

 

以前紹介した、「エヴァンズ家の娘たち」を彷彿とさせる作品で、今回も、女ばっかりがぽんぽん生まれてくる女系家族の何代にもわたる物語。結婚を機に自分の人生に別れを告げ、自分がなりたくなかった女になり、男に人生を託し、苦労と秘密を背負い込み…というところも同じです。

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時は2003年、謹慎中の女刑事が強制的に2週間の休暇を言い渡されてコーンウォールの祖父のもとを訪れるところから物語は始まります。迷子になった犬を追って森の中に入り、そこで荒れ果てた湖畔荘を発見するなんて、なんて耳すまなストーリー。女刑事セイディ、彼女が一人目の主人公です。

そして1930年の夏まで時代は遡ります。湖畔荘で暮らす幸せな一家を地獄に突き落とした未解決事件がこの物語の中核をなしている。推理小説家志望の次女アリスが、もう一人の主人公。

 

予想を裏切らず、アリスは2003年になっても健在で、矍鑠たるオールドミスとして(あー絶対結婚できないわコイツって感じのばあさんになって)、ストーリーを前へ前へと進めます。アリスは推理小説家になるという夢も叶えており(しかも売れっ子!!)、多作で残酷な描写もなく心理描写が巧み、さらに常に合格点をたたき出すアガサクリスティのような優等生になっている。ただその性格は、アガサにミスマープルを足して青汁で割った感じで全然好きになれないから序盤はイライラし通しです。悪い年の取り方したもんだな!って言いたくなる。笑

 

ただ、どうでもいい話だけど、唯一アリスとわかり合えるポイントを発見してしまって、それは、シャーロックホームズについて。「演繹的方法で説明のつかぬものはないと豪語するホームズの自惚れ」と一刀両断されてて、わかる×100。ちょっと好感が持てます。笑

またアリスはミステリの10戒を守ることも信条としており、それも好感度高い。最近コレ知らねぇミステリ作家多いよなぁ…って思う。

 

アリスは、HowよりWhyという観点から犯罪を描くことを追求することを信条としています。どうやって怪事件を起こすかではなく、何があんな普通の人を殺人に駆り立てたのか?という深イイ小説を書いているらしい。アリスの信条通り、この小説に出てくる人は皆どこにでもいる普通の人。しかし普通の人が集まり暮らすお屋敷の中で、おぞましい事件が起きるのです。その事件を、心の闇、秘密、欲望が引き起こした結果と言って片付けるのは簡単だけど、全ては裏で”愛”が糸を引いていたと考えると、事件に対する見方が180度変わるから不思議なものです。

 

みんなそれぞれ秘密を抱えたまま口を閉ざしているし、事件の遠因となったのもおそらく家族の事情だし、そして事件は未解決で…と、幸せだった家族はいとも簡単に崩壊します。秘密を抱えて生きることはどんなに辛いことか、いつも心のどこかに家族への疑念を持っているのはどんなに辛いことか。事件当時の湖畔荘にはびこっていた疑惑、早合点、嫉妬、焦燥…人に過ちを犯させ人生を奪うのに十分すぎるこれらの雑音から、丁寧に真実だけを取り出していくセイディのひたむきさに救われる作品です。70年以上前の事件へのアプローチとして、会ったこともない人間の心情を想像し、納得いくまで何度も想像し直したり、様々な手段で入手した屋敷の見取り図を照らし合わせて隠し扉を発見するなど、読み物としても推理小説としても素晴らしい!!

 

長篇にありがちな、上巻が終わる時点で

・伏線らしきものから動機がなんとなくわかってしまう(悲劇)

・何もわからないけど、それ以前にその“秘密”とやらを知らなくてもいいような気分になってくる(もっと悲劇)

とかいう中だるみもなく、構成、心理描写共にハイレベルでExcellent!

ここまで自分向けの小説に浸れるとは…と大変幸せな時間を過ごしました。

 

特にすごいなって思ったのは、「この伏線最後まで重要だろうな…」と思うモノのうちのいくつかが、真相には関係ないところ。ただのブラフなんです。でも、ブラフにしては丁寧に時代の前後関係人間関係も考慮した上で挿入されていて、そんな貴重な伏線をポイしてまで読者を煙に巻くというその手腕たるや!伏線なら掃いて捨てるほどあるで!!という売れっ子推理小説家の余裕なのでしょうか。捨て伏線とかやばい!すごい!と感嘆しきりでした。笑

 

この小説を貫くメッセージは、「過去も未来も恥も良い思い出も全て意思を持って私たちを導いている!!」というもの。「土地」や「家族」に執着するタイプのアリスからすると、自分の来し方行く末が土地なり家族なりに根ざしていると実感できることは、(愛しさと切なさと)心強さを感じるものなのでしょう。ただ若干、辛気くせぇ…というか、恵まれている人がしがちな発想だな、という印象。後半にかけてこの運命論的なアレを強調すればするほど、ちょっとずつ微妙な気持ちになっていくので、【蛇足】の故事を解説したことばカードをプレゼントしたい気分になったりもしました。

 

アリスはオースティンのエマ(個人的嫌いな主人公ランキング5位以内にいる)を髣髴とさせる、というか序盤からエマにしか見えなくて生理的に受け付けません。下働きの人間とも打ち解けられるワタシを気取って使用人とお友達になろうとしているところとか、ワタシの想像力や聡明なところを理解してくれる王子様が必ずいると信じているところ(結局いなかった・・・)とかすごく痛々しいし、大きくなっても勘違いが激しい嫌なヤツのままだし…。エマも結婚しなかったらこんな女になったんだろうなと想像してしまう。

老いて弱気なところを見せたりもするけど、「私も老いたなァ…」なんて自省することはなく、若いアシスタントに当たり散らしてみたり、セイディの気持ちをもてあそぶことで発散させているあたり「クソババァ…」ってなるんですね。

エマも故郷とか実家とか大大好きですごい土地とか家族に執着しそうだし(勝手なイメージです)、ああもうアリスはエマにしか見えない!ということで、主人公の性格や理念にはまったく共感できなくてイライラもするけど、それでも読むのが止まらない推理小説ってすごくないですか??と逆説的にもオススメします。笑

 

同様の作品として、「秘密」「忘れられた花園」の2つ(どちらとも上下巻)があるそうで、早く読みたくてウズウズしています☆

 

おわり。

 

2021年12月15日追加:

 

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「栄辱」を軸に、父と娘、女と男、そして西欧とアフリカの価値観を見事に対比させた作品。「恥辱」J・M・クッツェー

こんにちは。

名前だけは知っていたクッツェー。語呂がいいですよね、クッッッツェェェー!と存分にためて呼んでみたい。「恥辱」J・M・クッツェー

恥辱 (ハヤカワepi文庫)

彼はこの作品でブッカー賞史上初、二度目の受賞を果たします。

 

 

我らが主人公、53歳の大学准教授デイヴィッドが高級娼館に入っていくところから物語は始まります。ベッドではこういう感じの女がいいという(大変どうでもいい)情報が開示されたかと思えば、自分の性欲について達観した(ような)意見を述べるなど、「うわぁ…」という立ち上がり。

「小さくて形のいいバスト、上を向いた乳首…!」と若い女の体を賛美しながらも、欲望を持て余し、医者に何とかしてもらおうか、と悩むデイヴィッド。パイプカットならぬイチモツカットに真剣に思いを馳せ、「椅子に腰掛けていちもつをちょん切る男の姿と、同じ男が女の体で歓んでいるのはどちらがみっともないか…」なんて考えたりもする。

 

同世代よりも知的で、自分の性質を理解し、年相応の諦念も持っている自分に概ね満足し、「わかる男」であることを密かに誇っているデイヴィッドでしたが、教え子のメラニーと関係を持った事で彼は職を追われます。セクハラで査問会にかけられた際、訴えが事実かと問いただされても、すぐに抽象的な議論にすり替えてしまうさまは、どこにでもいる謝れないオジサンを彷彿とさせる。復職の可能性を自らフイにして彼は、娘の住むアフリカのド田舎に引っ越します。

 

責任もとらず、何かあればすぐ逃げようとするデイヴィッドの浅はかさに戸惑い、これがブッカー賞…?と少し疑いを持ち始める、ここまでが前半部。

作品紹介には「二度の結婚と離婚を経験し、手頃な女で性欲を処理してきた53歳の大学准教授が教え子に手を出したことで大学を追われ、田舎に引っ込むがそこでさえ審理が待ち受けていた…」ということが書かれおり、結局田舎に引っ込んでも、女がらみでトラブって、そこで「恥辱」にまみれるというタイトル通りの(安易な)テーマなのか…なんていうことを想像してしまいがちですが、それは大きな間違いで、この”審理”っていうのがひとりの人間の今までの人生を根底から覆すほどの威力を持っており、さすが…と唸ってしまう作品。

 

娘のルーシーのもとに引っ越し、田舎での牧歌的な暮らしに意味を見いだし始めたある日、家に強盗が押し入ります。金になりそうなものは根こそぎ盗まれ、家の中はめちゃくちゃにされ、そしてルーシーも無傷では済まず…。立ち直りを模索する中、被害をなかったことにしてアフリカに暮らし続けることを望むルーシーと、アフリカの家を引き払い、母親の暮らすオランダへ帰ることを勧めるデイヴィッドの間には決定的な亀裂が入ります。

 

「栄辱」を軸として、父と娘、女と男、そして西欧とアフリカの価値観を見事に対比させた作品。単純に見えて複雑…そんな人と人の交わりにおける”混沌”を、無理のない形で描ききった作者の技量に感服してしまいます。

秩序だった西欧的価値観の中で欲望だの本能だのを涼しい顔で語っていたデイヴィッドが、アフリカという本能剥き出し・弱肉強食の世界に放り込まれて傷を負い、齢50を超えてもう一度自分の生きる意味を定義し直そうとする様子は、胸に迫るものがある。

 

 

何かを考えるときに、やたらと視点をマクロにしたがる人がいます。何か問題があると、それを地球規模で眺めてみたり、統計的に見てみたり、歴史の流れの中で考えてみたり。宇宙目線で問題を捉え「ちっぽけなこと」と自分の話を矮小化して片付けようとする人がいる。

自分の身に降りかかったことをありふれたこととし、犯人を知っているのに警察に突き出すこともしないルーシーもそうです。アフリカ出身でもないのに今の土地にしがみつこうとするルーシーは「歴史」を言い訳にします。白人がアフリカの人間を迫害したことに対して憎しみをぶつけられてもしょうがない。”過去の過ちの償い”と、全世界の不幸を一身に背負っている風を装い、トンチンカンな理論で奴隷の身に安住しようとする彼女。

少なくとも自分が呼吸し暮らす世界では、自分の抱える問題は自分だけの問題であるし、超えなければない山であることには何ら変わりないのに(なんで歴史の話にすりかえちゃんだろう)…とその頑なさにイライラさせられ通しなのですが、それは昔のデイヴィッドの姿にも重なるものもあって、それだからこそデイヴィッドも、ルーシーと同じように悩んでしまうのです。

 

栄誉とはなにか、恥辱とはなにか。男と女、アフリカと西欧で大きく異なる価値観に翻弄されたデイヴィッドは、男として、父として苦しみながらも自らの人生を再構築します。人間はある一定のレベルで老いると、経験から何も得るものはない、なんてうそぶいていた男がもがき苦しみながら得たささやかなもの、それは愛。愛という言葉を、抽象的な概念でしか語ってこなかったデイヴィッドが、最後に真摯な心から「愛」をいう言葉を口にするラストには、胸揺さぶるものがあります。

 

うすっぺらく見える前半部から、読者を混沌に巻き込む怒濤の展開。300ページあまりの短い小説の中に、そんな力が込められているなんて…!と圧巻!ブッカー賞とはかくあるべし。と、小説のクオリティに感動してしまいました。

これまでSF的な作品が多く、この作品が初めてのリアリズム作品となったクッツェー。訳者後書きで紹介されていた”Slow Man”という作品にも期待してしまいます。

 

おわり

殺人事件をトリガーに、宗教を一から捉え直し定義し直そうと試みた大作「信仰が人を殺すとき」ジョン・クラカワー著

こんにちは。

 

「信仰が人を殺すとき」ジョン・クラカワー著

信仰が人を殺すとき 上 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき 下 (河出文庫)

信仰が人を殺すとき…と言われても、戦争の大きな原因の一つは宗教だしなぁ…とか考えるといまいちピンとこない邦題。原題は”Unnder the banner of heaven”で、こっちのほうが意味がとおる感じではあります。

 

1984年にモルモン教徒の男2人が義妹と姪を殺害するという事件がありました。犯人が神の啓示に従って殺したと主張したこの事件は世間の耳目を集め、多くの人間は彼らを”狂信者”と呼びます。ただ、もともと宗教には妄想的な部分が大いにあるわけで、啓示と妄想はそもそも異なるものなのだろうか?宗教とは何か”良いもの””ピュアなもの””無欲なもの”のように認識されているが、それは本当か?…など、モルモン教を例にとり、「宗教とはどのような性質のものなのか」という大きな課題に切り込んだ超大作!と思います。

 

1年ほど放置してしまったけれど、腰を据えて読み始めると最後まで集中して読めました。とにかく情報量はんぱないので時々整理が必要になります。

 

内容は以下の3つで構成されています。

(1)ラファティ家で起きた殺人事件(1984年の事件発生~裁判まで)

(2)モルモン教の歴史

(3)原理主義者の動向

話題があっちにいったりこっちにいったりするため、今はどの時代の誰の話を読んでいるのか常に立ち位置を確認しなければならない本。だからといって面白くないところを飛ばし読みすると、事件や宗教の背景が理解できなくなるから、じっくり読むべし。

 

ダン・ラファティとロン・ラファティは、末弟アレンの妻ブレンダとその娘エリカを殺害しました。彼らは神のお告げにより義妹と姪を殺害したと主張します。もともとラファティ家は地元でも有名な熱心なモルモン教徒でしたが、ダンとロンが原理主義に傾倒し始めたことで、ロンとその妻ダイアナの夫婦関係はギクシャクしていきます。教養もあり社交的なブレンダは、義兄たちが原理主義的になっていくことに異を唱え、ロンとダイアナの離婚を応援し、さらに、夫アレンにもがダンやロンへ近づかないように心を砕いていました。

家父長的大家族を築くことをよしとしているモルモン教ですから、ロンやダンからすればブレンダは危険な存在。ブレンダはいやな女だから殺した、エリカもいやな女になるだろうと思ったから殺した、神にそう命令されたと、ロンやダンは主張します。

 

モルモン教徒と原理主義者の大きな違いは”重婚を認めるかどうか”です。重婚はもともとモルモン教創始者であるジョセフ・スミスが始めたものですが、米国社会の一員となるために、モルモン教徒が捨てたのが重婚の教義。原理主義者たちは、重婚という教義を守ろうとしています。その重婚もなかなか問題含みで、自分の娘(14才)と結婚する(レイプする)なんていうことが平然と行われている上に、法律上1人としか結婚できないことを逆手に取り、2番目以降の妻は全て事実婚とし、手厚い一人親手当をちゃっかりもらっているという。

 

そもそもモルモン教は、比較的新しい宗教。印刷の技術があった時代に広まった宗教のため、かなりしっかりした記録が残っています。歴史が浅い割に信者も多く政治への影響力も強い。「子だくさん」を推奨していることもあり、信者は増加しているそうです。

 

一般的に宗教とは神秘的なもので、数百年単位で数々のエピソードにお化粧を施して俗っぽさを消していますが、モルモン教はそんなこともなく、スミスが印刷費用の調達に奔走したり、後にスミスの妻となるエマが父親にスミスを紹介した際「あいつは詐欺師だ!」と娘を叱り飛ばすなど、およそ宗教らしからぬ人間くさいエピソードがたくさんあり、大変興味深いです。

 

モルモン教は、信者一人一人に神との対話を許可することで信者を増やしていきました。「後発」の良いところは、いいとこ取りができるところ。キリスト教の教義を大きく逸れずに、神をもっと近くに感じたいという要求を満たしていったモルモン教は、一気に信者を獲得していきました。

「誰でも預言者になれる」というこの特徴からして分派ができやすい宗教であるにもかかわらず、”本家”が生き残っているのには生々しい裏事情があります。自分たちは逆境に置かれていると仮想の敵を作ることで信者の団結を図り、分派もことごとく潰してきた戦略家なのです。

 

誰もがエターナルなもの、真理、正解などという”すがるべきもの”を求めていて、それを上手に与えることで、信者は増えていきます。神との対話」の内容を聞くに、厳しいことを言われている様子はなく、基本的に肯定的で啓示を受けた人にとって優しい。例えば、若い女の子との”結婚”を宣言するときには「神がおまえとの結婚を望んでいる。拒むと地獄に落ちるようだ」という感じで引用されていたけれど、指示が具体的で脅迫めいているし、神の公正さみたいなものを期待していた私からすると、望まない結婚を強いられる女の子にとっての神とはどのような存在なのだろう、と疑問に思う瞬間もあったり。

 

クラカワーは、

 

信仰が妄想であると見なされるかどうかは、それを守ろうとする人々の真剣さにもよるし、それを信じる人々の数にもよる

 

という言葉を引用しています。同じ宗教を信じる者のコミュニティがそれでうまくいっているのであればよそ者が首を突っ込む必要はないと思いますが、特に啓示というものについて考えようとすると「その道に進みなさい」というような自己完結型の啓示は良いとして、容易に相手の権利を侵害しうる啓示への危なっかしさは感じてしまいます。

 

ただ、現在の末日聖徒 イエス・キリスト教会(モルモン教の正式名称)は重婚を捨て、原理主義者たちとは全く違うと主張しているので、混同は厳禁!

 

 

さて、ダンやロンが傾倒した原理主義とは、どんな宗教にも共通するものですが、以下の3つの特徴を持ちます。

 

極端な生き方をすることで当の本人はなにか歓喜にも似たものを経験する

原理主義とは、視野狭窄を起こし人を極端な行為に走らせるものです。彼らにとっては、解釈がほどこされていないスミスの言葉、いわゆる「原典」通りの生活を送ることこそが目的で、厳しいお題を与えられれば与えられるほど気持ちよくなってしまいます。

 

信仰にのめりこんでいる人間を動かしているのは、傍目には富や名声や永遠の救済といった大きな報酬を期待してのことに見えるかもしれないが、おそらく、永遠に本人が手にするのは強迫観念そのものだろう。

自分たちの望みが達成されないことは彼らにとっては恐怖そのもの。自分たちの行動を邪魔する要因は排除しなければならないと思うようになります。

 

信仰と理性は正反対

理性的に行動することと教義に従うことを天秤にかけるまでもなく、自らの信仰に従ってしまう。

 

原理主義についてはよく知られていることであり、ここで多く語る必要はありませんが、興味深かったのは裁判において彼らの信仰の異常性が焦点となったときのこと。異常な信仰(=妄想)にとらわれて罪を犯した人間の責任能力についての議論。

 

まず、異常な信仰(=妄想)について司法心理学の重鎮はこう証言します。「私の知っているほとんどの宗教は90%が信仰規約で、事実に還元すると全ての宗教はまがい物ということになる。彼の信仰が本物かまがい物かは責任能力の有無とは無関係である」つまり、異常な信仰を持っているからといって即精神疾患というわけではない。

 

さらに、精神疾患の診断について、「他者とのコミュニケーションを求め、議論し、ユーモアがあり、本を読む」精神疾患の患者はいないから、議論好きな彼は精神疾患ではなく、責任能力はあると意見を述べました。

日本でも異常犯罪があると話題になる「精神鑑定」。宗教というものを一から捉え直し定義し直そうと試みる裁判のくだりは目からうろこでした。

 

秋の夜長にじっくり読みたい本。

おわり。

「人生は簡単なことよりも正しいことをできるかどうかだ」少年の目から”善”とは何かを見つめた小説 「少年は世界をのみこむ」トレント・ダルトン

こんにちは。

今年の2月に発売された作品。

「少年は世界をのみこむ」トレントダルトン

ヤングアダルト向けではありますが、いい大人が読むからこそ心にずっしり響いてくる。気が早いけど、本屋大賞や翻訳大賞でいいとこにいくんではないかと思っている次第!!


少年は世界をのみこむ (ハーパーコリンズ・フィクション)

80年代のオーストラリアの小さな町。ベトナム系移民などが暮らす貧しい地区に暮らすイーライの母は麻薬に溺れ、父親代わりのライルは密売人。兄はあるときから喋ることを止めてしまいました。そんなイーライの親友は、殺人犯かつ脱獄囚という老人スリム。

スリムがもたらす子ども思いのアドバイスの甲斐もあって、イーライは夢や希望を失わずに未来に向かって生きています。そんなイーライの将来の夢は記者になること。自分が置かれた境遇を過度に悲観することなく日々を淡々とこなすイーライでしたが、麻薬や暴力がはびこる貧しい町で暮らす少年が、大人のゴタゴタに巻き込まれずにいられるはずもなく……

どこのスラム街もそうですが、子どもたちには本当に過酷な世界です。親の本当の職業を知ってしまったイーライが友人に「自分のまわりの大人はみんな善人だと思っていたけど本当は悪党だった」とこぼすと、「大人なんて最低の生き物」と友人が返す、そんな世界観。しまいには友人の親に見初められ「元締め」の稼業を手伝わないかと誘われる始末。得ることよりも諦めることのほうが圧倒的に多く、ナイーブな心のままでは到底生きていくことはできません。

イーライは、親友スリムの精神年齢鑑定によると「70歳から老衰の間(!!)」とされるくらい成熟しきっているティーンです。そんな彼は、世界を”善”と”悪”という目で見ています。脱獄囚だけど自分に優しくしてくれるスリムは善人とカテゴライズして良いのか、凶悪犯が時々見せる思いやりをどう解釈したものか…など、悪の中の善、善の中の悪をうまく消化しきれずにいます。

スリムは「人は光からも影からも逃れられない」という教訓をイーライに授けます。喜びにも悲しみが伴うように、光の前に引きずり出されたことで影が生まれる。どれが善でどれが悪かなんて時間が経ってみないとわからないのに、きっちり分別して片付けたがるイーライは青臭くてちょっと危うげ。ただ、そんな彼も、悪をのみこんだ善良な大人たちにもまれる中で、彼なりの”視点”を獲得し成長していきます。

貧しくて複雑で闇を抱えているスリムは、一見すると”不幸”ですが、実は彼の心は誰よりも豊か。スリムに言わせると、豊かさの秘訣は”ディテールを大切にすること”。ディテールとは、身の回りの小さなことに目を留めること、ディテールを大切にすることで世界に色彩が生まれ、人生が豊かになる。そんなディテールマスターのスリムはなんと、ディテール技を繰り出すことで時間の進みすら自分で制御する(!!)ことができるらしい。

ただ、このディテール第一というポリシーのせいでどうでもいい描写ばかりが続くため、なんとまぁ読みにくい本。笑 第一章で挫折した人も多いと思うし、約600ページ読み終えるとそれなりの達成感はあるものの、「こんなに細々したこと描写する意味ってあったのかな?」と純粋に疑問を持ってしまいます。ディテールの大切さは伝わるけど、「ほら、ディテールって大切だろ?」と押し売りしてくる感も否めず、逆にディテールというものの価値を損なったのでは?なんて、せっかちな読者の私は思ったりもしました。笑

このストーリーなんと著者の実体験がベースになっているという驚き。

貧しさに端を発する不幸の物語というのは、見ていて辛いものがあります。豊かな国の普通の家庭に生まれていればおよそ経験しなかった不幸を背負わされる、貧しい地域に生まれた子どもたち。そんな彼らが犯罪に手を染める姿には悲しみしかありません。貧しさ故に起こる社会問題は、個人を責めても解決しないし、人間性に訴えたところで的外れ。この問題を自分の問題として捉えてきた作者だからこそ、一見ろくでなしの登場人物に惜しみない愛を注げるのだろうと感じます。

エンディングも◎。全ての問題にカタがついて、ハッピーハッピーエンドというわけにはいかない現実的な感じがGOOD。不公平に折り合いをつけることを繰り返して生きるのが普通の人間だから。

おわり。

世界や人と繋がりたいからこそ、人は本を読むのかもしれない 「プリズン・ブック・クラブ ーコリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」アン・ウォームズリー  

こんにちは。

 

「プリズン・ブック・クラブ ーコリンズ・ベイ刑務所読書会の一年」アン・ウォームズリー

刑務所で行われた読書会を通じた受刑者の変化を追ったノンフィクション。

プリズン・ブック・クラブ――コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年

刑務所での読書会を主催するボランティアをしている友人キャロルに、読書会を一緒にやらないかと誘われたライターのアン。読書会を実施した一年で、彼女が受刑者に抱くイメージは大きく変わることになります。そして、少なからず、アンの存在は読書会のメンバーにも良い影響を与えていました。

”本を読んでどう感じたかを聞くことは、その人が持つ世界観に触れること”という言葉通り、課題図書に対する読書会のメンバーの感想は、アンたちが選書した時の予想とはかけ離れていることが多々あり、時に潔く、時に残酷な考察からは、彼らの生き抜いてきた辛い過去が推察されます。今まで知らなかった世界を垣間見たアンたちのほうにこそ学ぶことが多かったのかもしれません。

 

ゲストとして呼ばれたある作家は、刑務所読書会を見て、今までで一番良い読書会だ!と絶賛します。受刑者が時間を持て余し、娯楽も少なく、外部との交流に飢えていることがその理由。時間とエネルギーを月に1回の読書会に注ぐからこそ、議論が深まるらしい。

 

読書会が与えた良い影響は他にもあります。ムスリム、先住民、スペイン語圏などなど、受刑者は同じコミュニティの人としか関わりを持っていませんでしたが、読書会が広がる中でコミュニティの枠を超えた交流が生まれたそうです。

また、積極的に議論に参加する4人を「アンバサダー」に任命して、休みがちな人や本を最後まで読んでこない参加者へ声がけをさせ、読書会のメンバーを増やしていきました。

 

刑務所内での犯罪の多くは、孤独と暇に根ざすもの。課題を与え同じ目的を持つ仲間を増やすことで、刑期を終えた後の人生に希望を持たせることにも成功したようです。

 

受刑者の斬新?な意見には目からうろこ。

例えば、有名なジャーナリスト夫婦の、障害のある息子を育てる感動のノンフィクションを読んだときの感想は、「俺の人生は子どものせいで悪くなったということを伝えたい感じがして不快だった」「共感できない」と総スカン。小中学校の授業でこんな発言したら、「思いやりのない子!!!」と先生がヒステリー起こしそうですが、彼らには彼らなりの言い分があります。

上流階級に生まれ、高水準の教育を受け、真っ当な仕事についている人間が、子どもの障害という壁にぶち当た「俺の未来が…」と嘆いても全くピンとこない。しかも、ナニーも雇って受けられる全ての医療サービスを受けてて、、、それ以上に困っているヤツはもっといる気がするんだけど…と、「ちょっと何言ってるかよくわかんない」ばりの塩対応。笑

 

これにはアンも驚き、受刑者に対する思いやりが足りなかったと反省します。

薬に走り売人をしたり悪い組織にいたりした受刑者たちの多くは、幼少時代、良い家庭に恵まれなかったことが多いです。経済的に困窮し、親の愛も得られなかった。ワルいことをしていた頃は、暴力や嘘・裏切りなんて日常茶飯事で、人の善に触れることが少なかった彼らと、両親から愛され普通の人生を歩んできたアンたちの世界の捉え方は全然違いました。

 

また、主催者である元ラジオパーソナリティのキャロル。彼女の、読書会を開催する意気込みや行動力には感服しますが、「受刑者を教え導きたい」という下心が見え透いていて、個人的にはなかなか好きになれません。基本的に受刑者を”下”に見ている感あり。アンは「自分の子どものように思っている」と好意的に解釈していますが、選書の基準や会の”まわし方”には薄っぺらさを感じる時が。

キャロルには「理想とするヒーロー・ヒロイン像を与えたい」「読書によって彼らを中流階級に引き上げたい」という若干おこがましい動機があるんですが、受刑者たちと交流している時間はアンなんかよりも長いはずなのに、いつも空回っているきらいがあります。彼女、アンに比べて読書会を通じて何かを学んでいない&成長していない説が濃厚。笑

 

例えば、「スリー・カップス・オブ・ティー」の会。「スリー・カップス・オブ・ティー」とは、パキスタンアフガニスタンに学校を作る登山家について取り上げたいわく付きのノンフィクションですが、この登山家を絶賛してこんな風に問いかけるのです。

 

「実に英雄的だわ!こんな英雄になるためにはどうすればいい?」

なんか薄い!すっごい薄い!!どうすればいい?ってw

 

その問いに対してある受刑者は「一度遠征に行くと4ヶ月も帰って来ないけど、妻の我慢強さに甘えていないか?」と回答。他にも「すごいけど・・・(無言)」「動機が曖昧?」と微妙な反応が返ってくる。

 

また、ある受刑者が「タリバンに誘拐された話がいろいろ矛盾している気がする」と指摘します。やばい組織に所属していた経験がある彼は、この誘拐話にいくつかの違和感を感じた模様。その彼の直感は、約6週間後に、この本の著者の誇張・横領・捏造が明らかになることで証明されたのでした。やっぱり”その筋のモン”の直感って侮れんな…。

 

選書にもセンスが必要です。世界の暗部を見尽くした受刑者たちにテキトーな本を持っていくと、逆に失望させてしまうことにもなりかねません。ただ、こういった、受刑者との価値観の違いを際立たせる出来事は多々ありましたが、彼らとの関係は大変良好。車で何時間もかけて、本を携えて自分たちを訪れるアンたちには、深い感謝をしているようです。特に読書日記をつけた受刑者の変化はめざましい。

 

受刑者の精神疾患率は高いそうで、劣悪な環境の中、精神的に病んでいく人も少なくないようです。何年もの刑務所暮らしの中で、正気を保つこと、そして未来に希望を持つことは想像以上に難しいはず。そんな彼らに”良質な本”を与え、率直な思いを語れる読書会を心の支えにした受刑者はたくさんいたようです。

世界や人と繋がりたいからこそ、人は本を読むのでしょう。そしてそれを語り合える仲間がいるということはなんと素晴らしいことか。

 

”罪を憎んで人を憎まず”とかいう言葉にはそこはかとない偽善の香りを感じていた私でしたが、本に真剣に向き合った受刑者の本音を耳にすると、人間が更生する可能性を強く感じました。

 

おわり。